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  F1今昔物語 1991年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 ポイント制度に変更があった。1位9点だったのが10点になり、全戦が有効得点となった。
 N.マンセルがウィリアムズに移籍した。J.アレジはフェラーリへ。
 ベネトンの有名な吊り下げ型ウイングは、いまだ開発中である。ホンダはエンジンをV10からV12へ切り替えた。このホンダ・エンジンを、マクラーレンの他にティレルも装備する。活躍が期待された。
 アロウズは日本のフットワークに買収され、チーム名も変わった。復帰したポルシェ・エンジンを搭載するということで、活躍が期待された。ミナルディはフェラーリエンジンを搭載し、こちらも活躍が期待された。
 さらに、初参戦のジョーダンも高価なフォードHBエンジン搭載ということで、台風の目のような存在として注目された。元F3ドライバーで銀行マンの経験もあるという、エディー・ジョーダンが率いるチームである。
 一方、ラルース-ローラは惨憺たる状況に陥った。ランボルギーニエンジンを失い、コンストラクターズ・ポイントを剥奪され、メインスポンサーのエスポが倒産する、という三つの憂き目に遭った。同様にロータスも、メインスポンサーであるキャメルタバコを失い、スタッフの離脱が相次いで、一時、"虫の息"と呼べる状況にまで陥った。このような落ち目のチームには、日本企業の支援が目立った。ブラバムは、日本のミドルブリッジ・グループが支援し、マシンにはヤマハエンジンが搭載された。
 10月頃になるが、FISA(現FIA)の会長がフランス人のJ-M.バレストルから、イギリス人M.モズレーに変わった。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン MP4/6 ホンダ(V12) 1、アイルトン・セナ
2、ゲルハルト・ベルガー
残留
残留
GY
ティレル 020 ホンダ(V10) 3、中嶋 悟
4、ステファノ・モデナ
残留
ブラバム
PI
ウィリアムズ FW14 ルノー(V10) 5、ナイジェル・マンセル
6、リカルド・パトレーゼ
フェラーリ
残留
GY
ブラバム BT60Y ヤマハ(V12) 7、マーティン・ブランドル
8、マーク・ブランデル
復帰
新人
PI
フットワーク FA12 ポルシェ(V12) 9、ミケーレ・アルボレート
10、アレックス・カフィ
残留
残留
GY
ロータス 102B ジャッド(V8) 11、ミカ・ハッキネン
12、ジュリアン・ベイリー他
新人
 
GY
フォンドメタル-フォメット F1 フォードDFR(V8) 14、オリビエ・グルイヤール
14、ガブリエル・タルキーニ
残留
AGS
GY
レイトンハウス CG911 イルモア(V10) 15、マウリシオ・グージェルミン
16、イヴァン・カペリ
残留
残留
GY
AGS JH27 フォードDFR(V8) 17、ガブリエル・タルキーニ
18、ファブリツィオ・バルバッツァ
残留
新人
GY
ベネトン B191 フォードHB(V8) 19、ロベルト・モレノ
19、ミハエル・シューマッハ
20、ネルソン・ピケ
残留
新人
残留
GY
スクーデリア・イタリア-ダラーラ BMS191 ジャッド(V10) 21、エマヌエーレ・ピッロ
22、J-J.レート
残留
オニクス
PI
ミナルディ M191 フェラーリ(V12) 23、ピエルルイジ・マルティニ
24、ジャンニ・モルビデリ
残留
新人
GY
リジェ JS35 ランボルギーニ(V12) 25、ティエリー・ブーツェン
26、エリック・コマス
ウィリアムズ
新人
GY
フェラーリ 643 フェラーリ(V12) 27、アラン・プロスト
28、ジャン・アレジ
残留
ティレル
GY
ラルース-ローラ LC91 フォードDFR(V8) 29、エリック・ベルナール
30、鈴木 亜久里
残留
残留
GY
コローニ C4 フォードDFR(V8) 31、ペドロ・チャベス
31、服部 尚貴
新人
新人
GY
ジョーダン 191 フォードHB(V8) 32、ベルトラン・ガショー
32、ミハエル・シューマッハ
33、アンドレア・デ・チェザリス
コローニ
新人
スクーデリア・イタリア
GY
モデナ・ランボ 291 ランボルギーニ(V12) 34、ニコラ・ラリーニ
35、エリック・ヴァン・デ・ポール
ユーロブルン
新人
GY



