- ■ シーズン前
- この年、ポイント制度が変わった。ドライバーズポイントは、前半7戦中4戦、後半8戦中4戦が有効とされた。よってポイントが削られるケースがたくさん生じた。またコンストラクターズポイントが総得点制になった。
- ドライバーの移籍が多数あった。ロイテマンがロータスに移った。空いたフェラーリにはシェクターが、空いたウルフにハントが、空いたマクラーレンにワトソンが、空いたブラバムにN.ピケがという具合である。ルノーはR.アルヌーを加えて体制を強化した。
- ロータスは、前年の79に改変を加えた80を開発した。ノーズにまでスカートを付けて、ダウンフォースを得ようとした。しかし、そのために空力バランスが乱れ、ポーポジング(イルカの泳ぎのように上下に揺れる)現象に苦しめられた。
- フェラーリもウイングカーを開発した。ノーズの周りが特異な形状をしており、当初は「醜いアヒルの子」と呼ばれた。
- ティレルはメインスポンサーを失った。ロゴが極端に少ないマシンでシーズンを戦う。
- リジェは参戦4年目にして、はじめて2カー体制をとった。エンジンもマトラからフォードDFVにスイッチした。新車JS11がテストで好調な走りを見せた。
- この時期はとにかくチームの浮き沈みが激しい。
ワークス・チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
ロータス |
フォードDFV(V8) |
マリオ・アンドレッティ カルロス・ロイテマン |
残留 フェラーリ |
GY |
フェラーリ |
フェラーリ(F12) |
ジョディー・シェクター ジル・ヴィルヌーヴ |
ウルフ 残留 |
MI |
ブラバム |
アルファロメオ(V12) |
ニキ・ラウダ ネルソン・ピケ |
残留 新人 |
GY |
ティレル |
フォードDFV(V8) |
ディディエ・ピローニ J-P.ジャリエ |
残留 ロータス |
GY |
ウルフ |
フォードDFV(V8) |
ジェームズ・ハント ケケ・ロズベルグ |
マクラーレン 新人 |
GY |
リジェ |
フォードDFV(V8) |
ジャック・ラフィー パトリック・ドゥパイエ |
残留 ティレル |
GY |
フィッティパルディ |
フォードDFV(V8) |
エマーソン・フィッティパルディ |
残留 |
GY |
マクラーレン |
フォードDFV(V8) |
ジョン・ワトソン パトリック・タンベイ |
ブラバム 残留 |
GY |
ウィリアムズ |
フォードDFV(V8) |
アラン・ジョーンズ クレイ・レガッツォーニ |
残留 シャドウ |
GY |
アロウズ |
フォードDFV(V8) |
リカルド・パトレーゼ ヨッヘン・マス |
残留 ATS |
GY |
シャドウ |
フォードDFV(V8) |
ヤン・ラマース エリオ・デ・アンジェリス |
新人 新人 |
GY |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
J-P.ジャブイユ ルネ・アルヌー |
残留 マルティーニ |
MI |
ATSレーシング |
フォードDFV(V8) |
H-J.シュトゥック |
シャドウ |
GY |
- ■ 1月21日 第1戦 アルゼンチン
- 1979年シーズンは、リジェのフロントローではじまった。2カー体制をとったリジェがテストでの勢いのまま前列を占め、先頭を他チームに譲らぬまま勝った。
- ■ 3月3日 第3戦 南アフリカ
- ここまでリジェのぶっちぎりで迎えた第3戦、高地のサーキットであるこのグランプリで、気圧の影響を比較的受けにくいターボエンジンが、ついにポールポジションの座についた。決勝は雨に祟られ、いつもの通りのリタイヤに終わったが、ルノーの試行錯誤は確実に実を結びつつあることを明らかにした。
- 決勝は豪雨のため2周で中断、再開後はフェラーリが好調で、ヴィルヌーヴが通算2勝目をあげた。
- ■ 4月29日 第5戦 スペイン
