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  F1今昔物語 1982年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 全16戦中、11戦が有効得点である。
 A.ジョーンズが引退した後釜として、ウィリアムズはK.ロズベルグを用いた。参戦5年目のフィンランド人である。前年は弱小のフィッティパルディに所属し、ノーポイントどころか予選落ちを5回喫した。
 他にも大きな話題として、N.ラウダの復帰がある。新マクラーレンのロン・デニスがF1復帰を強く説いた。復帰後もラウダは自ら経営する航空会社の仕事を続ける。
 ウイングカーの熟成が進んだ。各マシンは強大なダウンフォースの下、常時快速状態で一年を戦った。昨年と同じサーキットの10/11で、PPタイムが1〜10秒縮められた。グラウンド・エフェクト効果によって余りにもダウンフォースが得られるので、フロントウイングを必要としないチームが多々現れた。
 この高速化にはターボエンジンも大きく影響している。今季はブラバムがターボエンジンの導入に踏み切った。またブラバムは、レース中の給油を作戦に組み入れた(常にマシンを軽くして走るということ)。
チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ウィリアムズ フォードDFV カルロス・ロイテマン
デレック・デイリー
ケケ・ロズベルグ
残留
RAM(マーチ)
フィッティパルディ
GY
ブラバム BMW(L4ターボ)
フォードDFV
ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
残留
アロウズ
GY
ルノー ルノー(V6ターボ) アラン・プロスト
ルネ・アルヌー
残留
残留
MI
タルボ−リジェ マトラV12 ジャック・ラフィー
エディー・チーバー
残留
ティレル
MI
フェラーリ フェラーリ(V6ターボ) ジル・ヴィルヌーヴ
パトリック・タンベイ
ディディエ・ピローニ
マリオ・アンドレッティ
残留
タルボ−リジェ
残留
アルファロメオ
GY
マクラーレン フォードDFV ジョン・ワトソン
ニキ・ラウダ
残留
復帰
MI
ロータス フォードDFV エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
残留
残留
GY
アロウズ フォードDFV マルク・スレール
マウロ・バルディ
エンサインなど
新人
PI
アルファロメオ アルファロメオ(V12) ブルーノ・ジャコメリ
アンドレア・デ・チェザリス
残留
マクラーレン
MI
ティレル フォードDFV ミケーレ・アルボレート
ブライアン・ヘントン
残留
トールマン
GY
ATS フォードDFV マンフレート・ヴィンケルホック
エリセオ・サラザール
新人
エンサイン
MI、AV
オゼッラ フォードDFV J-P.ジャリエ
リカルド・パレッティ
残留
新人
PI
フィッティパルディ フォードDFV チコ・セッラ 残留 PI
トールマン ハート(L4ターボ) デレック・ワーウィック
テオ・ファビ
残留
新人
PI


 ■ 3月21日 第2戦 ブラジル
 このレースでは、N.ピケとK.ロズベルグが1位と2位でフィニッシュしたが、レース後に燃料規定違反が見つかり、失格、以下順位繰上げとなった。1ヶ月後の騒動に結びつくので詳しく記しておくと、当時、レース後の再車検前に水の補給が可能であった。ピケとロズベルグは、いやイギリスのブラバムとウィリアムズは、レース前は水を貯めて規定重量をクリアし、レース中は水を捨て規定重量以下で走り、レース後に水を補給して車検を通ったらしかった。これにクレームをつけたのが、フランス人のFISA会長バレストルで、フランスチームのフランス人であるA.プロストの優勝となった。
 昨年、惜しくもチャンピオンを逃したC.ロイテマン。いったん引退を発表しつつも踏みとどまって、今季を戦うことになった。ところが、フォークランド紛争の勃発によって、アルゼンチン出身のロイテマンは、イギリス・チームのウィリアムズを追い出されてしまった。今度こそ引退となった。
 ウィリアムズには以後、M.アンドレッティやD.デイリーが乗ることになる。

