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  F1今昔物語 1984年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 全16戦中、11戦が有効得点となる。この年間16戦開催はしばらく続く。
 昨年はレース中の給油が許されたが、この年は禁止になった。燃料タンクは220リットルに制限され、それでゴールまでの約300キロを走り切ることが要求された。昨年からF1の主役となったターボエンジンは、唐突に燃費効率の問題にぶち当たったのである。
 A.プロストがマクラーレンに移籍した。R.パトレーゼはブラバムを去り、母国チームであるアルファロメオに移籍した。M.アルボレートがフェラーリに起用された。フェラーリがイタリア人を本格的に起用するのは、'60年代以来のことである。この年は大型の新人が相次いでデビューした。デビューから3戦以内に入賞した者に、M.ブランドル、S.ベロフ、A.セナがいる。S.ヨハンソンやG.ベルガーがデビューしたのも、この年のことである。
 BMWエンジンの供給先として、アロウズとトールマンの間に争いが起きた。この揉め事のために、トールマンは新車の投入が遅れた。リジェもルノーのエンジンを用いたので、ノンターボエンジンを用いるのは、実質的にティレル1チームだけになった。
チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(V6ターボ) ルネ・アルヌー
ミケーレ・アルボレート
残留
ティレル
GY
ルノー ルノー(V6ターボ) パトリック・タンベイ
デレック・ワーウィック
フェラーリ
トールマン
MI
ブラバム BMW(L4ターボ) ネルソン・ピケ
テオ・ファビ
コラード・ファビ
残留
復帰
オゼッラ
MI
ウィリアムズ ホンダ(V6ターボ) ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィー
残留
残留
GY
マクラーレン ポルシェ(V6ターボ) ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
残留
ルノー
MI
アルファロメオ アルファロメオ(V8ターボ) リカルド・パトレーゼ
エディー・チーバー
ブラバム
ルノー
GY
ティレル フォードDFY マーティン・ブランドル
シュテファン・ベロフ
新人
新人
GY
ロータス ルノー(V6ターボ) エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
残留
残留
GY
トールマン ハート(L4ターボ) アイルトン・セナ
ジョニー・チェコット
新人
セオドール
PI、MI
アロウズ フォードDFV、
BMW(L4ターボ)
マルク・スレール
ティエリー・ブーツェン
残留
残留
GY
リジェ ルノー(V6ターボ) アンドレア・デ・チェザリス
フランソワ・エスノー
残留
新人
MI
ATS BMW(L4ターボ) マンフレート・ヴィンケルホック
ゲルハルト・ベルガー
残留
新人
PI
オゼッラ アルファロメオ(V8ターボ) ピエルカルロ・ギンザーニ
ヨー・ガルトナー
残留
新人
PI


 ■ 3月25日 第1戦 ブラジル
 今季の大型新人の一人、マーティン・ブランドルがデビュー戦で4位入賞を果たした。前年のイギリスF3で僅差の2位、今季はティレルからデビューした。ティレルは後述する水タンク事件で、シーズンの全成績が抹消されてしまう。

 ■ 4月7日 第2戦 南アフリカ
 続いて、アイルトン・セナが6位入賞を果たした。前年のイギリスF3でM.ブランドルを僅差で下した。このときのトールマンは前年型である。リアウイングを2枚用いている。ウイングカー禁止とターボエンジン流行によって、ダウンフォースの獲得のための新たな試行錯誤が、この時期、盛んに行なわれた。

 ■ 4月29日 第3戦 ベルギー
 ティレルのステファン・ベロフが5位入賞を果たした。彼はこの年、F1と並行して世界耐久スポーツカー選手権にも出場し、こちらでは王座を獲得する。

 ■ 5月6日 第4戦 サンマリノ
 セナがキャリア唯一の予選落ちを喫した。金曜日はタイヤが供給されず、土曜日はトラブルと雨のためまともに走れなかった。

 ■ 6月3日 第6戦 モナコ
 大雨のため、32周終了時点で競技長J.イクスが赤旗終了の決断を下した。ポイントは半分になって与えられた。2位のセナはプロストを猛追していた最中であり、もう少しレースが続いていたら勝者はセナだった、と言われている。更に、3位のS.ベロフはこのセナをも上回るペースで走っていたため、レースが最後まで行なわれていたら、勝者はベロフであったかもしれない、とも言われる。

