- ■ シーズン前
- 全16戦中、11戦が有効得点となる。この年間16戦開催はしばらく続く。
- 昨年はレース中の給油が許されたが、この年は禁止になった。燃料タンクは220リットルに制限され、それでゴールまでの約300キロを走り切ることが要求された。昨年からF1の主役となったターボエンジンは、唐突に燃費効率の問題にぶち当たったのである。
- A.プロストがマクラーレンに移籍した。R.パトレーゼはブラバムを去り、母国チームであるアルファロメオに移籍した。M.アルボレートがフェラーリに起用された。フェラーリがイタリア人を本格的に起用するのは、'60年代以来のことである。この年は大型の新人が相次いでデビューした。デビューから3戦以内に入賞した者に、M.ブランドル、S.ベロフ、A.セナがいる。S.ヨハンソンやG.ベルガーがデビューしたのも、この年のことである。
- BMWエンジンの供給先として、アロウズとトールマンの間に争いが起きた。この揉め事のために、トールマンは新車の投入が遅れた。リジェもルノーのエンジンを用いたので、ノンターボエンジンを用いるのは、実質的にティレル1チームだけになった。
チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(V6ターボ) |
ルネ・アルヌー ミケーレ・アルボレート |
残留 ティレル |
GY |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
パトリック・タンベイ デレック・ワーウィック |
フェラーリ トールマン |
MI |
ブラバム |
BMW(L4ターボ) |
ネルソン・ピケ テオ・ファビ コラード・ファビ |
残留 復帰 オゼッラ |
MI |
ウィリアムズ |
ホンダ(V6ターボ) |
ケケ・ロズベルグ ジャック・ラフィー |
残留 残留 |
GY |
マクラーレン |
ポルシェ(V6ターボ) |
ニキ・ラウダ アラン・プロスト |
残留 ルノー |
MI |
アルファロメオ |
アルファロメオ(V8ターボ) |
リカルド・パトレーゼ エディー・チーバー |
ブラバム ルノー |
GY |
ティレル |
フォードDFY |
マーティン・ブランドル シュテファン・ベロフ |
新人 新人 |
GY |
ロータス |
ルノー(V6ターボ) |
エリオ・デ・アンジェリス ナイジェル・マンセル |
残留 残留 |
GY |
トールマン |
ハート(L4ターボ) |
アイルトン・セナ ジョニー・チェコット |
新人 セオドール |
PI、MI |
アロウズ |
フォードDFV、 BMW(L4ターボ) |
マルク・スレール ティエリー・ブーツェン |
残留 残留 |
GY |
リジェ |
ルノー(V6ターボ) |
アンドレア・デ・チェザリス フランソワ・エスノー |
残留 新人 |
MI |
ATS |
BMW(L4ターボ) |
マンフレート・ヴィンケルホック ゲルハルト・ベルガー |
残留 新人 |
PI |
オゼッラ |
アルファロメオ(V8ターボ) |
ピエルカルロ・ギンザーニ ヨー・ガルトナー |
残留 新人 |
PI |
- ■ 3月25日 第1戦 ブラジル
- 今季の大型新人の一人、マーティン・ブランドルがデビュー戦で4位入賞を果たした。前年のイギリスF3で僅差の2位、今季はティレルからデビューした。ティレルは後述する水タンク事件で、シーズンの全成績が抹消されてしまう。
- ■ 4月7日 第2戦 南アフリカ
- 続いて、アイルトン・セナが6位入賞を果たした。前年のイギリスF3でM.ブランドルを僅差で下した。このときのトールマンは前年型である。リアウイングを2枚用いている。ウイングカー禁止とターボエンジン流行によって、ダウンフォースの獲得のための新たな試行錯誤が、この時期、盛んに行なわれた。
- ■ 4月29日 第3戦 ベルギー
- ティレルのステファン・ベロフが5位入賞を果たした。彼はこの年、F1と並行して世界耐久スポーツカー選手権にも出場し、こちらでは王座を獲得する。
- ■ 5月6日 第4戦 サンマリノ
- セナがキャリア唯一の予選落ちを喫した。金曜日はタイヤが供給されず、土曜日はトラブルと雨のためまともに走れなかった。