 ■ 4月4日 第3戦 アメリカ
 A.デ・チェザリスの長いキャリアのなかで、唯一のポールポジションである。五本の指に入る若さでのPPである。決勝では、15周目にN.ラウダにトップの座を奪われた。ラウダは復帰3戦目にして、優勝を遂げた。
 G.ヴィルヌーヴは3位でゴールしたが、違法なリアウイングのために失格となった。

 ■ 4月25日 第4戦 サンマリノ
 ブラジルGPでの失格騒ぎは、ここフェラーリ(FISA系)のホーム・グラウンドで、猖獗をきわめた。FOCA系であるイギリス・チームの大部分が、かの裁定を不服として、この一戦をボイコットしてしまった。イタリア企業のスポンサーを受けるティレルだけが出場した。出走したのは他にルノーやフェラーリなどの14台となった。
 話しはこれで終わらない。優勝したD.ピローニはヴィルヌーヴ先行のチームオーダーを事もなげに破っていた。スロー走行の指示があったにも関わらず、15周の間に2人で5回も先頭を奪い合った。表彰台でヴィルヌーヴは憮然とした表情を片時も崩さなかった。こんなとき、チームメイトに少しでも心を許した過去があると、己が世界中の愚か者に思えるものだ。ヴィルヌーヴがフェラーリと苦楽を共にしてきたのは5年になる。"名実共に自分がフェラーリのエースのはず…"そういう自負心もあったかもしれない…。
 6位でフィニッシュしたM.ヴィンケルホックは、燃料規定違反で失格となった。代わって6位になったテオ・ファビは、周回数不足で得点とは認められない。

 ■ 5月9日 第5戦 ベルギー
 ヴィルヌーヴは複雑な気持ちを抱えたままこの週末に挑んだ。予選。憎きピローニが自分のタイムを上回った。ヴィルヌーヴはコースに飛び出した。ここで大変なことが起きた。彼のマシンは、スロー走行していたマシンのタイヤに乗り上げ、宙返りしながら地面に何度となく激突した。マシンは大破し、ヴィルヌーヴはシートごと外に投げ出されて死んだ。享年32歳。この事故は映像に残っていて、「グッバイヒーロー」という映画でも取りあげられている。フェラーリは決勝を欠場した。
 3位でフィニッシュしたラウダが燃料違反で失格となった。
 レースのたびに失格が起きて順位が変動し、失格裁定の腹いせに大量のボイコットがあったり、国際的政治情勢から大ベテランがあっけなくサーキットを去ることになったり、あげくの果てには一人の名ドライバーが命を落とした。混乱の中でシーズンが進んでいく。

 ■ 5月23日 第6戦 モナコ
 レースも残り3周となったところで、ルーレットがくるくる回り出したようになった。それまでずっと先頭を維持していたプロストがクラッシュ。同時に2位のパトレーゼもロウズ・ヘアピンでスピンした。再走に移るあいだにピローニとデ・チェザリスが横を通り抜けた。
 最終ラップ、ピローニはトンネルの入り口で燃料切れを起こし、続いてデ・チェザリスもカジノ・スクエアで同様に燃料が切れた。パトレーゼは事態に気がつかないままチェッカーを受けた。71戦目での初優勝は、当時の最遅優勝記録であった。
 ブラバムのコンストラクターズ・ポイントが2枠になっていることに注目されたい。これは、R.パトレーゼがフォードエンジン、N.ピケがBMWターボエンジンを積んでいることによる。チームが同じでも、エンジンが異なると別扱いになる。コンストラクター選手権で戦っているのは、ブラバムという【チーム】ではなく、飽くまでも【車体+エンジン】なのである。