 ■ 6月24日 第8戦 デトロイト
 N.ピケが連勝した。速さは申し分ない一方、信頼性に難があり、今季はタイトル争いに顔を出すことはなかった。
 M.ブランドルが殊勲の2位。しかし、レース終了後に水タンク事件が起こった。ティレルの水タンクに違法な成分が検出され、詳細な調査と審議が始まった。レース結果は暫定のものになった。

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 ■ 7月8日 第9戦 ダラス
 ☆ダラス…テキサス州ダラスの市街地コース。曲がりくねったコースを、コンクリートと金網が始終囲んでいて、いっそう窮屈な印象を与えた。更に猛暑で路面の舗装が剥がれる不手際もあり、開催はこの年きりとなった。

 渦中のブランドルが予戦で事故を起こし、重傷を負った。ティレルのシートにはS.ヨハンソンが座ることとなる。
 決勝は、気温35度での苛酷なレースになった。ロータスのN.マンセルが初のポールポジションの座につき、前半を快走した。路面の問題から、走行ラインの死守がドライバーの第一の仕事となった。少しでも外れるとコントロールを失うのである。結局、出場したマシンの半分以上が、アクシデント(コンクリートウォールに接触、激突)でリタイヤした。最後、マンセルは動かなくなったマシンを自力で押してゴールした。ロータスの黒いスーツに日光が食い込んでいく。マンセルはその場に倒れこんでしまった。
 勝者はウィリアムズ・ホンダのK.ロズベルグであった。ウィリアムズは、今季ハンドリングの問題に苦しんでいた。ラフィーは曲がりくねったコースに手をこまねいて、予選25位を喫した。ロズベルグは、ハンドリングとコースと、二重の課題を跳ねのけたと言える。彼の「市街地コースに強い」という特徴が明確になりだした。

 ■ 7月22日 第10戦 イギリス
 予選中、トールマンのJ.チェコットが両足骨折の重傷を負った。チェコットはF1生命を絶たれてしまった。チームメイトのセナは、新車投入後、予選でトップテンの常連になり、本戦では初の表彰台に立った。
 勝者はマクラーレンのラウダだった。ランキングで先行するプロストは、トップ走行中の38周目にギアボックストラブルでリタイヤした。
 シーズン後半は、マクラーレンが全勝する。予選の速さでは他チームの争いに埋もれるものの、決勝での燃費効率が全く違った。これは、今季の給油禁止のルールに対して、ポルシェ・エンジンが最初から優位にあったためである。ポルシェは、既に燃費規制が導入されていたスポーツカーで、十分なノウハウを得ていたのだ。加えて、車体設計者のジョン・バーナードはポルシェ側に細部に至るまで注文をつけ、オーダーメイドに近い仕様に仕上げた。以後これは、各チームがエンジンと車体をトータルパッケージで開発する流れになった。

 ■ 8月5日 第11戦 ドイツ
 上り調子にあるD.ワーウィックが、2戦連続で表彰台に立った。これでシーズン4度目である。彼のデビューは悲惨なものであった。'81年トールマン・ハートでエントリーしたものの、予選を通過するのに12戦かかった。"初決勝までのレース数"で、ワーストの記録となっている。翌'82年は予選不通過を脱し、ファステストラップを記録したこともあったが、完走2回のノーポイントに終わった。昨年は、序盤こそリタイヤが目立ったものの、終盤に4戦連続で入賞した。そして、ルノーに抜擢されての今季の活躍につながるのである。

 ■ 8月26日 第13戦 オランダ
 水タンク事件の裁定に対してオーナーから提訴があったものの、ティレルの残り3戦出場停止が決定した。
 マクラーレンが早くもコンストラクターズ・タイトルを決めた。今回のワンツーフィニッシュでは、後続を1分以上引き離した。