 ■ 3月10日 第1戦 アメリカ
 開幕前のテストではフェラーリが好調だった。マクラーレンの新車は一週間前に仕上がったばかり。新型エンジンの性能への期待も入り混じって、緊張の開幕戦となった。ところが、A.セナは予選でチームメイトを2秒以上、2位でさえ1秒以上も差をつけた。決勝レースも危なげなくこなし、幸先よいシーズンのスタートを切った。
 レース中、R.パトレーゼとR.モレノの激しいクラッシュがあった。Nピケはギリギリでこれを交わした。ピケは最終的には3位表彰台へ。
 期待のティレル・ホンダが2台とも入賞した。ラルースの鈴木亜久里は殊勲の6位入賞を果たした。

 ■ 3月24日 第2戦 ブラジル
 2度も覇者となったセナにも、まだ悲願というものが残っていた。母国GPで地元ファンに勝利をプレゼントすることである。
 ウィリアムズ勢が好調だったが、セナは今回もPPからスタートを決めた。2番手マンセルは、中盤にトラブルが頻発し、60周目、リタイヤに追い込まれた。R.パトレーゼが2位に浮上する。
 このときセナのマシンはペースが緩んだ。ギヤが次々と使えなくなっていったという。実際にオンボードカメラの映像ではギヤを操作していない。残り7周、セナは6速だけでの走行を強いられた。
 雲が立ち込めてきた。セナ、パトレーゼの順でチェッカーが振られた。同時にスコールが始まった。「サンパウロの雨が祝っている」とは今宮純の表現である。大雨の中、興奮したセナの絶叫が響き渡った。天才と呼ばれる男の、内に秘めた情熱が露わになった。国旗を持ってウイニングランを走る。が、疲労のため途中で止まった。セナはしばらくマシンから降りられないほど、体力を消耗していた。これで、チャンピオンとして地元で勝った、E.フィッティパルディ、N.ピケに並んだ。

 ■ 4月28日 第3戦 サンマリノ
 前GPから一ヶ月以上が経過し、この間、各チームは新車を完成させた。革新的な吊り下げ型ウイングを持つベネトンB191が、本戦でお披露目となった。
 決勝日は雨模様となった。完全ウェット状態のフォーメーションラップで、プロフェッサーと呼ばれるプロストが、スピンして芝生から動けなくなった。レーススタート後、アレジもスピンでリタイヤし、フェラーリは地元でこれ以上ないほど無様な結果に終わった。
 スタート直後には、他にもマンセルとピケがアクシデント・スピンで消えた。先頭はパトレーゼ。しかし再び電気系のマシン・トラブルで17周目にリタイヤした。こうして、マクラーレン、ティレルのホンダエンジン勢が1〜4位を占めたが、これも一時的なもので、ティレル勢も中盤までにマシントラブルでレースを終えた。
 ここまで上位陣がリタイヤすると、マクラーレンの独壇場になる。彼らは以下の全車を周回遅れにした。モデナ・ランボのE.ヴァン・デ・ポールが、5位走行中の残り5周というところで、ガス欠によりリタイヤした。
 スクーデリア・イタリアのJ-J.レートは、予備予選組からの3位表彰台を達成した。資金難で苦しいロータスは2台入賞を果たした。

 ■ 5月12日 第4戦 モナコ
 S.モデナが予選で2位につけた。M.ブランドルは車重測定を無視して失格となった。フットワークのA.カフィは足を骨折する事故を起こし、以後2ヶ月ほど戦列を離れた。空いたシートにはS.ヨハンソンが座った。
 予選も決勝もセナの一人舞台だった。一時、彼のマシンがマーシャルを跳ねそうになる場面があった。S.モデナは次第に後退し、43周目、エンジンが壊れてリタイヤとなった。
 決勝から4日後、フェラーリのC.フィオリオ監督が解任された。プロストとの不和が主な原因とされる。お家騒動である。フェラーリにこれが起きると成績不振になる、で相場が決まっている。
 本戦で6位入賞のE.ピッロは、F1では2回の入賞に終わった。のちスポーツカーに活躍の場を見出し、ル・マン24時間で2000年から現在(2007年)までに5回の優勝を成し遂げている。

