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  F1今昔物語 1978年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 前半8戦中7戦、後半8戦中7戦が有効得点である。
 ニキ・ラウダはブラバムのマシンで連覇を狙うことになった。ペテルソンがティレルからロータスに移籍して、こちらも念願のチャンピオンの機会を窺う。
 昨年プライベーターに転落したウィリアムズは、コンストラクターとしてグランプリに帰ってきた。サウディア航空というビッグスポンサーを得ている。
 下のエントリー表では割愛したが、新チームも多く参戦した。旧ペンスキーのスポンサーでホイール会社のATS、フランスのマルティーニ、マカオの実業家テディ・イップのセオドール、イタリア人ドライバーA.メルヅァリオの自チームである。
 もう一つの新参チーム、アロウズは、シャドウが分裂して出来たものである。そして、シャドウのデザインを盗作したとしてシーズン中、裁判沙汰になり、敗訴した。デザイナーのトニー・サウスゲイトが、シャドウのマシンをつくったあと、アロウズに移籍したためである。オーナーやスポンサーの頭文字が、チームの名前になっている。
 この年から、ルノーに続いてフェラーリもミシュランタイヤを使用し、グッドイヤーとの激しい技術革新の競争が起こった。'66年からの"3リッターエンジン持て余し"問題は、空力の面ではグラウンドエフェクト効果が技術者たちの解答になりつつあった。空力の面が解決するとすぐにタイヤの面へとイノベーションの方向性が移行していく。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(F12) カルロス・ロイテマン
ジル・ヴィルヌーヴ
残留
新人
MI
ロータス フォードDFV(V8) マリオ・アンドレッティ
ロニー・ペテルソン
残留
ティレル
GY
マクラーレン フォードDFV(V8) ジェームズ・ハント
パトリック・タンベイ
残留
エンサインpvt
GY
ウルフ フォードDFV(V8) ジョディー・シェクター 残留 GY
ブラバム アルファロメオ(F12) ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
フェラーリ
残留
GY
ティレル フォードDFV(V8) パトリック・ドゥパイエ
ディディエ・ピローニ
残留
新人
GY
シャドウ フォードDFV(V8) クレイ・レガッツォーニ
H-J.シュトゥック
エンサイン
ブラバム
GY
リジェ マトラ(V12) ジャック・ラフィー 残留 GY
フィッティパルディ フォードDFV(V8) エマーソン・フィッティパルディ 残留 GY
サーティース フォードDFV(V8) ヴィットリオ・ブランビラ
他多数
残留
 
GY
ルノー ルノー(V6ターボ) J-P.ジャブイユ 残留 MI
ウィリアムズ フォードDFV(V8) アラン・ジョーンズ シャドウ GY
アロウズ フォードDFV(V8) リカルド・パトレーゼ
ロルフ・シュトメレン
シャドウ
復帰
GY


 ■ 1月29日 第2戦 ブラジル
 ☆リオ・デ・ジャネイロ…後にネルソン・ピケ・サーキットとも呼ばれることになる海辺のサーキット。主に80年代に開催された。ピケやセナの祖国になるが、異国のライバルであるプロストが5勝をあげた。

 ミシュランタイヤは2戦目にして初勝利を遂げた。グッドイヤーは、'65年最終戦のホンダの勝利から数えて、このとき100勝以上を達成している。何処まで迫れるか…。
 E.フィッティパルディは、'75年以来の表彰台に立った。それも母国においてである。母国のチームに移って以降、彼の成績は伸び悩み、予選落ちを喫することもあった。優勝チームを大陸別に見ると、ヨーロッパ以外では日本のホンダしか勝っていない。これからも、祖国の期待を背負った彼の苦闘は続く。

 ■ 3月4日 第3戦 南アフリカ
 ここまでの2戦は、ロータスやフェラーリが独走する単調な展開だったが、この一戦ではウルフのシェクターやアロウズのパトレーゼがレースをリードした。終盤になってティレルのドゥパイエが首位の座を固め、初勝利の栄を掴み取るかと思った最終周に、ペテルソンに屈した。入賞者が全員予選10位以下というのは、F1史上初のことである。

 ■ 5月7日 第5戦 モナコ
 第3戦で逃したドゥパイエの初勝利は、由緒あるモナコですぐに達成された。ここまで表彰台に立つこと通算15回を数えた。ティレルも2シーズンぶりの勝利である。序盤の5戦で4回表彰台に立ち、ポイントリーダーになった。こうして、かつての名門チームの復活が成ったかと思われたが、ウイングカーのフィーバーが嵩じていくに連れて、再び低迷していく。