 ■ 9月9日 第14戦 イタリア
 セナの将来性に目をつけたロータスが、翌年の契約を持ちかけた。セナは喜んで承諾したが、イタリアGP以前の契約は認められておらず、結果として出場停止になった。
 この機会をものにしたのがステファン・ヨハンソンであった。この年は流浪人であったが、他のレースで稼いだお金でトールマンのイタリアGPのシートを買い、見事4位入賞を果たした。
 また、未登録のマシンを使用したために、5位J.ガルトナー(オゼッラ)と6位G.ベルガー(ATS)のコンストラクターズポイントが剥奪された。

 ■ 10月7日 第15戦 ヨーロッパ
 ☆ニュルブルクリンク…1976年のN.ラウダの事故の影響からか、以後の開催が途絶えていた。元々、北と南にコースが設けられてあり、有名な山岳コースは北側のものである。1984年に、南側が1周4.5kmのものに改修され、新たにF1の開催が始まった。'84年と'85年、1995年から2006年まで、主にヨーロッパGPとして開催された。

 ■ 10月21日 最終の第16戦 ポルトガル
 ☆エストリル…ポルトガルでは24年ぶりのF1開催となった。低速・高速のコーナーがバランスよく配置され、マシンの性能を見るのに適したレイアウトのため、長らくテストコースとしても使用された。安全上の問題でGPカレンダーから消えて久しい現在である。

 ティレルのシーズン全ポイントの剥奪が決定した。順位の変動が起きたが、接戦のドライバーズタイトルに影響はない。
 ラウダ66点、プロスト62.5点で迎えた緊迫の最終戦。予選でプロストは2番手につけた。ラウダは11番手にとどまった。
 プロストは9周目に先頭に立つと、後続との差をぐんぐん広げて、そのままチェッカーを受けた。シーズン中に何度も見たパターンである。プロストは、王座獲得に向けてすべきことを順調に実行した。ラウダが3位以下ならプロストがチャンピオンなのだが…。
 ラウダは、3周目にチーバーを抜いて10位にあがった。続いて6周目にタンベイを、13周目にワーウィックを、18周目にアンジェリスを抜いた。レース中盤に差し掛かっても、まだ入賞圏外である。27周目、ヨハンソンを抜いて6位。翌周、アルボレートを抜いて5位。ラウダはときおり走行ラインを外し、前方の台数と距離とを確かめるような仕草を見せた。31周目、ロズベルグを下して4位、33周目、セナを下してとうとう3位まできた。
 前を行くマンセルとは30秒ほどの差があったが、マンセルは50周をすぎてブレーキが壊れ、リタイヤしてしまった。ラウダの2位が確定し、彼が0.5点差でチャンピオンの座についた。

 ■ シーズン後
 ATSが活動停止を決めた。昨年からBMWターボエンジンを搭載し、予選でトップテンに食い込むことが多かったものの、決勝での成績はフォードDFVを積んでいた時期の方がまさった。
 N.ラウダは3度目のチャンピオンになった。PPなしのチャンピオンは、'67年のD.ハルム以来である。ラウダは'76年ニュルブルクリンクでの事故をきっかけとして、速さへのこだわりを捨てたように思われる。事故前は、当時の(つまりA.セナが台頭する前の)記録となる6連続PPを決めるなど、最速の名を欲しいままにした。それが、事故後のPPはたった3回('82年の復帰後はゼロ)である。
 速さを捨てたラウダは、レース巧者に変身し、'77年と今年と、彼らしいやり方でタイトルに輝いた。プロストは、ラウダのレース運びの巧みさ、シーズン全体での安定した強さを間近で学び、翌年以降さらに飛躍する。
 マクラーレンは16戦中12勝をあげた。勝率が75%を超えるのは、50年代のアルファロメオ、フェラーリ、メルセデス以来である。今季PP9回で最速王のブラバム・N.ピケは信頼性不足に泣いた。フェラーリはシーズン後半、マシンに細かく手を加えるがみな失敗し、1勝にとどまった。ルノーは、ワーウィックの上昇気流を加えても全体的な力不足が目立ち、0勝に終わった。これらの結果、50年代の一強皆弱時代に匹敵するほどの、ライバル不在の事態に至ったのだった。
 今季は、全部で409台が出走し、完走したマシンが170台した。完走率41.6%とは、全史で最低の数字である。ターボエンジン時代は、おおむね完走率が低かった。

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