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  F1今昔物語 1992年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 全戦有効得点制になって2年目のシーズン。
 開幕前、A.プロストがリジェでテストしたものの、契約には至らなかった。彼は今季一年を休養する。
 無限ホンダ・エンジンが登場した。元々、本田宗一郎の息子らによって1973年に創設された。創設者は親子だが、ホンダと資本関係はない。昨年のティレル用のホンダV10エンジンの開発を引き継ぎ、今季はフットワークへ供給するという形で挑戦が始まった。同じく日本のヤマハ・エンジンは今季ジョーダンに供給される。また、スクーデリア・イタリア-ダラーラがフェラーリ・エンジンを装備する。
 ラルースが、新たにフランスの自動車メーカー、ヴェンチュリーの傘下に入った。車体もヴェンチュリー製(正確にはR.ハードのフォメットをヴェンチュリーが買収した組織)となった。
 そのヴェンチュリー-ラルースから、日本人3人目のフル参戦ドライバーとして、片山右京がデビューした。他にも、中谷明彦がブラバムから参戦する話しがあったが、スーパーライセンスが降りなかった。中谷の代わりにブラバムのシートに坐ったのは、F1史上5人目の女性ドライバー、G.アマティであった。
 レイトンハウスがF1事業から撤退し、チームは再びマーチの名前に戻った。
 前年末、コローニを買収したアンドレア・サセッティは、アンドレア・モーダというチームで参戦を計画した。
 フェラーリの新車F92Aには、変わった技術が施されていた。ツインアンダートレイといって、簡単に言うと、ボディの下に一枚板が敷いてあるような具合である。マシン下部の空気の流れを重視して、考え出されたものらしい。他にも、全体的に戦闘機のような形をしているという特徴があったため、期待は高く、評判がよかった。ドライバーには、J.アレジのほか、I.カペリが新たに起用された。M.アルボレート以来のイタリア人である。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン MP4/6B MP4/7 ホンダ(V12) 1、アイルトン・セナ
2、ゲルハルト・ベルガー
残留
残留
GY
ティレル 020B イルモア(V10) 3、オリビエ・グルイヤール
4、アンドレア・デ・チェザリス
フォンドメタル
ジョーダン
GY
ウィリアムズ FW14B ルノー(V10) 5、ナイジェル・マンセル
6、リカルド・パトレーゼ
残留
残留
GY
ブラバム BT60B ジャッド(V10) 7、エリック・バン・デ・ポール
8、ジョバンナ・アマティ
8、デイモン・ヒル
モデナ・ランボ
新人
新人
GY
フットワーク FA13 無限(V10) 9、ミケーレ・アルボレート
10、鈴木 亜久里
残留
ラルース-ローラ
GY
ロータス 107 フォードHB(V8) 11、ミカ・ハッキネン
12、ジョニー・ハーバート
残留
残留
GY
フォンドメタル GR01、GR02 フォードHB(V8) 14、アンドレア・キエーザ
14、ガブリエル・タルキーニ
新人
残留
GY
マーチ CG911 イルモア(V10) 16、カール・ベンドリンガー他
17、ポール・ベルモンド他
新人
新人
GY
ベネトン B191B、B192 フォードHB(V8) 19、ミハエル・シューマッハ
20、マーティン・ブランドル
残留
ブラバム
GY
スクーデリア・イタリア-ダラーラ BMS192 フェラーリ(V12) 21、J-J.レート
22、ピエルルイジ・マルティニ
残留
ミナルディ
GY
ミナルディ M192 ランボルギーニ(V12) 23、クリスチャン・フィッティパルディ
24、ジャンニ・モルビデリ
新人
残留
GY
リジェ JS37 ルノー(V10) 25、ティエリー・ブーツェン
26、エリック・コマス
残留
残留
GY
フェラーリ F92A、F92AT フェラーリ(V12) 27、ジャン・アレジ
28、イヴァン・カペリ他
残留
レイトンハウス
GY
ヴェンチュリー-ラルース LC92 ランボルギーニ(V12) 29、ベルトラン・ガショー
30、片山 右京
ジョーダン
新人
GY
ジョーダン 192 ヤマハ(V12) 32、ステファノ・モデナ
33、マウリシオ・グージェルミン
ティレル
レイトンハウス
GY
アンドレア・モーダ S921 ジャッド(V10) 34、ロベルト・モレノ
35、ペリー・マッカーシー
ベネトン他
新人
GY