 ■ 5月21日 第6戦 ベルギー
 このGP前後からロータスの新型79が登場し、その速さに拍車がかかってくる。ラウダ、ハント、フィッティパルディといった王者たちは、1周も走れずにリタイヤした。その一方でロータスがワンツーフィニッシュを遂げたのだから、いっそう"ウイングカー強し"の印象が深まった。以降、アンドレッティはリタイヤも多かったが、順調に完走したレースでは、全て勝利を遂げた。
 しかし、本戦において、ロータスの二人に対して気を吐いた若者が一人いた。カナダの新人、ジル・ヴィルヌーヴである。中盤パンクに見舞われるまで、気迫の走りで2位を維持したのだ。デビュー直後のフェラーリ加入は、プレッシャーにもなったろうけれど、その情熱的な走りによって、次第にグランプリのなかで頭角をあらわしていく。

 ■ 6月17日 第8戦 スウェーデン
 ロータスのウイングカーに対抗すべく、ブラバムがファンカーを持ち出してきた一戦である。マシンの後ろに巨大なファン(換気扇)をつけ、空気を送り出す力をダウンフォースに変えようという作戦だった。速くなっただけでなく、ブラバムの後ろについたマシンは大量のゴミを浴びることになった。レースの1週間後、競技規定に違反した仕組みであると指摘を受け、この一戦で使用禁止となった。
 アロウズのパトレーゼが2位でフィニッシュした。ロータス79を従えてのこの結果は、実は驚くべきものである。なぜなら、ロータス79の登場以後、このマシンが完走を果たしたときは、必ず1位でフィニッシュしているからである。このスウェーデンでは反則気味のファンカーに屈し、イタリアではフライングによって後方に沈む形になった。しかし、ロータス79は、"リタイヤ"か"何人たりとも前を走らせぬ"展開を第15戦まで続けたのである。このときのパトレーゼがどんな走りだったかは現代に伝わっていないが、ロータス79の前でフィニッシュしたことは、注目に値することだと思う。

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 ■ 8月13日 第12戦 オーストリア
 この年のルマン24時間レースで、ポルシェとの死闘の末、初制覇を果たしたルノー。悲願を達成して、F1にも本腰を入れて活動することになる。本戦では予選で3位につけた。ターボエンジンは、過給圧をあげると壊れやすくなる。他にも、スロットルを踏んでから実際の加速までのタイム・ラグの問題もあった。「走るエンジニア」J-P.ジャブイユとともに、メカニックたちは試行錯誤を繰り返す。
 決勝は突然の大雨のために、8周終了時点で中断され、2ヒート制のレースとなった。半数近くのマシンがアクシデントでリタイヤした。この荒れたレースを制したペテルソン、これが彼の最後の勝利となるとは誰が予想できただろう…。
 また、完走した11位まで異なるチームのマシンが並んだ。これはF1史上唯一のことである。

 ■ 8月27日 第13戦 オランダ
 マリオ・アンドレッティも、これが最後の勝利となる。ロータスは今季、明確なチームオーダーをとっていた。アンドレッティ、ペテルソンの順でのワンツーフィニッシュは実に4回を数えた。グッドイヤーとしては、ロータスの勝利はアメリカ人であるアンドレッティにあげてもらいたいようで、そのあたりの政治的サポートを得ていたという。ペテルソンは一度ロータスを見限ったことがあったので、この点でも、今季のチームオーダーにつながったのではないかと思われる。
 アンドレッティは、イタリア系アメリカ人である。第二次大戦によって祖国を捨て、移民となった。小柄ながら鍛えられた体躯をしていた。時差を利用して、欧と米の二つのレースに出場したこともあった。ヨーロッパのレースにも家族を連れてきて、子供がピットで遊ぶ姿が記憶に残っている人もいるようだ。この二人の息子もレースの世界に入り、'83年にはアンドレッティ父子がルマンで3位になった。'68年デビューのとき28歳だから、かなりの年だが、もう4年F1に出場しつづける。

