- ■ シーズン前
- 全16戦中、11戦が有効得点。
- ミシュランがF1から撤退した。グッドイヤーは供給先を8チームに限定し、有力タイヤメーカーの供給を受けられないチームが現れた。
- ティレルもシーズン中ルノーターボを選択した。下のエントリーでは略したが、オゼッラ、RAM(今季で活動停止)、スピリット(今季で活動停止)、ミナルディ(新興)、ザクスピード(新興)、ローラといったチームも存在する。
- ウィリアムズのメインスポンサーに、キャノン、モービルらがつく。日本のF1ファンにとってお馴染みの格好になった。ブラバムが止むを得ずピレリタイヤを選択し、パフォーマンスが低下、チームとしての凋落が始まった。ルノーも体制を大幅に縮小した。
- トールマンが使用タイヤで揉め、出場が危ぶまれた。ベネトンが割って入って参戦が決定した。
- N.マンセルがウィリアムズに移籍した。2年目のA.セナはロータスに抜擢された。
チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
マクラーレン |
ポルシェ(V6ターボ) |
ニキ・ラウダ アラン・プロスト |
残留 残留 |
GY |
フェラーリ |
フェラーリ(V6ターボ) |
ミケーレ・アルボレート ステファン・ヨハンソン |
残留 トールマン他 |
GY |
ロータス |
ルノー(V6ターボ) |
エリオ・デ・アンジェリス アイルトン・セナ |
残留 トールマン |
GY |
ブラバム |
BMW(L4ターボ) |
ネルソン・ピケ フランソワ・エスノー マルク・スレール |
残留 リジェ アロウズ |
PI |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
パトリック・タンベイ デレック・ワーウィック |
残留 残留 |
GY |
ウィリアムズ |
ホンダ(V6ターボ) |
ケケ・ロズベルグ ナイジェル・マンセル |
残留 ロータス |
GY |
トールマン |
ハート(L4ターボ) |
テオ・ファビ ピエルカルロ・ギンザーニ |
ブラバム オゼッラ |
PI |
アルファロメオ |
アルファロメオ(V8ターボ) |
リカルド・パトレーゼ エディー・チーバー |
残留 残留 |
GY |
アロウズ |
BMW(L4ターボ) |
ゲルハルト・ベルガー ティエリー・ブーツェン |
新人 残留 |
GY |
リジェ |
ルノー(V6ターボ) |
ジャック・ラフィー アンドレア・デ・チェザリス |
ウィリアムズ 残留 |
PI |
ティレル |
フォードDFY、 ルノー(V6ターボ) |
マーティン・ブランドル シュテファン・ベロフ イヴァン・カペリ |
残留 残留 新人 |
GY |
- ■ 4月21日 第2戦 ポルトガル
- R.アルヌーがフェラーリを離脱し、フェラーリにはS.ヨハンソンが座った。
- アルヌーの解雇はF1史の謎になっている。チーム首脳の妻との不倫があったとか、理由を口外しないことを条件に、その年の契約金が全額支払われたとか言われている。彼はルノー時代の'82年、チームオーダーを無視して優勝したりもしている。問題児の一匹狼である。
- レースでは、セナが早くも初優勝を遂げた。雨のエストリルで2位に1分の差をつけての見事な勝利であった。
- ■ 5月5日 第3戦 サンマリノ
- レース終了直前までセナが独走したが、残り4周でガス欠を起こした。ヨハンソンがトップに立ち、翌周プロストがそれに取って代わった。
- しかし勝者はこのプロストでもなかった。レース後の車両重量規定違反でプロストは失格となった。E.デ・アンジェリスが繰り上げで優勝した。
- また、アロウズの若手のT.ブーツェンが2位になった。エースのパトレーゼが抜けて以後数年、シングルグリッドもままならぬ下位チームにとって、目覚ましい結果となった。
- ■ 6月23日 第6戦 アメリカ東
- セナが予選で後続を1秒以上離した。ここまで4つのポールポジション。チームメイトにも差をつけている(この一戦では2.7秒)。彼の才能が本格的に開花しだした。
- レースは、そのセナを8周目に下して先頭に立ったロズベルグが、そのまま勝者となった。通算4勝のうち市街地コースで3勝とした。
- ■ 7月21日 第8戦 イギリス
- セナが4番手からトップを奪い、独走した。しかし残り6周となったところで、マシンが止まってしまったようだ。
- このレース、実は誤って1周はやくチェッカーフラッグが振られたらしい。最後は、プロストが他を周回遅れにする独走状態にあったので、大きな問題にはならなかった。
- ■ 8月4日 第9戦 ドイツ