 ■ 3月1日 第1戦 オーストラリア
 アパルトヘイトが廃止された南アフリカで、7年ぶりの開催となった。レイアウトも以前と大きく変わり、中速コースとなった。
 ウィリアムズのマンセルが、金曜日のフリー走行と土曜日の予選で1位、決勝でも全周回1位でFLと、競えるものは何もかも1位で終えた。こういうのを当サイトでは、全セッション勝利と呼ぶことにする。スタート直後に、4番手のR.パトレーゼも2位につけ、そのままワンツーフィニッシュとなった。

 ■ 3月22日 第2戦 メキシコ
 メキシコGPは、予選でセナが大クラッシュを演じるなど、バンピーでほこりっぽい路面がとかくに不評で、今年で開催が最後となる。
 セナは土曜日にはイベントに復帰し、予選6位につけた。ベネトン勢が3位4位。フェラーリはアレジが10番手、カペリが20番手で、片落ちエンジン搭載のダラーラよりも遅かったため、開幕前の期待がしぼんだ。ウィリアムズ勢は、これら下位を1秒近く離した。リアクティブ・サスペンションがバンピーな路面に対して巧みに機能している様子が、オンボード映像からも見て取れた。
 決勝もそのままウィリアムズ勢の独走となった。M.シューマッハがとうとう表彰台にのぼった。片山右京が、チェッカー後、ヘルメットを被ったまま嘔吐してしまった。

 ■ 4月5日 第3戦 ブラジル
 マクラーレンが新車、MP4/7Aを持ち出してきた。しかし期待むなしく、予選ではウィリアムズ勢がまた下位に1秒以上の差をつけた。そのなかでもマンセルはパトレーゼに1秒の差をつけた。加えて、アタック中のセナを抜こうとしてクラッシュするというハプニングを起こした。
 マクラーレンの新車は不調で、ベルガーはピットスタートの末、4周目リタイヤ。セナも大渋滞をつくったうえ、17周目にリタイヤした。レースは、ウィリアムズ勢が3戦連続のワンツーフィニッシュを決めた。
 フォンドメタルのG.タルキーニがウィリアムズ勢に次ぐ3番目のファステストラップを記録した。マーチのK.ベンドリンガーが5位のFLを記録した。
 欧州ラウンドを前にして"ずっこけ"が目立ったのは、チームとしてマクラーレン、フェラーリ。ドライバーとしてカペリ、予選で若手に負けているブーツェン、110%のタイムで予選落ちするアマティといったところであった。このうち、アマティは早くもチームを解雇された。

 ■ 5月3日 第4戦 スペイン
 ベネトンの新車、B192が登場した。
 決勝は雨、アレジが好スタートで3位に浮上した。19周目、パトレーゼが単独スピンを起こしてリタイヤし、ウィリアムズのワンツー体制が今季初めて崩れた。
 スピンでレースを終えた者は11名にも及んだ。マンセルは危なげないレース展開で、再び完全勝利を遂げた。M.シューマッハが2位で3戦連続表彰台。アレジは炎の走りで3位表彰台に立った。フットワークとダラーラが、今季初入賞を果たした。

 ■ 5月17日 第5戦 サンマリノ
 ウィリアムズ勢がまた独走を見せ、マンセルが開幕5連勝を飾った。アレジがタイヤ無交換作戦で3位に浮上する。しかし40周目、セナに屈した。続いてベルガーにも追い抜かれようとするとき、接触が起きて両者リタイヤとなった。
 セナは体調不良のため表彰台に現れなかった。