 ■ 6月6日 第7戦 アメリカ東
 ☆デトロイト…'70年代後半から'80年代前半にかけて、アメリカでいくつかの市街地コースを使ってF1が開かれた。デトロイトは、ロングビーチ、ラスベガスに続く3番目の開催地で、1982〜1988年に開催された。"モータータウン"と呼ばれるほど自動車文化に富んだ街。フォードにとってはフェラーリのイモラのような場所となる。

 開幕から2、3戦を除いてBMWターボエンジンを装着するN.ピケが、予選落ちを喫した。前年チャンピオンが予選落ちを喫するのは、1980年のJ.シェクター以来('75年スペインのE.フィッティパルディは抗議の撤退なので除く)。元のフォードエンジンを使うパトレーゼが前GPで結果を出したばかりであるだけに、余計に屈辱的である。
 一方で、ATSのM.ヴィンケルホックの予選5位は光る。ATSとはドイツのホイールメーカー。1978年から参戦。
 決勝は7周目に事故で赤旗中断となり、周回数が若干少なくなった。J.ワトソンが予選17番手から勝った。これまでのワーストグリッドからの優勝記録は、1973年第3戦のJ.スチュワートの16番手である。これを上回るのか下回るのか表現に迷うけれども、とにかく新記録となった。

 ■ 6月13日 第8戦 カナダ
 決勝スタート。エンストを起こして動かないピローニを、各車が何とか避けていく。しかし集団の最後の方になって、オゼッラのマシンが高速で激突した。乗っていたリカルド・パレッティは、マシンからの出火により死亡した。享年23歳。
 中断後にレースは再開され、イベントが終わったのは午後8時になった。ピローニはファステストを記録した。勝ったのはN.ピケで、1週間前の予選落ちからの極端な復活劇となった。

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 ■ 7月3日 第9戦 オランダ
 フェラーリはこのレースからパトリック・タンベイを起用した。これまでの成績はパッとしない、33歳のフランス人。G.ヴィルヌーヴとは友人で、彼のカーナンバー27を引き継ぐことになった。
 ターボエンジンを装着するトールマンのD.ワーウィックがファステストラップを記録した。前年は、12戦に出場して決勝に進めたのはたったの1戦きり、という結果だったけれども、ハート製ターボエンジンは少しずつ結果を残していく。ブラバムも2台共BMWターボエンジンを用いるようになった。

 ■ 7月18日 第10戦 イギリス
 ラウダがシーズン2勝目。トールマンのD.ワーウィックは一時2位を走行した。
 ティレルのB.ヘントンがキャリア初のファステストラップを記録した。実は、非・入賞者のなかで唯一のファステストラップである。イギリスF3や'80年のF2を制した、下位カテゴリーの雄であったが、F1で光ったのはこのときだけであった。

 ■ 7月25日 第11戦 フランス
 ルノーが地元でワンツーフィニッシュを決めたものの、R.アルヌーにチームオーダー拒否があった。ポイントで先行する後輩プロストに順位を譲らなかったのだ。各チーム、各ドライバー、全く波に乗れない。
 そんななかD.ピローニが3戦連続表彰台を成し遂げ、タイトル争いで一歩抜け出した。とはいっても、残り5戦を全勝した場合45点になるので、全てのドライバーに未だタイトルのチャンスがあった。

 ■ 8月8日 第12戦 ドイツ
 予選でトップタイムをたたき出したピローニが、前車に乗り上げてクラッシュした。両足複雑骨折の重傷を負い、選手生命が絶たれてしまった。彼の最後の一戦は、決勝に出場していないけれども、PPとは認められている。
 高速サーキットではターボ勢が強く、予選上位を有力車の6台が占めた。
 決勝。E.サラザールに追突されてリタイヤしたN.ピケが、相手に暴力をふるった。
 開幕時のエースを二人とも失い、意気消沈するフェラーリに、P.タンベイが光明をもたらした。ピケのリタイヤでトップに立つと、力のこもった走りで後続を振り切り、初優勝を遂げたのだ。コンストラクターズ・ランキングではこれでトップに踊り出た。