 ■ 6月2日 第5戦 カナダ
 セナは、史上初の開幕4連勝(それもポール・トゥ・ウィンで)を達成。しかし、ここからウィリアムズ勢が巻き返した。
 彼らはまず、予選でフロントローを占め、セナを7連続PPで止めた。決勝ではマンセルが先行し、以後リードを築いていく。3周目、鈴木亜久里のマシンから大きな炎が上がった。
 パトレーゼはタイヤのパンクで後退した。しかし、マンセルの独走が続いていて、F.ウィリアムズも満足げであった。
 しかししかしの最終ラップ、半周をすぎたあたりでマンセルが突然のスローダウンを起こした。観客に手を振ろうとした瞬間、キルスイッチ(緊急時にマシンの電気系統を止めるボタン)を押してしまったと言われている。フランク代表の顔が凍りついて、瞬きすらなくなった。勝利はベネトンのN.ピケの手に渡った。S.モデナが2位に。
 ピレリタイヤは'89年の復帰後、唯一の勝利をあげた。ジョーダンは2台で初入賞を果たした。

 ■ 6月16日 第6戦 メキシコ
 前GPからの休暇中、セナがヨット事故を起こし、後頭部を5針(10針という記述もある)縫う怪我を負った。インタビューでは、「縫った分だけポイントを取れればよい」と語った。さらに、金曜予選でマシンがひっくり返るほどのクラッシュを起こした。歯車がかみ合わない。セナはウィリアムズの脅威を感じており、フジテレビのカメラに向かって「ホンダ、もっとパワーを!」と訴えた。
 再びフロントローをウィリアムズ勢が占めた。スタートでマンセル、アレジ、セナ、パトレーゼの順になる。翌周にはセナがアレジを抜くが、パトレーゼが好調で、11周目には2位に浮上した。このレースは結局この2台の争いが主だった。勝負の分かれ目は15周目に訪れた。それまで先行していたマンセルにパトレーゼが並び、激しいサイドバイサイドの攻防が起きた。パトレーゼはこれを制し、最後は1.3秒差でウィリアムズ勢がワンツーフィニッシュを遂げた。
 4位のA.デ・チェザリスは、最終ラップに止まったマシンを自分で押してゴールした結果である。

 ■ 7月7日 第7戦 フランス
 ☆マニクール…リジェの本拠地に近く、1991年からの開催には、ギ・リジェ(とミッテラン大統領)の政治的影響があったのではと考えられる。平凡なレイアウトで、ポールリカールの方が面白かったと言うファンが多い。初年度には、アデレードヘアピンのあとにS字コーナーがあった。

 フットワークがポルシェエンジンを搭載していたことは前述したが、これが重くて壊れやすい出鱈目エンジンだった。予選突破もままならないし、決勝に進んでもチェッカーまでもたなかった。そのため本戦よりフォードDFRに換装された。かつてのチャンピオンエンジンは、惨めな成績でF1を去った。
 フェラーリの新車643が登場した。予選でもプロストが2位につけた。PPは3戦連続でパトレーゼがものにした。
 ところがパトレーゼはスタートを失敗し、プロスト、マンセル2台の争いになる。22周目、アデレードヘアピンにてマンセルがプロストから首位を奪った。タイヤ交換で再び順位が入れ替わる。しかし55周目、再びアデレードヘアピンにてマンセルがプロストから首位を奪った。