 ■ 5月31日 第6戦 モナコ
 アンドレア・モーダのR.モレノが予備予選を突破、本予選もギリギリの26位で通過し、チーム唯一の決勝出走を果たした。彼に予備予選通過を許した(代わりに不通過になった)のは、片山右京である。決勝は、一度もテレビに映らず、11周目にリタイヤした。モレノ最後の、やはり日の目を見ない、けれども忘れがたき晴れ舞台であった。
 ウィリアムズがまたしてもフロントローを占めた。しかし、スタート1コーナーでセナがパトレーゼの前に出た。マンセルがいつもの独走を見せ、2位以下に30秒近くの差をつけてレース終盤になった。
 またいつものパターンかと思われた残り8周、次のような実況が茶の間に流れた。「ああっと、これはどっちだ!? ナイジェル・マンセル、ピットイン! ナイジェル・マンセルがピットインです!」タイヤの空気圧に問題が発生し、マンセルは緊急ピットインを余儀なくされたのだった。その間にセナが先頭に立った。
 1992年シーズン、ここまでマンセルの天下が崩れる場面は、全く見られなかった。マンセルがトップを譲ったのは、第3戦の前半、パトレーゼに対してのみである。つまりウィリアムズ以外、先頭を走ってもいない。その図式がここではじめて崩れた。
 マンセルはコースに復帰すると、物凄い勢いでセナを追いかけはじめた。「マンセルの目はライオンのようになった」とは、総集編での表現である。このときのファステストラップ1:21:598は2位以下を2秒近く引き離していた。マンセルはモナコで一度も勝っていなかった。
 残り5周でマンセルはセナの背後についた。ここからの争いは、15年以上経った今でも、一番の名勝負として日本のF1ファンの間で語り継がれている。チェッカーまで、2台は極めて緊迫した接近戦を演じた。直線では2台の差が若干開き、カーブになるとスレスレまで接近しつつ、隙をうかがってまたはブロックのため左右に揺れた。三宅氏の実況までもが有名になっている。モナコ50回記念レースとも呼ばれた。
 最後までセナが防ぎきり、マンセルの開幕6連勝、モナコ初勝利の夢は途絶えた。レース後、マンセルは半ば呆れた顔で路上に腰をおろし、セナの勝利を称えた。こういう、潔くて素直なところが、マンセルが人気者である理由の一つであった。

 ■ 6月14日 第7戦 カナダ
 前GPの勢いそのままに、セナが今季初のPPを奪った。決勝でもレースの主導権を握った。しかし、2位のマンセル以下が抑えられ、数珠繋ぎになった。
 しびれを切らしたマンセルは、15周目の最終コーナーでセナに襲い掛かる。が、大きくコースアウトし、そのままリタイヤとなった。マンセルはセナのコース取りが気に食わなかったようで、怒りを露わにした。通過するセナにこぶしを突き上げたり、マクラーレンのピットでロン・デニスに掴みかかったりと、大暴れであった。2週間前の爽やかな一幕とは真逆の行動である。このような、いいところでの自滅ぶりや喜怒哀楽の激しさも、マンセルが人気者である理由の一つであった。
 レースはセナ、ベルガーで、マクラーレンのワンツー体制となった。が38周目に、セナがマシントラブルでリタイヤとなった。しばらくすると、パトレーゼ、ブランドルと、上位を走るドライバーが次々とマシントラブルで消えた。
 勝者はベルガーで、実力で勝ったレースは3年ぶりとなる。K.ベンドリンガー、A.デ・チェザリス、E.コマスの入賞も光る。ベンドリンガーとコマスはキャリア初の入賞で、コマスがもたらしたリジェの入賞も、3年ぶりのものであった。

 ■ 7月5日 第8戦 フランス
 フランスのトラック協会がストライキを起こして、アンドレア・モーダが機材を運ぶことができず、イベントに参加できなかった。
 前GPで初の全滅を喫したウィリアムズ、ここでは調子を取り戻し、またフロントローを占めた。1周目、M.シューマッハがセナに追突し、リタイヤに追い込んだ。今回はマンセルではなく、パトレーゼがレースを引っ張った。
 中盤に差しかかる頃、雨が降ってきてレースは赤旗中断になった。中断中、セナがM.シューマッハを呼び出し、先ほどの追突の件で、注意を促した。
 17周目にレースが再開された。しかしM.シューマッハがまたしても追突事故を起こした。モデナのマシンに派手に乗り上げ、サスペンションを壊してリタイヤとなったのだった。
 再スタート後もパトレーゼが先頭を維持するが、21周目にあっさりとマンセルに順位を譲った。そのまま、いつもの順番でワンツーフィニッシュとなった。
 ロータスが2台とも入賞した。イモラでハッキネンが予選落ちを喫する場面もあったが、このあたりからパフォーマンスが向上してくる。予選でもシングルグリッドが増えていく。
 ブランドルの連続入賞がここから始まった。また、この表彰台は、記録上はキャリア初の表彰台、しかも96戦目で史上最遅のものである。ただし、'84年、ティレルの水タンク事件によって取り消されたデトロイトでの2位を考慮しなければ、の話しである。