 ■ 8月15日 第13戦 オーストリア
 前GP同様、予選上位をターボエンジンの5台が占めた。レースをリードしたのもターボ勢であったが、終盤までにいずれもトラブルで脱落した。ロータスのE.デ・アンジェリスが首位に立った。キャリア初のトップランである。これを必死に追い上げるのがウィリアムズのK.ロズベルグ。ともにフォードDFVエンジン搭載車である。
 最終ラップのコントロールライン、ロズベルグはスリップストリームから前車に並んで追い抜いた。しかし、追い抜いたのはレース終了後! 惜しくも届かなかった。差は0.05秒(0.125秒という説もあり)であった。
 ロータスはチャンピオンとなった'78年以来の勝利である。

 ■ 8月29日 第14戦 スイス
 フランスのディジョンサーキットにおいて、スイスGPの名前を冠してF1が開催された。よって今季はフランスで2回F1が開催されたことになる。スイス本国にもサーキットはあるが、'55年のル・マンでの大事故があり、二度とレースを開催しないことになっている。

 P.タンベイが予選後に体調不良を起こして決勝を辞退した。決勝レースからフェラーリの姿が消えた。
 レースのほとんどをリードしていたプロストを、ロズベルグは、残り2周のところで今度こそ力でねじ伏せた。シーズン中盤以降コツコツと積み上げたポイントも活きて、この勝利によってランキングトップに踊り出た。
 ロズベルグはもちろんこれが初勝利。3戦連続で新ウィナー誕生となった。

 ■ 9月12日 第15戦 イタリア
 フェラーリはドライバーの不足を埋めるため、アメリカからマリオ・アンドレッティを呼び寄せた。アンドレッティは期待に応え、緒戦でPPの位置につけた。またもや高速サーキットでターボエンジンの有力車6台が上位を占めた。
 決勝では、R.アルヌーが予選6番手から1周目でトップに立ち、そのまま順位を譲らずに勝った。F1のスタート方式は、'79年から2列スタッガード方式に変わっている。従来の方式に比べて、1周目の順位変動が抑えられることになる。このときのアルヌーは、スタッガード方式変更以後のワーストグリッドからの1周目1位通過の記録になっている。

 ■ 9月25日 最終の第16戦 ラスベガス
 P.タンベイは、再び予選後に体調不良を訴え、決勝を辞退した。
 最終戦で、ティレルもロータス同様4年ぶりの勝利を飾った。こちらの方が低迷が激しくて、予選でシングルグリッドを獲得するのが難しくなったばかりでなく、昨年は予選落ちを4回喫した。
 今季は、2年目のM.アルボレートが随所で健闘していた。当然、彼も初優勝。今季5人目。
 タイトルはロズベルグのものになった。
 

 ■ シーズン後
 16戦でウィナーが11人という混沌としたシーズンが幕を閉じた。いかに混沌としていたかは、次の数字からもわかる。PPからの勝利が2回のみ(PP勝率12.5%は最低)、チャンピオンが44点(全得点シェア11.0%は最小)、チャンピオンが1勝(1958年以来2度目)、表彰台に上った者も18人で最多、優勝したコンストラクターが7つで最多、、、などなど。
 ルノーはPP10回と昨年に引き続き最速であったが、二人とも半分近くをリタイヤで終えた。フェラーリは、両エースを失う苦しい展開の中、コンストラクターズタイトルを得ることができた。
 12月の終わり頃、ロータスの創設者、コリン・チャップマンが心臓発作のため死去した。54歳。レースに勝つとき、チェッカーフラッグとともに帽子を高々と投げ上げるパフォーマンスで有名だったが、E.デ・アンジェリスの勝利で見納めとなった。
 G.ヴィルヌーヴ、R.パレッティ、D.ピローニと、この年発生した重大なクラッシュは、いずれも追突によるものだった。ウイングカーの操縦性について、ステアリングが重くなるという問題が元々あった。加えて、より多くダウンフォースを得るために、コクピットが異様なほど前方に位置づけられた。操縦性悪化とともに、コクピットが前進するのでは、追突時の危険が増すばかりである。さらに、ガチガチに固められたサスペンションがドライバーに大きな負担をかけることも指摘された。シーズン終盤、P.タンベイが予選後に欠場したのも、背骨を痛め、首と腕が麻痺したためであった。
 こうした事態を受けて、FISAは翌年からのフラットボトム化、すなわちウイングカーの禁止を決めた。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ディディエ・ピローニ Didier Pironi
 再起不能の重傷を負ったピローニは、リハビリの結果、パワーボードの選手として復活を遂げた。しかし'87年、事故により死亡した。
生年月日 1952年3月26日
没年月日 1987年8月23日
国籍 フランス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1978ティレル1516
1979ティレル1015
1980リジェ512214
1981フェラーリ13115
1982フェラーリ222210
34570


