- ■ シーズン前
- 全15戦中、11戦のポイントが有効である。
- 前年からのFISAとFOCAの対立が深くなり、世界選手権が二分する恐れすらあった。FOCAが独自に南アフリカGPを開催し、FISAがこれを世界選手権として認めないと発表するにまで至った。やがてコンコルド協定が結ばれ、FISAがF1を管理・統括し、FOCAが運営・実行することで、両者の主張が合意に至った。
- ドライバーの移籍。2年目のA.プロストがルノーに移り、ルノーを引っ張ってきたJ-P.ジャブイユはリジェに移った。D.ピローニのフェラーリ移籍は昨シーズン前半に決定していた。
- リジェは、タルボという市販車メーカーと結びつき、名前もタルボ−リジェとなった。単にタルボとして扱われることもある。この提携関係の影響から、マトラ製エンジン(V12)を再び使用することになった。1978年以来のことである。
- プロジェクト4(代表ロン・デニス、設計者ジョン・バーナード)と合併したマクラーレン。マシン名は現在まで受け継がれる「MP4/某」というものに変わった。テディ・メイヤーなどの旧スタッフらは間もなくチームを去った。
- ルノーに続いて、フェラーリがターボエンジンを用い始めた。
- エンサイン、セオドール、ATSといった弱小チームは一台体制である。他にも、オゼッラ、フィッティパルディ、トールマン、マーチ(RAM)がある。
- マシン技術に新機軸がいくつか登場した。マクラーレンのジョン・バーナードは、それまでのアルミニウム製モノコックに対して、炭素繊維を使用したカーボンファイバー製のモノコックを開発し、F1の軽量化と安全性向上に貢献した。ロータスはユニークなツインシャシーを開発したが、レギュレーションに抵触するとの事で、出場は難航した。
- ブラバムのものは少し意味合いが異なる。ダウンフォースを下げてスピードを抑えるために、今季から最低地上高が6cm以上と定められた。しかしブラバムは車高調整が可能なサスペンションを開発し、測定不可能な走行中は車高を上げ、ピットイン時は車高を下げた。ハイドロニューマティック・サスペンションと片仮名が並ぶと見栄えはいいが、あからさまに規則の盲点をついている卑怯な技術であった。しかしFISAはこれを黙認し、他チームは瞬く間にブラバムを真似た。車高が不自然に高いマシンがピット・ゲートを埋めるようになった。
- タイヤのAVとはイギリスのエイボン社のことである。今季はタイヤを巡ってちょっとした揉め事があった。
チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
ウィリアムズ |
フォードDFV |
アラン・ジョーンズ カルロス・ロイテマン |
残留 残留 |
MI、GY |
タルボ−リジェ |
マトラ(V12) |
J-P.ジャブイユ パトリック・タンベイ ジャック・ラフィー |
ルノー 復帰 残留 |
MI |
ブラバム |
フォードDFV |
ネルソン・ピケ ヘクトール・レバーク |
残留 残留 |
MI、GY |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
アラン・プロスト ルネ・アルヌー |
マクラーレン 残留 |
MI |
ロータス |
フォードDFV |
エリオ・デ・アンジェリス ナイジェル・マンセル |
残留 新人 |
MI、GY |
ティレル |
フォードDFV |
エディー・チーバー ミケーレ・アルボレート |
オゼッラ 新人 |
MI、GY、AV |
アロウズ |
フォードDFV |
リカルド・パトレーゼ ジークフリート・ストール |
残留 新人 |
MI、PI |
マクラーレン |
フォードDFV |
ジョン・ワトソン アンドレア・デ・チェザリス |
残留 アルファロメオ |
MI |
フェラーリ |
フェラーリ(V6ターボ) |
ジル・ヴィルヌーヴ ディディエ・ピローニ |
残留 リジェ |
MI |
アルファロメオ |
アルファロメオ(V12) |
マリオ・アンドレッティ ブルーノ・ジャコメリ |
ロータス 残留 |
MI |
エンサイン |
フォードDFV |
マルク・スレール エリセオ・サラザール |
ATS 新人 |
MI、AV |
ATS |
フォードDFV |
ヤン・ラマース スリム・ボルグッド |
残留 新人 |
MI、AV |
セオドール |
フォードDFV |
パトリック・タンベイ マルク・スレール |
復帰 新人 |
AV |
- ■ 3月15日 第1戦 アメリカ西
- 前年の予選平均順位が13位だったアロウズのR.パトレーゼが、緒戦で予選1位につけた。アロウズ唯一のポールポジションである。決勝でも、前半は首位を快走した。しかし、33周目の燃料系トラブルで優勝はならず…。
