- ■ シーズン前
- 前半9戦中8戦、後半8戦中7戦が有効得点。
- 主な移籍話しは、カルロス・ロイテマンのフェラーリ入り、ジョディー・シェクターのティレル離脱とウルフ加入などが挙げられる。
ワークス・チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(F12) |
ニキ・ラウダ カルロス・ロイテマン |
残留 ブラバム |
GY |
マクラーレン |
フォードDFV(V8) |
ジェームズ・ハント ヨッヘン・マス |
残留 残留 |
GY |
ティレル |
フォードDFV(V8) |
ロニー・ペテルソン パトリック・ドゥパイエ |
マーチ 残留 |
GY |
ロータス |
フォードDFV(V8) |
マリオ・アンドレッティ グンナー・ニールソン |
残留 残留 |
GY |
リジェ |
マトラ(V12) |
ジャック・ラフィー |
残留 |
GY |
マーチ |
フォードDFV(V8) |
イアン・シェクター アレックス・リベイロ |
残留 ヘスケス |
GY |
シャドウ |
フォードDFV(V8) |
トム・プライス レンツォ・ゾルツィ 他多数 |
残留 新人 |
GY |
ブラバム |
アルファロメオ(F12) |
ジョン・ワトソン カルロス・パーチェ H-J.シュトゥック |
ペンスキー 残留 マーチ |
GY |
サーティース |
フォードDFV(V8) |
ヴィットリオ・ブランビラ 他多数 |
マーチ |
GY |
フィッティパルディ |
フォードDFV(V8) |
エマーソン・フィッティパルディ |
残留 |
GY |
エンサイン |
フォードDFV(V8) |
クレイ・レガッツォーニ |
フェラーリ |
GY |
ウルフ |
フォードDFV(V8) |
ジョディー・シェクター |
ティレル |
GY |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
J-P.ジャブイユ |
新人 |
MI |
プライベーター |
車体/エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
ATSレーシング |
ペンスキー・フォードDFV(V8) |
J-P.ジャリエ |
シャドウ |
GY |
セオドール・レーシング |
エンサイン・フォードDFV(V8) |
パトリック・タンベイ |
新人 |
GY |
- ■ 1月9日 第1戦 アルゼンチン
- シェクターが乗るウルフは、デビュー戦にして驚きの優勝を飾ってしまった。F1コンストラクターのデビューウィンは、初年度のアルファロメオと'54のメルセデスに続くものである。
- ウルフとウィリアムズの関係は紹介しておく必要がある。'76ウィリアムズのスポンサーだったのが、カナダの富豪ウォルター・ウルフである。この年のウィリアムズはカナダの富豪をスポンサーに迎え、'75年までのヘスケスチームの遺産を引き継いで、シーズンを戦った。ヘスケスのハーベイがそのままデザイナーに就き、ヘスケス308Cが、カラーリングだけを変えてそのままウイリアムズFW05になった。黒いカラーリングのFW05には、「Wolter Wolf Racing」と書かれていた。イクスやメルヅァリオが乗ったが、ノーポイントに終わった。
- そのハーベイ博士とロータスにいたピーター・ウォアらによって、今季、立ち上げられたのが、ウルフというチームである。テクニカルスタッフは、前々年のヘスケスのスタッフと前年のウイリアムズのスタッフだったようである。
- つまり、フランク・ウィリアムズは、前年までのスタッフとデザイナーを、元スポンサーにゴッソリ持っていかれた形になった。フランクは今季、プライベーターとしてマーチ761を走らせ、チーム再起を期す。翌年、パトリック・ヘッド作のFW06とアラン・ジョーンズの活躍によってグランプリに再浮上し、今日のウィリアムズの基礎を築き上げていくのである。
- ■ 3月5日 第3戦 南アフリカ