- ■ 6月3日 第6戦 モナコ
- 大雨のため、32周終了時点で競技長J.イクスが赤旗終了の決断を下した。ポイントは半分になって与えられた。2位のセナはプロストを猛追していた最中であり、もう少しレースが続いていたら勝者はセナだった、と言われている。更に、3位のS.ベロフはこのセナをも上回るペースで走っていたため、レースが最後まで行なわれていたら、勝者はベロフであったかもしれない、とも言われる。
- ■ 6月24日 第8戦 デトロイト
- N.ピケが連勝した。速さは申し分ない一方、信頼性に難があり、今季はタイトル争いに顔を出すことはなかった。
- M.ブランドルが殊勲の2位。しかし、レース終了後に水タンク事件が起こった。ティレルの水タンクに違法な成分が検出され、詳細な調査と審議が始まった。レース結果は暫定のものになった。
- ■ 7月8日 第9戦 ダラス
- ☆ダラス…テキサス州ダラスの市街地コース。曲がりくねったコースを、コンクリートと金網が始終囲んでいて、いっそう窮屈な印象を与えた。更に猛暑で路面の舗装が剥がれる不手際もあり、開催はこの年きりとなった。
- 渦中のブランドルが予戦で事故を起こし、重傷を負った。ティレルのシートにはS.ヨハンソンが座ることとなる。
- 決勝は、気温35度での苛酷なレースになった。ロータスのN.マンセルが初のポールポジションの座につき、前半を快走した。路面の問題から、走行ラインの死守がドライバーの第一の仕事となった。少しでも外れるとコントロールを失うのである。結局、出場したマシンの半分以上が、アクシデント(コンクリートウォールに接触、激突)でリタイヤした。最後、マンセルは動かなくなったマシンを自力で押してゴールした。ロータスの黒いスーツに日光が食い込んでいく。マンセルはその場に倒れこんでしまった。
- 勝者はウィリアムズ・ホンダのK.ロズベルグであった。ウィリアムズは、今季ハンドリングの問題に苦しんでいた。ラフィーは曲がりくねったコースに手をこまねいて、予選25位を喫した。ロズベルグは、ハンドリングとコースと、二重の課題を跳ねのけたと言える。彼の「市街地コースに強い」という特徴が明確になりだした。
- ■ 7月22日 第10戦 イギリス
- 予選中、トールマンのJ.チェコットが両足骨折の重傷を負った。チェコットはF1生命を絶たれてしまった。チームメイトのセナは、新車投入後、予選でトップテンの常連になり、本戦では初の表彰台に立った。
- 勝者はマクラーレンのラウダだった。ランキングで先行するプロストは、トップ走行中の38周目にギアボックストラブルでリタイヤした。
- シーズン後半は、マクラーレンが全勝する。予選の速さでは他チームの争いに埋もれるものの、決勝での燃費効率が全く違った。これは、今季の給油禁止のルールに対して、ポルシェ・エンジンが最初から優位にあったためである。ポルシェは、既に燃費規制が導入されていたスポーツカーで、十分なノウハウを得ていたのだ。加えて、車体設計者のジョン・バーナードはポルシェ側に細部に至るまで注文をつけ、オーダーメイドに近い仕様に仕上げた。以後これは、各チームがエンジンと車体をトータルパッケージで開発する流れになった。
- ■ 8月5日 第11戦 ドイツ
- 上り調子にあるD.ワーウィックが、2戦連続で表彰台に立った。これでシーズン4度目である。彼のデビューは悲惨なものであった。'81年トールマン・ハートでエントリーしたものの、予選を通過するのに12戦かかった。"初決勝までのレース数"で、ワーストの記録となっている。翌'82年は予選不通過を脱し、ファステストラップを記録したこともあったが、完走2回のノーポイントに終わった。昨年は、序盤こそリタイヤが目立ったものの、終盤に4戦連続で入賞した。そして、ルノーに抜擢されての今季の活躍につながるのである。
- ■ 8月26日 第13戦 オランダ
- 水タンク事件の裁定に対してオーナーから提訴があったものの、ティレルの残り3戦出場停止が決定した。
- マクラーレンが早くもコンストラクターズ・タイトルを決めた。今回のワンツーフィニッシュでは、後続を1分以上引き離した。
- ■ 9月9日 第14戦 イタリア
- セナの将来性に目をつけたロータスが、翌年の契約を持ちかけた。セナは喜んで承諾したが、イタリアGP以前の契約は認められておらず、結果として出場停止になった。