 ■ 7月14日 第8戦 イギリス
 コース改修があり、シルバーストンは高速サーキットから中・高速サーキットに変貌した。
 予選、マンセルが予選終了間際にトップタイムを大きく上回るという、セナのようなパフォーマンスを見せて、PPの位置についた。
 決勝スタート直後、パトレーゼがベルガーに無闇に幅寄せし、接触してリタイヤとなった。セナが一瞬トップに立つ場面もあったが、ハンガーストレートでマンセルに抜かれた。そのままマンセルが独走して勝った。
 セナは2位で最終ラップを迎えた。ところが、燃料計算のミスで、ガス欠が発生、マシンが止まってしまった。コース脇にたたずむセナを、勝者マンセルがマシンの傍らに乗せてウイニングランを走った。現在はルールでこのような行動は禁止されている。この時期のウィリアムズの優位を象徴するシーンであった。

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 ■ 7月28日 第9戦 ドイツ
 レース前、中嶋悟が今シーズン限りでの現役引退を表明した。予選、PPはマンセル、セナは2位がやっとであった。
 決勝が始まると、マンセル、ベルガー、セナ、プロスト、パトレーゼ、アレジの順になった。14周目、ベルガーはタイヤ交換で作業ミスが起きて大きく後退した。17周目、セナとプロストが同時にピットインし、似たような位置関係で戻っていった。
 アレジだけが無交換作戦を採った。タイヤ交換が終わると、アレジ、マンセル、セナ、プロスト、パトレーゼの順になった。マンセルはすぐにアレジに襲い掛かり、首位の座を奪い返した。パトレーゼも、セナ、プロストのバトルを縫うようにして3位に浮上した。
 セナとプロストのバトルが激しい。心中もそうなのだろうけど、マシン低部がアスファルトを削って実際にも、火花が散りまくっている。当時は、車高が低く、マシン底部にチタン合金などを取り付けていたため、走行中、よく火花が散った。'90年代になると、マシン底部の空気の流れが重視されるようになり、車高が上がった。さらに'94年のルール改定でスキッドブロック(すり板)を取りつけることが義務づけられたため、このような火花は見られなくなった。
 レースの方は、やがてパトレーゼもアレジを抜いて、ウィリアムズがワンツー体制を築き上げた。38周目、プロストはエスケープゾーンに飛び出してしまい、リタイヤとなった。セナは4位でフィニッシュかと思われたが、またもや最終周にガス欠が発生し、7位完走扱いに終わった。
 ウィリアムズは4連勝、その間54点を荒稼ぎし、コンストラクターズ・ポイントで首位に立った。
 ジョーダンのデ・チェザリスが今季最上位の7番手スタートから5位入賞を果たした。この"壊し屋"に対して、E.ジョーダンはマシンを壊したら罰金という契約を交わした。彼は新参チームの期待に応えた。彼のキャリア中もっともリタイヤが少ないのがこの年(と'89年)である。'89年の表彰台などに顕著だが、この頃の彼は新参・弱小チームの牽引役を立派にこなした。

 ■ 8月10日 第10戦 ハンガリー
 8月5日、本田宗一郎が84歳で亡くなった。マクラーレンのチームは腕に喪章をつけてレースに臨んだ。氏自身は、自分が亡くなっても特別なことはするなと遺言していたらしい。
 逆転されたマクラーレンは、マシンを軽量化して本戦に挑んだ。結果、セナが1.2秒もの差をつけて、PPの指定席に戻ってきた。開幕4連勝以来のことである。
 レースでも、前半はパトレーゼ、後半はマンセルが食い下がったが、これらを寄せつけずに、そのままチェッカーを受けた。こちらも開幕4連勝以来のことである。
 レイトンハウスのI.カペリが今季初の完走と入賞を果たした。昨年から14連続リタイヤを続けていた。これは史上最多の連続リタイヤ記録となっている。
 また、ジョーダンのベルトラン・ガショーがキャリア唯一のFLを記録した。燃料が減って軽くなった71周目、予選タイムから1秒遅れという立派なFLである。しかし、彼はこの戦果でではなく、次戦で明らかになる事件(とその影響)のために、F1史に奇妙な名を残すことになる。