- 4年前、シャドウのメンバーでテスト中に事故死したP.レブソン。彼のカーナンバー16を引き継いだのが、トム・プライスであった。そして、彼もまたレブソンと同様にキャラミで、レース中に死んだ。誰もが一度聞いたら忘れられなくなるような悲劇的な事故によって、すなわち、哀れなマーシャルを跳ねてしまい、そのマーシャルが持っていた消火器が顔面に当たるという痛ましい事故によって…。
- また、レースから10日ほど経つと、今度はカルロス・パーチェの訃報がF1界に響き渡った。サンパウロで彼の乗った軽飛行機が墜落したのである。彼が初優勝を果たしたインテルラゴスには、カルロス・パーチェの名が刻まれることになった。
- ■ 4月3日 第4戦 アメリカ西
- F1初のグラウンド・エフェクト・カー、ロータス78は開幕当初から登場していた。そして4戦目で優勝を遂げた。
- ☆グラウンド・エフェクトカー…モノコック・シャシー、ウイング、楔形サイドラジエターに続く、ロータスの革新的新技術の第四弾(成功したもののみ)である。どんな技術かを文章で説明するのはチョット難しい。マシン下部の空気の流れを、もろにダウンフォース(マシンを地面に押さえつける力)に直結させた技術である。ウイングカー、ベンチュリーカーとも呼ばれる。'77年は信頼性の問題もあったが、翌'78年に他車を寄せつけない成績を見せ、その後、他チームに次々と伝播していった。他の三つの技術と同様、「ウイングカーにあらずんばF1マシンにあらず」と言えるほどになった。'66年から3リッターエンジンになり、有り余るエンジンパワーを如何に速さに結びつけるかが、技術者の課題であった。極端に言うと、ここ10年のF1マシンは"エンジンパワーの持ち腐れ"状態だったのである。この問題は、タイヤの面では先に決着がついていたが、マシン構造の面でもこのグラウンド・エフェクトの技術が決定案になった、と言える。
- ■ 5月22日 第6戦 モナコ
- 256戦出走という記録を持つ鉄人、リカルド・パトレーゼのF1レースキャリアは、ここから始まった。当時はまだ大学生で、しかも婚姻もしていたという。60年代に活躍したジャッキー・イクスと同じGPを戦い、21世紀に君臨した皇帝ミハエル・シューマッハのチームメイトにもなると考えると、そのキャリアの長さが窺い知れるというものである。
- 予選2位のシェクターが1周目でトップに立ち、抜きにくいモナコを1周もトップを譲らぬままに制した。これで堂々のランキング首位に踊り出た。
- ■ 6月5日 第7戦 ベルギー
- 雨と霧のゾルダーで、グンナー・ニールソンが初優勝を遂げた。終盤にラウダを追い抜いてキャリア初の首位走行を為し、そのまま勝利に結びつけた。
- ■ 6月19日 第8戦 スウェーデン
- ドライバーの初優勝が続いた。リジェのジャック・ラフィーは、残り3周というところで、アンドレッティの脱落により首位に踊り出た。
- 初優勝のリジェは、勝者として次戦の母国GPに臨むことができた。デビュー2年目にして既にPPも表彰台も経験しており、チームとしてつまづきのない成績である。それが以降も続く。
- ■ 7月3日 第9戦 フランス
- 序盤から順調に首位走行を続けていたブラバムのワトソンが、残り1周でアンドレッティにうっちゃられた。アラン・ヘンリー著『世界の有名な50レース』に、"それはないよね、ワトソン君"として紹介されている一戦である。
- 後半に差し掛かった時点で、5点差に4人がひしめくタイトル争いとなった。速さでは、ロータスのウイングカーがその威力を発揮しはじめ、他を引き離していた。ラウダとフェラーリに、昨年、一昨年のような速さが見られない。ハントが速かったのはシーズン序盤だけで、以降、名車M23の旧態化が明確になりだした。新車M26で巻き返しがなるか!? ティレルは6輪車に改良を加えたが、これが"改悪"の作業だったと知ることだけが、今季の収穫だった。
- ■ 7月16日 第10戦 イギリス