- 再びリジェがフロントローを占め、ドゥパイエが全周回1位で通算2勝目をあげた。次戦のフロントにもリジェが並ぶ。6戦で4度のフロントローという大変な速さだ。
- ただし、ポイントではフェラーリを突き放すことが出来ない。ヴィルヌーヴの連勝があったり、シェクターがしぶとく連続入賞を決めているのだ。
- ■ 5月27日 第7戦 モナコ
- ハントは、このモナコGPを最後に、資金が底をついているウルフで走るのを辞め、引退を決意した。空いたウルフにはK.ロズベルグが乗ることになった。
- スウェーデンGPが突如中止となったので、次戦まで1ヶ月の間隔があいた。休暇中、冒険好きのドゥパイエはハング・グライダーを楽しんだ。ここで彼は両足骨折の重傷を負い、以後を欠場することになった。リジェはベテランのJ.イクスを代役に起用した。しかしこの事故の影響からかリジェは前半の勢いを失う。
- ■ 7月1日 第8戦 フランス
- スウェーデンGP中止による1ヶ月以上の間隔、、、ルノーはここで徹底的なマシンの改良およびテストをおこなったと思われる。モナコでは曲がりくねったコースに手を焼き、予選落ちすれすれのタイムで通過した。こんな状態のまま母国GPを迎えることなど誰にできようか!
- こうしてルノーがフロンローに並ぶことになった。前回とは異なる、低地サーキットでのPP奪取は、ルノーの戦闘力がいかに向上したかを物語っていた。
- スタート時、ターボエンジンはターボが過給をはじめるまでは、1.5リッターの無過給エンジンにすぎない。だから3リッターエンジンを操るヴィルヌーヴがルノーの2台を交わして先頭に立った。
- ヴィルヌーヴは快調に飛ばすが、やがてタイヤの磨耗に苦しみだす。母国の利を活かしてタイヤの磨耗を予想していたジャブイユは、47周目にヴィルヌーヴを抜いた。あとはマシンが持つかどうかが問題となる。
- レース終盤、ジャブイユの後方では、F1史上に残る伝説的なバトルが勃発していた。ヴィルヌーヴとアルヌーの2位争いである。このバトルの模様はネットで映像を観ることが出来る。F1の真の姿が何か知りたくなったとき、一つの手本となるであろうバトルである。
- ジャブイユはそのまま走りきり、初勝利を遂げた。自身、ルノー、ターボエンジンにとっての初勝利である。ジルとルネの争いは、0.24秒差でルノーのワンツーフィニッシュが阻まれた結果となった。この勝利によって、ルノーは自身の試行錯誤が正しかったことを証明した。この一戦から4年もすると、F1は勝者が全てターボエンジンの状態になる。
- ■ 7月14日 第9戦 イギリス
- 本戦よりF1の歴史を二分する画期的な変化がF1に訪れる。これまでスタート方式は、「2-2-2方式」と呼ばれるもので、予選上位が2台ずつ車線をずらして並んでいた。これが本戦より「2列スタッガード方式」に、すなわち上位が2台ずつ車線をずらさずに並ぶ、現在では当たり前のものになった。この方式だと、前車を抜くために、車線変更を強いられることになる。つまり、フロントローがスタートを制しやすくなったということである。
- 2列スタッガード方式の第1戦目は、予想通りPPのA.ジョーンズが首位を快走した。リジェやルノーのほかに今季、目覚ましい戦闘力の向上を示したチームがいた。ウィリアムズである。ジョーンズは中盤にリタイヤしてしまったが、そのあとをレガッツォーニが継ぎ、独走状態で勝った。ルノーに続いて、今度はウィリアムズが母国での初勝利である。レガッツォーニの勝利は'76年以来のこと、下位チームを渡り歩きながら、再びポディウムの頂点に帰還したのだから、お見事な勝利である。
- ■ 7月29日 第10戦 ドイツ
- 今度はジョーンズが勝った。レガッツォーニも続いて、今季3チーム目のワンツーフィニッシュとなった。
- ウィリアムズというチームのプロジェクトXを振り返ってみよう。
- 10年以上も前、イギリス人のフランク・ウィリアムズは、ブランズハッチの貸しパドックとガレージで仕事をしていた。世界中からレース修行に来ている若者たちのために、出場手続きの代行等、マネージメント全般を受け持ったのだ。B.エクレストンもこうしたエージェント出身である。
