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  F1今昔物語 1972年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 前半6戦中5戦、後半6戦中5戦のトータルが有効得点である。
 前年、ティレルのマシンのエンジン上部に取り付けられた箱、インダクションポッドが大流行した。各車様々な形状にトライしている。
 マーチに変な新人が現れた。出場前にわざわざ記者会見を開き、自分のレースに懸ける方針を発表したばかりでなく、その内容が驚くべきものだった。「銀行から借金してマシンに乗せてもらっていて、出世払いで返済するつもり」、「3年で有力ドライバーになって、このビジネスを成功させ、それから将来のことを考える」などと、理路整然と語った。ニキ・ラウダという若干22歳のオーストリア人である。なんでも生命保険を担保に融資を受けていたらしい。やることが大胆すぎていて、皆が半信半疑のままだったが、とにかく注目だけは集まった。
 ブラバムのオーナーにバーニー・エクレストンがついた。ロータスは、黒地に金色文字という有名なカラーリングに変えた。これまでのゴールドリーフからジョンプレイヤーへとスポンサーを変えたのである。
 このように、この時期から煙草メーカーが盛んにF1のスポンサーとなった。F1マシンにナショナルカラーは存在しないも同然になった。マルボロを始めとする煙草メーカーは、垂れ幕やテント、ポスター、モデルなどを使って、サーキットの周辺からパドックまで、派手に宣伝した。欧米では、一度に大人数が触れる媒体での煙草の宣伝が禁じられている。そこでPR効果のあるものとしてモータースポーツに目がむけられ、たちまちのうちにこの世界で大きな顔をするようになったのである。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ティレル フォードDFV(V8) ジャッキー・スチュワート
フランソワ・セベール
残留
残留
GY
BRM BRM(V12) J-P.ベルトワーズ
ハウデン・ガンリー
他多数
残留
残留
 
FS
フェラーリ フェラーリ(F12) ジャッキー・イクス
クレイ・レガッツォーニ
マリオ・アンドレッティ
残留
残留
残留
FS
マーチ フォードDFV(V8) ロニー・ペテルソン
ニキ・ラウダ
残留
新人
GY
ロータス フォードDFV(V8) エマーソン・フィッティパルディ
デイブ・ウォーカー
残留
残留
FS
マクラーレン フォードDFV(V8) デニス・ハルム
ピーター・レブソン
残留
復帰
GY
マトラ マトラ(V12) クリス・エイモン 残留 GY
サーティース フォードDFV(V8) マイク・ヘイルウッド
ティム・シェンケン
アンドレア・デ・アダミッチ
復帰
ブラバム
マーチ
FS
ブラバム フォードDFV(V8) グレアム・ヒル
カルロス・ロイテマン
ウィルソン・フィッティパルディ
残留
新人
新人
GY
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フランク・ウィリアムズ マーチ・フォードDFV(V8) アンリ・ペスカローロ
カルロス・パーチェ
残留
新人
GY


 ■ 1月23日 第1戦 アルゼンチン
 12年ぶりの開催となったアルゼンチン。地元出身の新人カルロス・ロイテマンが突然、予選の最上位にのぼった。散々な成績でシーズンを終えたブラバムのマシンが、数ヵ月後に新人のドライブによってPPというのは如何なることか。デビュー戦PPは他に、'50年のファリーナ、'68年のアンドレッティ、'96年のヴィルヌーヴがあるが、意外性が傑出しているのはロイテマンのものである。
 このレースで8位完走を果たしたウィリアムズのアンリ・ペスカローロ。表彰台1回、FL1回を記録しているが、'70年モナコと'71年イタリアと、いずれも史上名高い名レースであったために、紹介が遅れてしまった。ル・マンでの活躍の方が比較にならないほど大きい。この年の制覇を筆頭に、4度の優勝、33回という最多出走を誇る。現在でも自チームを率いて威光を放っている。