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 ■ 7月12日 第9戦 イギリス
 地元ではいつも絶好調のマンセル、予選で2位パトレーゼに、なんと2秒弱の差をつけた。決勝も絶好調で、FL・全周回1位でチェッカーを受けた。こうして、フリー走行・PPを含めて、再び全セッション勝利を遂げた。
 「唯一白黒の旗チェッカーフラッグ! あとは全部ユニオンジャック! マンセル、天高くこぶしを突き上げる。己の空。満員の観客に応えています」
 フットワークのM.アルボレートが、4戦連続で7位完走を続けた。
 また、後のチャンピオン、ブラバムのデーモン・ヒルが決勝出走を果たし、F1デビューを飾った。このときのブラバムは青息吐息の状態で、ピンクの毒々しいカラーリングに、日本のへヴィメタバンド「聖飢魔U」の文字が描かれていた。リーダーのデーモン小暮が、同じ名前に興味を示して出資したのである。

 ■ 7月26日 第10戦 ドイツGP
 ホンダがF1から撤退するという噂が流れた。
 マンセル、セナ、パトレーゼの上位3台が好ファイトを見せた。終盤のセナとパトレーゼの2位争いは、ファイナルラップまで続いた。アジップへの進入でパトレーゼがセナのインを突こうとする。が、コントロールを失ってカーブを直進しリタイヤとなった。代わりにM.シューマッハが3位表彰台に立った。

 ■ 8月16日 第11戦 ハンガリー
 資金難のブラバムは、この一戦を最後にレースを欠場する。最後の一戦では、D.ヒルが2度目の予選通過を決めた。
 チャンピオンに王手をかけたマンセル。プレッシャーがかかったのか、本戦のPPはパトレーゼが奪った。決勝レースもどこか動きが固く、ベルガーと3位を争うに留まっていた。
 今回はパトレーゼが独走を見せたが、レース半ばに単独スピンを喫した。順位を大幅に落とし、55周目にエンジンが壊れてリタイヤとなった。となると、マンセルは3位でタイトルが確定するが、パンクが起きてピットインを強いられた。セナ、ベルガー、M.シューマッハ、ブランドル、ハッキネンの次で復帰する。
 ここからマンセルの走りに喝が入った。63周目にFLをたたき出す。64周目、ブランドルの追突を受けてM.シューマッハがリタイヤし、マンセルは5位に浮上。そして、それから5、6周のうちにハッキネン、ブランドル、ベルガーを次々に抜いていった。
 マンセルは2位でチェッカーを受け、念願のタイトルを手にした。シーズン11戦目でのタイトル確定は、当時の最速記録(年16戦以降で)であった。
 セナの言葉が暖かい。「ナイジェルについては…、それぞれ感じ方も違うし性格も違うけど、みんなレースを愛しているし、そのために危険も冒している。 苦痛にも耐えて、多くのことを犠牲にしている。 でも、それもナンバーワンになるためさ。 そういう意味で、とにかくナイジェルには長い道のりだったと思う」(『GPX』より)

 ■ 8月30日 第12戦 ベルギー
 マンセルが予選で再び下位に2秒差をつけた。しかし、彼は翌シーズンのこととなると、表情が曇ってしまう。ウィリアムズとの契約が上手くいかないのである。一方で、ベルガーがフェラーリへ再加入を決めた。
 また、予選中、コマスが派手なクラッシュを起こし、真後ろを走っていたセナが、マシンを降りてコマスに駆けつけるという一幕があった。
 レース開始に合わせて雨が降ってきた。6周目までには各車ピットインしてレインタイヤに履き替えた。セナだけがスリックタイヤのまま、コースに残った。つまり首位に立った。しかし、雨足は弱まらず、セナは後退していった。セナはレインタイヤに交換したが、逆にその頃から雨足が弱くなっていった。このように、雨の動向を正しく読むことがこのレースを制するカギとなった。
 F1二年目のM.シューマッハは、中盤、コースアウトを喫し、ブランドルの真後ろで復帰した。このとき、M.シューマッハは、ブランドルのマシンのタイヤにブリスター(熱したタイヤの中の水が沸騰して、気泡ができること)が発生しているのを見抜いた。
 これは慧眼で、M.シューマッハは緊急にピットインを敢行、他のマシンがタイヤ交換に遅れている間に、彼が首位に立った。初めて訪れたラップリーダーの座を、M.シューマッハはしっかり守りきって初勝利に結びつけた。デビューからちょうど1年の出来事であった。
 ウィリアムズ勢が2位3位に入り、コンストラクターズ・タイトルも決定した。こうしてチャンピオンシップが終わりを告げると、翌年の布陣に向けた動きが、一気に活発化していく。