 ■ 8月25日 第11戦 ベルギー
 レース前、ジョーダンのB.ガショーが、前年に起こした傷害事件で有罪判決を受けて、投獄された。タクシーで運転手に催涙スプレーをかけたというものである。ジョーダンはガショーの代役として、ミハエル・シューマッハを選んだ。
 後に、F1の全てを塗り替える男のデビューである。'90年ドイツF3チャンピオン、同年マカオGPの勝者が当時の主な肩書きであった。しかし、日本のファンのあいだでは既に"脅威の新人"として話題になっていた。まず、マカオの一週間後、富士スピードウェイでのインターF3リーグで優勝したこと。夏のF3000菅生で、スポット参戦だったにも関わらず、慣れた者を大きく上回るタイムを叩きだしたことで…。
 彼は、予選でチームメイトを上回る7番手につけた。チームメイト、チェザリスの今季予選最高位に初戦で並んだことになる(とはいえ、パトレーゼがレギュレーション違反を指摘されて、17番手に落ちたことも影響している)。"さも当然だ"という顔で決勝に臨んだが、ピケを抜いてオールージュを駆け上がる途中に、クラッチを壊してマシンが止まった。
 レースはセナがリード、マンセルが首位に立つ場面もあったものの、22周目にマシントラブルでリタイヤした。するとタイヤ無交換作戦のアレジが独走する。しかし、初優勝の期待が生じ始めた30周目、エンジンから白煙が上がってリタイヤとなった。セナが首位に返り咲き、チェザリスがいいペースで2位から追い上げる。しかし残り3周というところで、この盛り上げ役のマシンも止まった。セナはスパで4年連続ポール・トゥ・ウィンを達成した。
 M.シューマッハの突然のデビューが記憶に残る一戦である。この一連の動きで、もろに被害を受けたのが、本戦でキャリア唯一のFLを記録したR.モレノであろう…。

 ■ 9月8日 第12戦 イタリア
 前GPで話題になった新人、M.シューマッハがベネトンに無理やり引き抜かれた。追い出されたのはR.モレノで、彼は不遇時代の冴えない表情に戻った。レース界は騒然となったが、モレノはジョーダンの椅子を得ることが決まった。彼はベネトンのスーツのままジョーダンのマシンを操り、初めての予選でトップ4に次ぐ9位と気を吐いた。M.シューマッハは、ピケを上回る7番手につけた。
 レースはセナが先頭で、ウィリアムズの2台が続いた。はじめはマンセルが、続いてパトレーゼがセナに挑んだ。26周目、パトレーゼはセナを抜いて先頭に立つ。しかし、翌周クラッチの故障でレースを終えた。
 タイトル争いの二人が1位、2位。タイヤ交換でマンセルが首位に立った。セナはこのとき5位まで落ちたが、攻めの走りで、2位まで復位した。
 レースはマンセルの勝利。M.シューマッハは決勝でもピケを上回る順位で、初入賞を果たした。

 ■ 9月22日 第13戦 ポルトガル
 パトレーゼが今季4回目のPPの座についた。このタイムは、マンセルのスペアカーに乗り換えた直後にマークしたものだという。
 決勝スタートで、マンセルが2位に浮上、ウィリアムズのワンツー体制となった。18周目、パトレーゼはマンセルを先に行かせた。30周目、マンセルはタイヤ交換の時機にさしかかった。
  古館「さあ、どうだこのタイヤ交換は! 7秒75、7秒75、まずまずです、まずまずです。」
  川井「ホイールが取れた!」
  今宮「ミス、ミス、大ミス!」
  古館「おぉーっと、ここで大ミス!!」
 クルーの作業ミスで右後輪が外れたのである。マンセルはステアリングを叩いて悔しがった。ピットレーン上にウィリアムズのクルーが集まった。他のマシンも続々タイヤ交換にやってくる。マンセルのマシン周辺は、アリの巣を蹴っ飛ばしたような騒ぎとなった。ピットレーン上で作業を行い、このような騒ぎを起こすのは、もちろんレギュレーション違反である。マンセルは復帰して追い上げたものの、52周目に失格となった。
 レースはパトレーゼが勝った。セナは無難に2位。フェラーリのアレジと、ミナルディのP.マルティニが好バトルを見せた。FLはマンセルの36周目、これは失格かどうかの審議中のものであり、怪しい気もする。しかし、オフィシャルWebサイトでも公式に認められている模様。ペースはよかったのだから、本当に勿体無いことが起きたのであった。