- フランクは、1970年にデ・トマソ・チーム進出の際にマネージャー役を引き受けて、F1に参入した。初年度にはP.カレッジの死亡事故の憂き目に遭った。以後もプライベーターとして参戦しつづけた。
- '73年には、マルボロをスポンサーに得てチームらしい体制になった。シャシーも自製のものになった。'74年にはジャック・ラフィーが炎天下のドイツで表彰台に立った。
- '76年、ヘスケスの遺産を継いで資金難に耐えた。しかし翌'77年に元スポンサーのウォルター・ウルフにチームのほとんどを持っていかれた。帰りの車のガソリン代にも事欠くこともあったという。このように、フランクのチームはF1サーカスの中の平凡な貧乏チームとして知られていた。
- ところが、'78年が違っていた。活動を縮小しているあいだに、大スポンサー、サウジアラビア・エアラインを得て、工場を新設し、設計者にパトリック・ヘッド、ドライバーにも優勝経験者のアラン・ジョーンズを迎え入れた。
- そしてこの'79年、オイルマネーによる潤沢な資金を元に、ヘッドの設計によるウイングカーFW07を開発し、押しも押されぬ有力チームにのし上がったのである。
- ■ 8月26日 第12戦 オランダ
- ルノーの2番手、アルヌーもPPを獲った。しかしスタートの加速が悪く、ジョーンズに首位の座を奪われた。
- ジョーンズは3連勝、ウィリアムズは4連勝を達成した。ウィリアムズは第5戦にニューマシンを投入した。以降、予選上位や表彰台を記録してはいたが、このような戦果とは無縁のチームではなかったろうか…。ただただ驚きの声が漏れるばかりである。
- 一方で、時代の波に取り残されたことを憂う男がいた。ニキ・ラウダである。今季は予選で上位に食い込むのがやっとで、加えてマシンは信頼性に大問題を抱えていた。やる気を失ったのか、この一戦は体調不良という理由でリタイヤしている。これで9戦連続リタイヤとなった。9連続とは70年代最多である。80年代になると、ターボエンジンの不調からこれを上回る連続リタイヤが増える。
- 同じように、ロータスのアンドレッティもリタイヤを重ねた。信頼性だけではない。昨年は完走すれば必ず1位だったマシンは、今季は速さの面でも通用しなくなっていた。かといって、新車の80を乗り回しても、やり切れぬほどのポーポジング現象が待っていた。
- ■ 9月9日 第13戦 イタリア
- 高速コース・モンツァでのPPは、当然の如くルノーのものになった。
- しかし、勝者はシェクターだった。先頭を行く者の背後につけ、彼のミスを静かに待つというやり方だった。序盤でフェラーリはワンツー体制を築き、そのままゴールした。チャンピオンが決定した。モンツァに歓喜の声が湧いた。
- ■ 9月30日 第14戦 カナダ
- アルファロメオが28年ぶりにF1に帰ってきた。夏に2戦出場し、シーズン終盤から本格的に戦う。ドライバーはV.ブランビラとB.ジャコメリのイタリア人二人。
- こうなると、ブラバムはアルファロメオ・エンジンを使いにくくなる。この第14戦に、フォードDFVを搭載した新車BT49を用意してきた。旧車はラウダとピケの26回の出走で、20リタイヤを喫した。この信頼性の大問題も新車投入によって解消されたかもしれなかった。
- しかしラウダはF1どころか、レースそのものに対するやる気を既に失い尽くしていた。本戦のプラクティスを終えたところで、「同じところをグルグル回っているのが嫌になった」と言って、突然引退を発表した。彼らしい大言壮語が続く。「レースだけが人生でなく、前から考えていた航空会社の経営をやる」「地元のオーストリア航空は半官半民の会社だが、DC10しか持っておらず、ボーイング747さえない。自分がこれからやるラウダ航空は、近い将来747を持ち、オーストリア航空より大きな会社にするつもり」と語った。
- 時代は進む。ハントが去り、ラウダが去り、フィッティパルディやアンドレッティが精彩を欠きまくった。新人が勝ち名乗りをあげ、新しいエンジンがPPを積み重ねていた。
- ■ シーズン後