 ■ 9月13日 第13戦 イタリア
 サーキットの周辺が慌しい。まず、アンドレア・モーダが前GPでの部品購入の際、文書を偽造したとして、F1からの追放処分を受けた。それから、ホンダが正式に今季限りでの撤退を表明した。セナはインタビューで涙を流した。
 続いてドライバーのシート争い。マンセルとウィリアムズの契約は破綻し、マンセルは今季限りでの引退を決めた。記者会見の席上、ウィリアムズが最後の留意の使者を遣わせたが、マンセルの意志は変わらなかった。そして、パトレーゼもベネトンへの移籍を発表した。こうして今季のナンバーワンチームのシートががら空きになった。
 レースは、序盤でウィリアムズがいつものワンツー体制を築いた。マンセルはパトレーゼに母国勝利をプレゼントしようとしたが、後に二台ともトラブルからリタイヤした。
 アルボレートの7位は、今季6回目である。

 ■ 9月27日 第14戦 ポルトガル
 マンセルはアメリカのCARTへの参戦が決定し、プロストがウィリアムズ入りを発表した。フォンドメタルが資金難から本戦を欠場し、そのまま活動を中止した。
 パトレーゼのピット作業にミスが発生し、マンセル、セナ、ベルガー、パトレーゼの順になった。パトレーゼはベルガーと接近戦を演じる。43周目、ピットインしようとしたベルガーの後輪に、隙をうかがっていたパトレーゼが乗り上げ、大クラッシュが発生した。幸いにも怪我人はなかったが、あわや大惨事であった。「オンボードカメラに空が映ってはいけませんよ」と、パトレーゼは怒りを露わにした。
 勝者はマンセルで年9勝の新記録を樹立した。

 ■ 10月25日 第15戦 日本
 今季、5位1回、6位1回、予選も中団から下位をウロウロ、…という余りの不振ぶりから、カペリがフェラーリを解雇された。
 セナがレース前に来日し、様々なテレビ番組に出演した。また、本戦ではヘルメットに日の丸を入れた。
 ヤン・ラマースというドライバーが10年ぶりにF1で走ることになった。マーチに搭乗し、チームメイトを上回る予選タイムを記録した。
 レースはセナが3周目に、マンセルも終盤に、それぞれエンジントラブルでリタイヤした。パトレーゼがようやく今季初勝利をとげた。2位ベルガー、3位ブランドルと、セカンドドライバーたちが表彰台を占めた。C.フィッティパルディが初入賞。
 レース後、セナは日本のファンに向けて、メッセージを送った。

 ■ 11月8日 最終の第16戦 オーストラリア
 今回は、セナがマンセルについていった。19周目、両者は接触して2台ともリタイヤとなった。この時点では最後のレース(後に数戦だけ復帰する)となるマンセルに対し、セナは握手を求めたが、拒絶されてしまった。マンセルはこのリタイヤにご立腹のようで、最後まで彼ららしいと言えばらしい、別れの一幕であった。
 ホンダ最後の一戦は、結局ベルガーが制した。「節目節目のベルガーですね」とは今宮純氏の談である。
 リジェのブーツェンとジョーダンのモデナが、今季唯一の入賞を最後の最後で果たした。
 M.ブランドルは、9連続入賞でシーズンを終えた。カナダGP終盤でのマシントラブルが無かったら、11戦連続になった。ただし、予選はM.シューマッハに全敗で、1周もラップリーダーになっていない。こういうところも含めて、いぶし銀の活躍であった。

 ■ シーズン後
 ウィリアムズのフロントローは10回、ワンツーフィニッシュは6回を数えた。なかでもマンセルのPP14回は、史上最高の数字である。
 ブラバムの長い歴史に終止符が打たれた。ドライバーズタイトル4回(1966、1967、1981、1983)、コンストラクターズタイトル2回(1966、1967)。最後の優勝は'85年フランスGPでのN.ピケ、最後の表彰台は'89年モナコGPでのS.モデナ、最後の入賞は前年の日本GPでのM.ブランドルによるものであった。
 もう一つ、マーチの名前も見納めになることが決まった。といっても、1970年設立のマーチは'70年代後半に幕を閉じ、'80年代は、RAMやレイトンハウスにシャシーを供給していたに過ぎない。マーチは、そのシャシー供給からも撤退するのであった。
 アンドレア・モーダとフォンドメタルも撤退したことは、前述の通りである。

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