 ■ 5月14日 第4戦 モナコ
 名門BRMの最後の優勝であるとともに、ジャン・ピエール・ベルトワーズ唯一の勝利である。予選4位から1周目でトップに立ち、そのままゴールまで譲らなかった。抜きどころがないモンテカルロでの、4位グリッドからのオープニングラップ1位通過は極めて珍しい(一番は1960年のJ.ボニエの5位からのもの)。
 F1デビュー前、スポーツカーレースで大事故に遭い、足と手に障害を負った。ここまで登りつめるには、並々ならぬ苦労があったことだろう。この年のポイントはこのモナコのみという残念な結果に終わる。
 この勝利は、マルボロのカラーリングで言えば、初年度に達成された記念すべき1勝目である。

 ■ 6月4日 第5戦 ベルギー
 ☆ニヴェル…旧スパのコースが危険と判断され、代わって開催された。70年代F1にいくつか登場するレース専用サーキットのひとつ。安全ではあったが無味乾燥なコースとして人気はなかった。開催も2度だけで、現在は工業団地となりコース自体も残っていないらしい。

 スチュワートは胃潰瘍を患って本戦を欠場した。シーズンを通して体調不良であったと言われる。2度世界一になった男にも、身体を壊すほどのプレッシャーやストレスがあるのだ。それがF1なのだろう…。

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 ■ 7月2日 第6戦 フランス
 前車が跳ねた小石が、バイザーを貫通して、ヘルムート・マルコの目にあたった。彼は失明寸前まで追い込まれ、引退を余儀なくされた。クレルモン・フェランでF1は開催されないことになった。マルコはその後、人材育成に意を注ぎ、同郷のG.ベルガー、K.ベンドリンガーを発掘した。
 マトラのクリス・エイモンはトップ快走中にパンクで後退したあと、猛烈な追い上げによって3位表彰台に立った。マトラはこの年を以って撤退し、彼はトップチームの籍を失う。チャンピオンマテリアルと称されつつ1勝が余りにも遠かった彼の、最後の桧舞台である。しかし、このときの追い上げは伝説的扱いの栄を授かっている。

 ■ 9月10日 第10戦 イタリア
 イクス最後のPPである。ランキング2位を2度、本年は最速王というキャリアを持つこの男も、翌年からは低迷する。勝利もドイツGPのものが最後になる。新チャンピオン決定と共に、かつての脅威の新人2人の明暗がはっきりとした形をとり始めた、というところだろうか。
 また、2位に食い込んだマイク・ヘイルウッドのことも書き留めておかねばならない。2輪の世界では計9冠を達成した名ライダーである。例えば、ホンダが1位〜5位を独占した、有名な1961年マン島TTレース(世界選手権第4戦)での勝者は彼である。名前で検索すると、2輪の記事ばかりヒットする。
 しばらくしてF1に転向し、1.5リッター時代にプライベート・ロータスからしばしば参戦した。その後'69年までは再び2輪に専念し、昨年サーティースからF1に復帰した。今季は南アでFLも記録したり、F2でチャンピオンに輝いたりするなど、F1ドライバーとして最もその名を輝かせた一年である。
 彼のその後は次のようなものである。'73年、レガッツォーニを火災から救った。'74年、ドイツGPで負傷して引退。のち再びマン島レースに出場して勝利を収め、自分の名前のバイクが発売されたりもした。'81年に交通事故で死亡した。

 ■ シーズン後
 タイヤ戦争は、グッドイヤー5勝、ファイアストン7勝という結果になった。E.フィッティパルディの年間王者は、2005年にフェルナンド・アロンソに破られるまで、史上最年少での達成であった。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ジョン・サーティース John Surtees
 '64年のチャンピオン、ジョン・サーティースが引退した。自チームは3年目で、彼の出場は1戦のみ、チーム運営に専念した。そのチームは非選手権戦で勝ったりしたこともあったが、なかなか本戦での好結果に結びつけることが出来ない。
生年月日 1934年2月11日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1960ロータス11114
1961クーパー118
1962ローラ419
1963フェラーリ411310
1964フェラーリ覇者22210
1965フェラーリ58
1966フェラーリ
クーパー
22239
1967ホンダ419
1968ホンダ71112
1969BRM119
1970マクラーレン
サーティース
17111
1971サーティース1811
1972サーティース-1
6811111

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