 ■ 9月10日 第14戦 イタリア
 マシンを豪快にねじ伏せる走りで、ファンを魅了しつづけたロニー・ペテルソンは、ここイタリアの地で没した。全くのもらい事故から、杜撰な手当てを受けて、という悲運の死であった。
 決勝は、各車がグリッドに整列している最中にシグナルが灯るという異常事態によって開始された。前方は止まった状態からの加速で、後方はスピードを持った状態からの加速で、めいめいが1コーナーに向かって突入していく。漏斗上に狭まった1コーナーでたくさんのマシンが行き場を失い、多重衝突が起こった。激しい火災も起きた。レースは中断された。タイヤを頭部にぶつけたV.ブランビラの容態が特に心配された。ペテルソンは両足を骨折していたものの、意識はあった。ただし、この負傷によってアンドレッティのチャンピオンが決定的になったことを周囲は知った。
 再スタート前にもシェクターがクラッシュし、再びレースが中断した。結局、3時間遅れの40周に短縮された形でレースは再開され、今度は慎重すぎるシグナル点灯のために、アンドレッティとヴィルヌーヴが、フライングを犯してしまった。その2台が好ファイトを演じて3位以下を引き離していくが、1分加算のペナルティを覆すことは適わなかった。勝ったのはブラバムのラウダだった。
 ペテルソンは翌日に容態が急変し、この世を去った。骨折箇所から沈殿物が体内を巡り、閉塞を起こしたのだという。
 アメリカ人2人目のチャンピオンが、痛ましい雰囲気のなか誕生した。'61年のP.ヒルも、イタリアGPでチームメイトを事故で失った結果、チャンピオンになった。そのときとレースの日付も同じとは奇妙な因縁である…。

 ■ 10月8日 最終の第16戦 カナダ
 ☆モントリオール…ノートルダム島公園の周遊道路を利用したサーキット。'76年のオリンピックの施設を用いて建設された。'78年から現在まで途切れることなく開催されつづけている。スタート直後1コーナーでの多重事故と、終盤最終コーナーでのブレーキングミスによるクラッシュが多い。交通の便がよいことでも有名。

 ペテルソンの代役を任されたのが、J-P.ジャリエだった。前GPではFLを記録した。カナダでもPPから首位を独走する。しかし、50周目にブレーキが壊れ、初優勝の栄光は地元のヒーロー、ヴィルヌーヴの手に移った。

 ■ シーズン後
 ロータスはシーズン8勝で余裕のチャンピオンとなったが、またしてもドライバーの死に遭った。前年3勝したハントのマクラーレンは、今季、まったく振るわなかった。シェクターのウルフも見劣りのする成績でシーズンを終えた。この時期はチームの浮き沈みが激しい。シャドウは分裂の影響で低迷し、資金不足に陥る。サーティースはこの年を以って撤退した。
 この年は有望な新人が数多くデビューした。ネルソン・ピケ、ケケ・ロズベルグ、ディディエ・ピローニ、ルネ・アルヌーらである。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ロニー・ペテルソン Ronnie Peterson
 ペテルソンは、スウェーデンのパン屋の息子で、苦労人だった。英語読みでピーターソンと呼ばれることも多い。スターリング・モスと並んで、「無冠の帝王」と称される。マシンに乗ったときの力量はピカ一であったが、この時代は、マシンを熟達させる技もドライバーに求められた。彼には、良くも悪くもそれが皆無であった。今季は、いいマシンに恵まれたが、政治的サポートに一歩譲る形になり、もらい事故によって惜しまれる死を迎えた。当に「悲劇のヒーロー」である。
生年月日 1944年2月14日
没年月日 1978年9月11日
国籍 スウェーデン
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1970マーチ-9
1971マーチ211
1972マーチ912
1973ロータス349215
1974ロータス531215
1975ロータス1214
1976ロータス
マーチ
1111116
1977ティレル14117
1978ロータス223314
10149123


グンナー・ニールソン Gunnar Nilsson
 もう一人のスウェーデン人ドライバー、グンナー・ニールソンにも悲劇が襲った。彼は昨年末からガンと戦っていた。そしてシーズン終了後の秋に他界するのである。このような深刻な病気に遭っていなかったら、アロウズのエースドライバーに迎えられ、どんな走りを見せてくれただろうか。この'78年を最後にスウェーデンGPは開催されなくなって久しい…。
生年月日 1948年11月20日
没年月日 1978年10月20日
国籍 スウェーデン
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1976ロータス1015
1977ロータス81116
10131

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