- 今季は、全15戦中、フロントローがリジェ×4、フェラーリ×1、ルノー×2による7戦あり、ポール・トゥ・ウィンが4チームによる史上最多の5名を数え、ワンツーフィニッシュが3チームによる5回(ジルとルネの死闘の結果次第では4チームによる6回になり得た)、ドライバーの連勝が4名によってと、勝利とスピードにおいて、ドライバーもチームも多彩な顔ぶれになった。
- その中でJ.シェクターは、13完走の入賞12回という徹底した安定性を見せてタイトルに輝いた。速さではリジェ、ルノー、ウィリアムズに引けを取ったが、フェラーリはシーズンを通して、安定した強さを見せた。こういった、"優勝数やPP数で劣りながら徹底した安定性で"というタイトルの獲り方は、古くは'58年のM.ホーソーンから始まって、J.ブラバム、'67年のD.ハルム、E.フィッティパルディ、'77年のN.ラウダなどが当てはまる。一つの特徴的なタイトル奪取法である。
- ■ サーキットを去るウィナーたち
- ジャッキー・イクス Jacky Ickx
- ジャッキー・イクスが引退した。'73年にフェラーリを飛び出してから、F1での戦績は物寂しいものがあった。デビュー直後からのスピード出世が懐かしい。ル・マンでは、'75年〜'82年のあいだに5回の優勝を飾った。'69年の24歳での優勝も含めて計6回、これは2006年まで破られることのない最多勝記録であった。'83年のパリ-ダカールラリーも制した。フォーミュラもスポーツカーもこなす万能型のドライバーおよびレーサーだと言える。
生年月日 1945年1月1日
国籍 ベルギー
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1967 | クーパー | 19 | | | | 2 |
1968 | フェラーリ | 4 | 1 | 1 | | 9 |
1969 | ブラバム | 2 | 2 | 2 | 3 | 11 |
1970 | フェラーリ | 2 | 3 | 4 | 5 | 13 |
1971 | フェラーリ | 4 | 1 | 2 | 3 | 11 |
1972 | フェラーリ | 4 | 1 | 4 | 3 | 12 |
1973 | フェラーリ他 | 9 | | | | 12 |
1974 | ロータス | 10 | | | | 15 |
1975 | ロータス | 16 | | | | 9 |
1976 | ウィリアムズ エンサイン | - | | | | 8 |
1977 | エンサイン | - | | | | 1 |
1978 | エンサイン | - | | | | 3 |
1979 | リジェ | 15 | | | | 8 |
計 | | | 8 | 13 | 14 | 114 |
- ジェームズ・ハント James Hunt
- 引退後のハントは、辛口の解説者などを勤めた。観戦に現れるときは、いつもポケットにたくさんビールを突っ込んでいたという。大柄な身体で、傍若無人なところがあった。接触でリタイヤしようものなら、相手を引きずり出してパンチを見舞った。でも、幼少の頃は「パブリック・スクール」に通う優等生でもあった。'93年に心臓発作で他界した。
生年月日 1947年8月29日
没年月日 1993年6月15日
国籍 イギリス
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1973 | マーチpvt | 8 | | | 2 | 7 |
1974 | ヘスケス | 8 | | | | 15 |
1975 | ヘスケス | 4 | 1 | | 1 | 14 |
1976 | マクラーレン | 覇者 | 6 | 8 | 2 | 16 |
1977 | マクラーレン | 5 | 3 | 6 | 3 | 17 |
1978 | マクラーレン | 13 | | | | 16 |
1979 | ウルフ | - | | | | 7 |
計 | | | 10 | 14 | 8 | 92 |
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