- F1の排気量は自然吸気エンジンで3リットルということは、繰り返し述べてきた。これまで一言も触れなかったが、ターボ・エンジンに対しても規定は常に存在していた。それは自然吸気の半分の1.5リットルというものである。これはスポーツカーなどと比べると、ターボにとって厳しいルールである。よって、これまでどのチームも、ターボ・エンジンの開発などには手を出さなかった。
- そのターボエンジンが初登場したのが、このレースである。フランスの国営企業ルノーによって開発された。510馬力ということで、DFVより50〜60馬力ほどパワフルだが、熱の問題やターボラグの悩みを抱えており、しばらく苦戦が続く。今季は参戦した4戦ともリタイヤに終わったが、明日に繋がる収穫は得られた。
- また、本戦の予備予選において、D.パーレイの大クラッシュがあった。"最も重い重力に耐えた男"としてギネスブックに載るほどの、激しいクラッシュだった。パーレイは一命を取り留めたものの、選手生命は失った。パーレイについては、1973年のところにも述べた。
- ■ 8月14日 第12戦 オーストリア
- 斜陽中のシャドウに一片の輝きをもたらしたのは、こちらも初優勝のアラン・ジョーンズである。終盤、ハントのエンジンブローで首位に立ち、そのまま逃げ切った。一昨年はヘスケス、ヒル、昨年はサーティースと、今一つうだつのあがらない中下位チームを渡り歩き、本戦でも予選14番手からの優勝を飾った。
- シャドウの初優勝は69戦目のもので、異例のことである。これまで、コンストラクターの勝利は全て30戦以内に達成されてきた。これを言い換えると、参戦して30戦(年にして数年)を過ぎると、新興コンストラクターの優勝の望みは断たれる傾向にあった、ということである。そんな傾向を打ち崩したのが、シャドウとA.ジョーンズであった。
- ■ 10月2日 第15戦 アメリカ
- ハンス・ヨアヒム・シュトゥックが予選2位から、唯一の首位走行を14周続けた。今季はC.パーチェの代役としてブラバムに抜擢され、連続3位を記録するなど、当たり年だった。戦前のアウトウニオンで活躍した名ドライバーの息子である。
- 第10戦から2位と1位を繰り返したラウダが、早々とチャンピオンを決めた。ラウダは、翌戦からフェラーリを離脱し、レースを欠場する。詳しく述べると、イタリアでもうこの欠場のことは決まっていた。昨年の日本GPでの棄権のことで、今季はずっとチームと上手くいっていなかったという。
- ラウダが抜けた穴は、新人のジル・ヴィルヌーヴが埋めることになった。
- ■ 10月23日 最終の第17戦 日本
- 2年連続開催の富士だが、立ち入り禁止区域に入っていた観客がジル・ヴィルヌーヴとペテルソンのクラッシュに巻き込まれ、死亡する事件が起きた。翌年から日本GPは行われなくなってしまった。
- ハントとロイテマンは表彰台を拒否して、すぐさま帰国してしまった。ラウダは2位3位のとき表彰台を拒否したことがあった。ハントはそれを真似たのかもしれない。いかにもこの日本GPの空気を象徴していた。
- 主催者はJAFであった。昨年の主催者スポーツニッポン新聞社は、費用の問題から、開催を断念した。JAFはその肩代わりという感じで、やる気が感じられなかったという。日本でのF1の開催は、10年後の鈴鹿まで待たれる。
- ■ サーキットを去るウィナーたち
- カルロス・パーチェ Carlos Pace
生年月日 1944年10月6日
没年月日 1977年3月18日
国籍 ブラジル
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1972 | マーチ | 16 | | | | 11 |
1973 | サーティース | 11 | | | 2 | 15 |
1974 | サーティース ブラバム | 12 | | | 2 | 13 |
1975 | ブラバム | 6 | 1 | 1 | 1 | 14 |
1976 | ブラバム | 14 | | | | 16 |
1977 | ブラバム | 15 | | | | 3 |
計 | | | 1 | 1 | 5 | 72 |
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