- 6位入賞のセオドールとは、初の東洋人オーナー、テディ・イップが率いるチームである。'74年にエンサインへの資本提供でF1進出を果たし、'78年に自製マシンでの参戦にこぎつけた。のち数年間プライベーターに甘んじたものの、今季からの再挑戦は幸先のよいスタートとなった。
- ■ 3月29日 第2戦 ブラジル
- C.ロイテマンの勝利は、チームの支持を無視して、A.ジョーンズに順位を譲らなかったものだという。以後、両者は目を合わせもしなくなった。ロイテマンは、今季タイトルに特にこだわっていたのではないだろうか。いきなり"えげつなさ"を表した感じがする。ラウダやハントやシェクターら同期生は、チャンピオンになってグランプリを去った。華々しいデビューを飾り、常にトップチームを渡り歩くロイテマンは未だチャンピオン争いの主役になったことがなく、老け込んで、今や年少の者が王者を争っていた。"もう待てない"と焦りがあったのかもしれない。
- 小規模チームとして風雲の時代を戦い抜いてきたエンサイン。翌年を以って吸収される運命にあるのだが、このレースで唯一のファステストラップを残した。このときのメカニックが津川哲夫氏であったという。
- また、これはマルク・スレールの唯一のファステストラップでもある。入賞数は多いものの表彰台がないという、いわば"表彰台が遠かった"ドライバーの一人である。
- ■ 5月3日 第4戦 サンマリノ
- 昨年イタリアGPとして開催されたイモラ・サーキットは、今季から隣国のサンマリノの名前を冠して開催され続けることになる。
- フェラーリのターボエンジンは、登場して4、5戦で真価を発揮し出した。フェラーリのお膝元で今季初のPPとなった。決勝でも、終盤までヴィルヌーヴとピローニの2人がレースをリードした。
- しかし勝者は、新サスペンションを装着したブラバムのN.ピケだった。
- 新技術といえばロータスのツインシャシーだが、4月下旬に規則違反が指摘され、この決定に反発したチームは本戦を欠場した。
- ■ 5月17日 第5戦 ベルギー
- 金曜日の予選にて、ロイテマンの操るマシンが、ピットロードにおいてオゼッラのメカニックを跳ねた。
- メカニックの容態が心配されるなかイベントは続けられ、決勝スタートの時間を迎えた。実はこの週末、GPDA(ドライバー協会)は、予備予選実施による予選出走台数の制限を訴えていた。それが認められなかったことで、ドライバーたちはグリッド上で抗議行動を起こし、スタートの手順が大きく狂ってしまった。そんななかでアロウズのパトレーゼがグリッド上でエンストを起こした。メカニックがコースに出てマシン後部にしゃがみ込む。この状況でスタートが強行された。後続車はギリギリでこれを避けるが、同じアロウズのS.ストールがこれに激突してしまった。
- 即座にマシンを降りて、惨劇に頭を抱えるストール。命は助かったが、両足複雑骨折で、気絶したメカニックの足は奇妙な方向に折れ曲がっていた。このとき1周してきた先頭のピローニは、異変に気づいて蛇行運転に切り替え、後続に事態を伝えた.
- 決勝は雨のために54周で打ち切られた。優勝したのはロイテマン。昨年からの連続入賞を15に伸ばし(ちょうど1年間)、ランキングでも頭一つ抜け出した。しかし彼に跳ねられたオゼッラのメカニックは、翌週になって死亡してしまった…。
- ■ 6月21日 第7戦 スペイン
- この一戦から、ロータスは常勝時代のJPSカラーに戻った。
- チームの異なる5台が完全に数珠のように連なって、僅差でチェッカーを受けたとして有名なレース。勝ったヴィルヌーヴはトップより1.2秒落ちの予選7位。コーナーでの操縦性に難を抱えていた。その彼が、カウンターステア炸裂のテクニックとターボを活かした直線スピードによって、後続の猛追を防ぎきった。抜きどころがないハラマ・サーキットの特性が大きく影響したのかもしれない。とはいえ、PPのラフィーはスタート失敗によって11位まで後退し、そこから追い抜きにつぐ追い抜きを見せたのだった。そして、最後の牙城のみ、18周かかっても抜き去ることができなかった。40度を越える気温のなか繰り広げられた熱戦であった。
- ■ 7月5日 第8戦 フランス
- 実は、昨年末、グッドイヤーはF1からの撤退を発表していた。10年以上GPの顔であったタイヤメーカーが撤退したことで、動揺が起きた。フランスのミシュランがワンメイクを引き受けたが、大陸系のワンメイクに我慢できないFOCAがイギリスのエイボン社を参戦させた。新興チームのトールマンはピレリが支援していて、トールマンは同タイヤを用いた。
- そしてこのGPから、グッドイヤーがまた細々とタイヤ供給を再開した。こうして、'81年シーズンは、ミシュラン、グッドイヤー、ピレリ、エイボンと4つのタイヤメーカーが乱立する事態となった。