- トールマン唯一のポールポジションである。後続を1秒以上離しての見事なポールである。しかし、決勝ではラップリーダーとはなれなかった。
- トールマンはイギリスのトラック販売会社である。'70年代にレース活動を開始した。1980年にF2を制し、翌年にF1にステップアップした。マシンの設計者は若き日のロリー・バーンである。
- このチームは、参戦当初からハート製ターボエンジンを用いた。ハートとは、ブライアン・ハートなるエンジニアが設計したエンジンのことである。トールマンと一緒に'81年にF1進出を果たした。予選通過もままならなかった状態から、昨年はセナのドライビングによって表彰台にものぼった。
- トールマンは、資金の問題から今シーズン末にベネトンに売却されることとなる。B.ハートは、その後もエンジン供給を続けたり、他社製エンジンの設計・チューニングに携わったりして、F1に存在し続ける。有力チームへの供給はなかったものの、低予算で最高の仕事をするエンジニアと称されることとなる。
- ■ 8月18日 第10戦 オーストリア
- ここ数年、ATSを引っ張ってきたマンフレート・ヴィンケルホック。昨年は最後にベルガーにシートを奪われ、チームも消滅してしまった。今季はRAMをドライブする一方、スポーツカーの世界選手権(WEC)に参戦した。そのヴィンケルホックが、8月12日、カナダでのレースで事故死した。
- 昨年一昨年と、予選のトップテンに入ること11回を数え、そこそこの速さを持っていたと見られる。このころ予選5〜10位からの入賞は数多くあったのだが、彼が入賞したのは'82年の一回きりであった。
- また、N.ラウダが今季限りでの引退を発表した。最後となる地元レースで花を飾りたいところ。予選では今季最高の3位につけ、中盤までレースをリードしたが、40周目にエンジンが壊れた。
- レースはプロストが制した。M.アルボレートとともに50点で、ランキングではこの二人の競り合いとなっている。アルボレートはここまで10戦中8回の表彰台で、安定感がある。助っ人のS.ヨハンソンもサンマリノとデトロイトで連続して表彰台に立つ活躍を見せ、フェラーリはコンストラクターのタイトル争いでもトップを行く…。
- ■ 8月25日 第11戦 オランダ
- 前回は惜しくも勝利を逃したラウダであったが、この一戦では0.23秒差でプロストを抑えて勝った。後方から中盤にトップに立ち、際どく抑えきるあたりは、やはりレース巧者であった。
- レースの翌週の9月1日、WEC第7戦、ベルギー1000kmにて、S.ベロフが事故死した。J.イクスと競り合いながらオールージュを駆け上がろうとして、クラッシュしたのだった。WECは2戦連続でドライバーの不幸があった。共にドイツのドライバーである。
- ■ 9月15日 第13戦 ベルギー
- ベルギーGPは、もともと6月に開催されたのだが、道路の舗装がはがれて数ヶ月延期になった。詳しく述べると、開催の半月前に舗装を受けたにも関わらず、800馬力を超えるマシンのパワーによって路面がどんどん剥がれていったのだった。金曜から土曜にかけてタイムが20秒も落ちた。これではレースができない。予選が行われたのにも関わらず延期になったのはこのグランプリだけ。予選はあらためて行われた。
- セナがまたもや雨のレースを制して2勝目をあげた。
- ■ 10月6日 第14戦 ヨーロッパ
- ラウダが怪我のため本戦を欠場し、代役としてJ.ワトソンが走った。この一戦のみで、ワトソンはF1を去る。
- 後のことになるが、マンセルは地元で、さながら恒例行事のような好成績で、ファンの期待に答えることになる。その手始めが本戦での72戦目にしての初優勝であった。当時の最遅初優勝記録を更新した。シルバーストンではリタイヤを喫していただけに、喜びもひとしおだったろう。
- 一方では、ドライバーズタイトルが遂にプロストのものになった。シーズン終盤、アルボレートはリタイヤが続いてノーポイントに終わった。それまでの安定感が嘘のような低迷であり、フェラーリの未勝利は今後も続く。
- ■ 10月19日 第15戦 南アフリカ
- 人種隔離政策への抗議で、ルノーとリジェがレースをボイコットした。アパルトヘイトにたいしてフランスは特に強硬な姿勢をとっていた。そして、翌年からしばらく南アフリカGPは開催されなくなる。
- アルファロメオがスタート直後にみっともない同士討ちを起こした。かつてのチャンピオンチームとしてはいいところなく、この年を以って活動を停止する。
- ■ 11月3日 最終の第16戦 オーストラリア
- ☆アデレード…オーストラリア南部で'85〜'95年に開催された。一部公道を利用した市街地コース。チェッカーフラッグを振る人物が、特殊な振り方をすることで、"アデレードのおじさん"として人気を博す。