- この機会をものにしたのがステファン・ヨハンソンであった。この年は流浪人であったが、他のレースで稼いだお金でトールマンのイタリアGPのシートを買い、見事4位入賞を果たした。
- また、未登録のマシンを使用したために、5位J.ガルトナー(オゼッラ)と6位G.ベルガー(ATS)のコンストラクターズポイントが剥奪された。
- ■ 10月7日 第15戦 ヨーロッパ
- ☆ニュルブルクリンク…1976年のN.ラウダの事故の影響からか、以後の開催が途絶えていた。元々、北と南にコースが設けられてあり、有名な山岳コースは北側のものである。1984年に、南側が1周4.5kmのものに改修され、新たにF1の開催が始まった。'84年と'85年、1995年から2006年まで、主にヨーロッパGPとして開催された。
- ■ 10月21日 最終の第16戦 ポルトガル
- ☆エストリル…ポルトガルでは24年ぶりのF1開催となった。低速・高速のコーナーがバランスよく配置され、マシンの性能を見るのに適したレイアウトのため、長らくテストコースとしても使用された。安全上の問題でGPカレンダーから消えて久しい現在である。
- ティレルのシーズン全ポイントの剥奪が決定した。順位の変動が起きたが、接戦のドライバーズタイトルに影響はない。
- ラウダ66点、プロスト62.5点で迎えた緊迫の最終戦。予選でプロストは2番手につけた。ラウダは11番手にとどまった。
- プロストは9周目に先頭に立つと、後続との差をぐんぐん広げて、そのままチェッカーを受けた。シーズン中に何度も見たパターンである。プロストは、王座獲得に向けてすべきことを順調に実行した。ラウダが3位以下ならプロストがチャンピオンなのだが…。
- ラウダは、3周目にチーバーを抜いて10位にあがった。続いて6周目にタンベイを、13周目にワーウィックを、18周目にアンジェリスを抜いた。レース中盤に差し掛かっても、まだ入賞圏外である。27周目、ヨハンソンを抜いて6位。翌周、アルボレートを抜いて5位。ラウダはときおり走行ラインを外し、前方の台数と距離とを確かめるような仕草を見せた。31周目、ロズベルグを下して4位、33周目、セナを下してとうとう3位まできた。
- 前を行くマンセルとは30秒ほどの差があったが、マンセルは50周をすぎてブレーキが壊れ、リタイヤしてしまった。ラウダの2位が確定し、彼が0.5点差でチャンピオンの座についた。
- ■ シーズン後
- ATSが活動停止を決めた。昨年からBMWターボエンジンを搭載し、予選でトップテンに食い込むことが多かったものの、決勝での成績はフォードDFVを積んでいた時期の方がまさった。
- N.ラウダは3度目のチャンピオンになった。PPなしのチャンピオンは、'67年のD.ハルム以来である。ラウダは'76年ニュルブルクリンクでの事故をきっかけとして、速さへのこだわりを捨てたように思われる。事故前は、当時の(つまりA.セナが台頭する前の)記録となる6連続PPを決めるなど、最速の名を欲しいままにした。それが、事故後のPPはたった3回('82年の復帰後はゼロ)である。
- 速さを捨てたラウダは、レース巧者に変身し、'77年と今年と、彼らしいやり方でタイトルに輝いた。プロストは、ラウダのレース運びの巧みさ、シーズン全体での安定した強さを間近で学び、翌年以降さらに飛躍する。
- マクラーレンは16戦中12勝をあげた。勝率が75%を超えるのは、50年代のアルファロメオ、フェラーリ、メルセデス以来である。今季PP9回で最速王のブラバム・N.ピケは信頼性不足に泣いた。フェラーリはシーズン後半、マシンに細かく手を加えるがみな失敗し、1勝にとどまった。ルノーは、ワーウィックの上昇気流を加えても全体的な力不足が目立ち、0勝に終わった。これらの結果、50年代の一強皆弱時代に匹敵するほどの、ライバル不在の事態に至ったのだった。
- 今季は、全部で409台が出走し、完走したマシンが170台した。完走率41.6%とは、全史で最低の数字である。ターボエンジン時代は、おおむね完走率が低かった。
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