カルロス・ロイテマン Carlos Reutemann
 ロイテマンは引退後に政治家へと転向し、アルゼンチンのサンタフェ市長に就任したりした。チャンピオンにはなれなかったが、デビュー戦ポールポジション、15戦連続入賞など、チャンピオンでも達成が困難な記録を残した。また12勝しつつ連勝がない点も特徴的である。
生年月日 1942年4月12日
国籍 アルゼンチン
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1972ブラバム16110
1973ブラバム715
1974ブラバム631115
1975ブラバム3114
1976ブラバム1613
1977フェラーリ4117
1978フェラーリ342216
1979ロータス615
1980ウィリアムズ3114
1981ウィリアムズ222215
1982ウィリアムズ152
1265146


ジル・ヴィルヌーヴ Gilles Villeneuve
生年月日 1950年1月18日
没年月日 1982年5月8日
国籍 カナダ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1977マクラーレン
フェラーリ
-3
1978フェラーリ91116
1979フェラーリ231615
1980フェラーリ1014
1981フェラーリ721115
1982フェラーリ154
62867


マリオ・アンドレッティ Mario Andretti
 マリオ・アンドレッティは、ロイテマンと同じく、デビュー戦ポールポジションの記録を持つ(ただし少々問題あり)。よって、デビュー直後と引退直前にモンツァでPPということになる。インディ500の予選を走ったあと飛行機でモナコの予選に現れたことがある。これは、ドライバーの健康管理の問題に発展した。F1を離れたあとは、アメリカのCARTでの活動に専念した。1984年には4度目のCARTチャンピオンに輝いた。ル・マンを息子と二人で走ったこともある。その息子マイケルも後にF1に進出する。現在は孫のマルコもCARTで活躍し出したところである。
生年月日 1940年2月28日
国籍 アメリカ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1968ロータス-11
1969ロータス-3
1970マーチ155
1971フェラーリ8115
1972フェラーリ125
1974パーネリ-2
1975パーネリ14112
1976ロータス
パーネリ
611115
1977ロータス347417
1978ロータス覇者68316
1979ロータス1015
1980ロータス2014
1981アルファロメオ1715
1982ウィリアムズ
フェラーリ
1913
121810128


ヨッヘン・マス Jochen Mass
 ヨッヘン・マスは引退後、いくつかのスポーツカー・レースに出場した。また1990年頃の有名なメルセデス若手育成メンバーの一人にもなった。1975年の唯一の勝利は、赤旗中断によってハーフポイントとされたもの。
生年月日 1946年9月30日
国籍 ドイツ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1973サーティース-3
1974サーティース
マクラーレン
-12
1975マクラーレン71114
1976マクラーレン9116
1977マクラーレン617
1978ATS-10
1979アロウズ1513
1980アロウズ1711
1982RAM(マーチ)-9
12105

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