- ウィリアムズの3連勝でシーズンが終わった。ロズベルグは市街地で4勝目。マシントラブルが続出して、上位陣が尽くリタイヤした。完走8人のうち、15位以下が6人である。ロズベルグのほかに、表彰台にはリジェの二人が立った。数年の不振を乗り越え、中堅の域に返り咲きといったところである。
- フィリップ・ストレイフは、唯一の表彰台である。昨年ルノーから一戦出場したのみの新人で、今季、クラッシュの多いA.デ・チェザリスの後釜としてデビューした。'89年開幕前のテストで大クラッシュに遭い、半身麻痺の体になってしまった。
- ■ シーズン後
- 今季は、ポールポジションを獲得したエンジンが、ルノー、TAG-ポルシェ、フェラーリ、ハート、BMW、ホンダと6つにのぼった。これは史上最多のことである。速さの点では、ロータス・ルノーのA.セナが抜きん出ていたけれども…。これまでの最速エンジンを見ると、'82ルノー、'83フェラーリ、'84ブラバム・BMW、…というように毎年変遷があった。翌年以降はホンダが一時代を築く。ターボエンジンという技術の繚乱から熟成への移行と見ることができる。
- そんな時期に、ターボエンジンの最初の挑戦者であったルノーが、F1からの撤退を表明した。エンジン供給者としてはもう一年だけ活動を続ける。前述したように、アルファロメオもF1を去った。
- ■ サーキットを去るウィナーたち
- ニキ・ラウダ Niki Lauda
- 引退後のラウダは、フェラーリやジャガーのチーム活動に携わったりしている。現在でもF1のニュースでコメントを見聞きすることがある。実業家としては、ラウダ航空の経営を続けたが、'91年に墜落事故を起こした。2000年に経営譲渡し、今度は格安路線のニキ航空を立ち上げた。
生年月日 1949年2月22日
国籍 オーストリア
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1971 | マーチ | - | | | | 1 |
1972 | マーチ | - | | | | 12 |
1973 | BRM | 17 | | | | 14 |
1974 | フェラーリ | 4 | 2 | 9 | 3 | 15 |
1975 | フェラーリ | 覇者 | 5 | 9 | 2 | 14 |
1976 | フェラーリ | 2 | 5 | 3 | 4 | 14 |
1977 | フェラーリ | 覇者 | 3 | 2 | 3 | 14 |
1978 | ブラバム | 4 | 2 | 1 | 4 | 16 |
1979 | ブラバム | 14 | | | | 13 |
1982 | マクラーレン | 5 | 2 | | 1 | 14 |
1983 | マクラーレン | 10 | | | 1 | 14 |
1984 | マクラーレン | 覇者 | 5 | | 5 | 16 |
1985 | マクラーレン | 10 | 1 | | 1 | 14 |
計 | | | 25 | 24 | 24 | 171 |
- ジョン・ワトソン John Watson
- 引退後のワトソンは解説者になった。'83年のロングビーチに代表されるように、予選後方からの勝利や表彰台が多かった。また、初勝利から2勝目までの5年間76戦のブランクも特筆に価する。当時の最遅記録であるマンセルの初優勝までを上回っている。
生年月日 1946年5月4日
国籍 イギリス
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1973 | ブラバムpvt | - | | | | 2 |
1974 | ブラバムpvt | 14 | | | | 15 |
1975 | サーティース ペンスキー | - | | | | 13 |
1976 | ペンスキー | 7 | 1 | | | 16 |
1977 | ブラバム | 13 | | 1 | 2 | 17 |
1978 | ブラバム | 6 | | 1 | | 16 |
1979 | マクラーレン | 9 | | | | 15 |
1980 | マクラーレン | 10 | | | | 13 |
1981 | マクラーレン | 6 | 1 | | 1 | 15 |
1982 | マクラーレン | 2 | 2 | | 1 | 15 |
1983 | マクラーレン | 6 | 1 | | 1 | 14 |
1985 | マクラーレン | - | | | | 1 |
計 | | | 5 | 2 | 5 | 152 |
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