 ■ 9月29日 第14戦 スペイン
 ☆カタロニア…現地読みだとシルクイート・デ・カタルーニャ。カタロニアとは州の名前で、都市名の「バルセロナ」でこのサーキットのことを表わすことがある。1990年のヘレスにおけるM.ドネリーの事故の影響から、新設された。完成したのはGP開催の2週間前であったという。近年では、冬のテストコースとして有名である。

 3連勝するしかないマンセルに、GP前のサッカー大会で足を捻挫するという不運があった。誰も走ったことのない新設サーキットで予選が行なわれた。M.シューマッハは、2強の4人に次ぐ、つまりフェラーリ勢よりも上、、、さらに付け加えるとベテランのピケを1秒近く上回るタイムで、5番手につけた。
 レースはスタートでマクラーレンがワンツー体制を築いた。ここに一人マンセルが挑む。5周目、ホームストレートでセナに並び、ドライバー同士会話ができそうなほど接近した横並び状態のまま、長いストレートを最後まで併走し続けた。この勝負はマンセルに軍配が上がった。
 タイヤ交換で、セナは左右でタイヤの固さを変えた。タイミングの関係でマンセルの前に出た。しかしセナの奇策は裏目に出て、ペースが上がらない。ついにはスピン! 後ろのマンセルが間一髪で交わした。マンセルはその後、先頭ベルガーに襲い掛かり、21周目にその座を奪い取った。そのまま勝利に結びつけた。ベルガーは33周目にマシントラブルでリタイヤした。
 一応、ウィリアムズは3連勝で、再びコンストラクターズ・ポイントで首位に立った。しかしドライバーズポイントは16点差、マンセルは残り2戦でこれを覆せそうにない。

 ■ 10月20日 第15戦 日本
 中嶋悟の最後の雄姿を見ようと鈴鹿に多数のファンが詰めかけた。予選で、ベルガーが10年破られない好タイムを記録して、PPの座についた。ミナルディが7位8位。金曜予選では、鈴木亜久里のチームメイト、E.ベルナールがクラッシュによって足を骨折した。
 レーススタート! ベルガーが逃げ、優勝しか望みのないマンセルをセナが抑えるという構図になった。マンセルはセナのブロックを抜きあぐね、10周目にコースアウト。サンドトラップに捕まり、一年のタイトル争いがここに終わりを告げた。
 中嶋悟は、7位走行中の31周目、サスペンションの異常から、コースアウト・リタイヤで地元での最後のレースを終えた。彼がデビューした'87年のチームメイトはA.セナである。セナはナカジマの引退について、「彼は、F1が日本で認知され普及するのにすごく貢献してくれた。 …正しい選択をしたことを祈るよ」と語った(アイルトン・セナ研究所より)。
 中盤からセナが首位を独走、最終周を迎えた。セナは若干ペースを落とし、最終コーナーの立ち上がりで、後ろのベルガーに順位を譲った。この行動について、「スタート1コーナーを制した者が本戦の勝者」という紳士協定が結ばれていたとか、セナはこの一年ベルガーにはサポートしてもらうところが大きく、彼なりの感謝の気持ちの表現だとか、言われている。後者は日本では美談として語られている。ただし、欧州人のベルガーには最初、この表現のことがよく理解できず、表彰台にのぼるまでに、セナとロン・デニスを交え、話し合うことが必要だったという。
 鈴鹿は5年連続でタイトル決定の場となった。すんなり決まったもの、劇的に決まったもの、揉め事になったもの、様々であった。今後も鈴鹿がタイトル争いの重要な場面になるときが訪れるが、役者は全く異なる。避けられぬ新旧交代の波がF1に差し迫っていた…。