- 今季これまで1勝もしていない元祖ターボエンジンチームのルノー。その地元GPは、雨で中断し2ヒート制のレースになった。A.プロストはトップのピケより6.8秒遅れの2位だったものの、中断中のタイヤ交換が成功し、残り22周でこれを逆転した。ルノーは遅ればせながら勢いがついてきて、次戦から4戦連続フロントローを成し遂げる。
- ■ 7月18日 第9戦 イギリス
- 首脳陣が入れ変わったマクラーレンには、まず予選順位に変化が現れ、この地元イギリスで早くもうれしい結果となった。実に4シーズン54戦ぶりに勝利の美酒。前回の勝利はといえば、'77年最終戦の日本になる。現在まで続くマクラーレンの歴史の中で最も勝ちに見放されたのが、この期間であった。
- また、6位のスリム・ボルグッドは、ポップ・グループのABBAのセッションドラマー(ABBAは決まったドラマーを持たない)という仕事も持っていた。これが唯一の入賞である。
- ■ 8月2日 第10戦 ドイツ
- N.ピケはシーズン3勝目。前年は最終戦で涙をのんだ彼は、ここから連続完走・入賞を繰り返す。コツコツとポイントを積み上げ、ランキング首位を走るロイテマンを追い詰めていく。
- ■ 9月13日 第13戦 イタリア
- 対するロイテマンは、この1ヶ月の間に2度、チームメイト・A.ジョーンズの後塵を拝することになった。ウィリアムズは、第2戦で勃発した確執に対して手をこまねいていて、チームオーダーによる順位変動を指示しなかった。一度指示を無視したロイテマンのために、ディフェンディング・チャンピオンに順位を譲れとは言い難いものだ。ウィリアムズはこのときから現在まで、ずっとジョイントNo.1体制をとることになる。
- プロストもシーズン3勝目をあげた。残り2戦の時点で、ロイテマンとピケが一歩抜きん出ているものの、5人にチャンピオンの可能性があった。
- ■ 10月17日 最終の第15戦 アメリカ
- ☆ラスベガス…カジノで有名なネバタ州ラスベガスにおいて、'81年と'82年の2年間のみF1グランプリが開催された。ホテルの駐車場と空き地を利用してコースがつくられた。
- そのラスベガスがチャンピオン決定の舞台となった。当地のギャンブラーたちにも結果は予想がついただろうか。
- とはいえ白熱した戦いが展開されたわけではなかった。優勝しかないJ.ラフィーは予選で後方に沈んだ。PPのロイテマンはギヤボックスの不調からズルズルと順位を落とし、1周遅れのポイント圏外を走ることになった。N.ピケはマシンから降りられぬほどの体力消耗に苦しんだものの、5位2点を獲得した。レースに勝ったのはジョーンズで、タイトルはN.ピケのものになった。
- ■ シーズン後
- ネルソン・ピケはこのときF1参戦4年目の29歳。15戦で50得点とは、これまでにない少得点のチャンピオンである。混沌としたシーズンの趨勢を適確に見抜き、終盤になるとペースを操作して1点でも2点でももぎ取る戦法で、ブラジル人2人目のチャンピオンとなった。
- 対するカルロス・ロイテマンは、このとき38歳。前年から続く連続入賞で稼いだ貯金が、最後の最後で尽きた。15戦連続入賞とはこれまでで最多連続の記録だけれども、通算12勝のなかに連勝がない。ライバルを圧倒する勢いに今ひとつ欠けていた。
- 前年チャンピオンのA.ジョーンズは一時的な引退を発表した。
- ■ サーキットを去るウィナーたち
- ジャン・ピエール・ジャブイユ Jean-Pierre Jabouille
- 昨年終盤に大怪我を負ったジャブイユは、6戦を走ったのち引退を発表した。入賞率1ケタのウィナー。なにしろ、3回しか入賞していないのだ。ターボエンジンの故障の原因をあぶり出すために、無理な先行策をとり続けた。だから、この全ウィナー中最低の入賞率は、開発者兼ドライバーの彼にとって、大きな勲章だと言えるだろう。
生年月日 1942年10月1日
国籍 フランス
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1974 | サーティース | - | | | | 0 |
1975 | ティレル | - | | | | 1 |
1977 | ルノー | - | | | | 4 |
1978 | ルノー | | | | | 14 |
1979 | ルノー | | 1 | 4 | | 14 |
1980 | ルノー | | 1 | 2 | | 13 |
1981 | リジェ | | | | | 3 |
計 | | | 2 | 6 | 0 | 49 |
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