 ■ 11月3日 最終の第16戦 オーストラリア
 レース前、フェラーリからA.プロスト解雇の発表があった。代役はジャンニ・モルビデリ。プロストは、'81年から毎年少なくとも2勝はしてきた。その連続勝利年が散々な成績で途絶えた。彼は翌年を休養することになる。
 日本人ドライバーの服部尚貴が、コローニ・チームから、鈴鹿と本戦と出場したが、予備予選を突破すること適わなかった。
 大雨のため、10周もしないうちに6台がアクシデントで消えた。その中には引退レースの中嶋悟もいた。ピットレーンでクラッシュした者もいた。先頭のセナは手を振って中止をアピールした。17周目、赤旗が出て中断。結局、レースは14周を終了した時点で終了となった。24分弱とは史上最短レースである。規定によりハーフポイント制が採られた。

 ■ シーズン後
 この年は、ポール・トゥ・ウィンが12/16の75%で、1959年と並んで史上最高の率になっている。
 閉幕前のことだが、1986年から参戦を続けてきたAGSが撤退することになった。入賞は、R.モレノとG.タルキーニによる6位が2回という、渋い戦績を残した。
 また、1987年から参戦を続けてきたコローニも売却されることになった。今季は予備予選通過もままならなかった。R.モレノによる予選15位、G.タルキーニによる決勝8位が最高の成績で、通算でもノーポイントに終わった。買い取ったのはイタリアのブーツ・メーカーの主人、アンドレア・サセッティという人物である。
 それから、モデナ・ランボは、今季シーズンを通してF1に挑んだが、予選最高位17位、ノーポイントで短い活動を終えた。正面から見ると、サイドポンツーンが饅頭のような形をしていて、斬新ではあった。設計者は、かつてフェラーリの全てを任されていたM.フォルギエーリである。
 もう一つ、レイトンハウスもF1を去ることになった。9月に、赤木明社長が富士銀行不正融資事件に絡んで逮捕され、会社の経営が行き詰まったためである。レイトンハウスは、元々は小さな不動産の会社であった。バブルの高騰に応じて、六本木にディスコを開いたりと羽振りがよくなり、飛ぶ鳥を落とす勢いでモータースポーツ界に進出したのであった。昨年のフランスGPでの2位表彰台が光る。今季は入賞は1回のみに終わった。
 ドライバーでは、大物のN.ピケがF1を去ることになった。かつての四天王は今後、一年毎に一人ずつ第一線から去っていく。実力を有した四天王が揃っていたのが、この1991年までであった。M.シューマッハやM.ハッキネンといった後のチャンピオンのデビューもこの年であり、かつての傑物の勇退と新しい担い手の登場とが、時代の移り変わりを感じさせた。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ネルソン・ピケ Nelson Piquet
 ピケの引退は、ベネトンからの移籍を決意したことが発端となる。その後、高い契約金を払ってまで、彼を雇うチームが見つからなかったためで、彼自身が選んだ結果ではなかった。シートを探し求める過程でF1を去ることが徐々に確定していったのであり、引退会見などもない、寂しい引退であった。1992年、インディ500の予戦中、ウォールに正面から突っ込む大クラッシュを起こし、両足を複雑骨折した。懸命なリハビリによって復帰し、'90年代後半までレースに出場し続けた。
 本名はネルソン・ピケ・ソウト・マイオール。大富豪の息子で、若い頃父は彼のレース出場を認めなかった。父の目を盗んで、こっそり出場するため母方の姓である「ピケ」を名乗った。現役時代、かなり自由奔放な生活をしていたことで知られる。特に女性関係が派手で、世界中に彼の妻がいたと言われている。高級クルーザーで生活しており、フジテレビでは「世界一裕福な住所不定」などと呼ばれた。2007年6月、度重なる違反のため、自動車免許を失い、教習を受け直すことになった。
 息子の一人であるネルシーニョ・ピケ(またはネルソン・ピケJr.)が、2008年、ルノーからF1デビューする。
生年月日 1952年8月17日
国籍 ブラジル
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1978エンサイン他5
1979ブラバム115
1980ブラバム232114
1981ブラバム覇者34115
1982ブラバム1111214
1983ブラバム覇者31415
1984ブラバム529316
1985ブラバム81116
1986ウィリアムズ342716
1987ウィリアムズ覇者34415
1988ロータス616
1989ロータス815
1989ベネトン3216
1990ベネトン6116
232423204

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