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  F1今昔物語 1968年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 前半6戦中5戦、後半6戦中5戦の合計が有効得点である。
 前年チャンピオンのデニス・ハルムがマクラーレンに移籍し、ブルース・マクラーレンとニュージーランド・コンビを組むことになった。空いたブラバムの席にはJ.リントが座った。J.スチュワートがケン・ティレルの率いるマトラに移籍した。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ブラバム レプコ(V8) ジャック・ブラバム
ヨッヘン・リント
残留
クーパー
GY
GY
ロータス フォードDFV(V8) ジム・クラーク
グレアム
ジャッキー・オリバー
残留
残留
新人
FS
FS
FS
ホンダ ホンダ(V12、V8) ジョン・サーティース 残留 FS
フェラーリ フェラーリ(V12) クリス・エイモン
ジャッキー・イクス
残留
新人
FS
FS
BRM BRM(V12、H16) ペドロ・ロドリゲス
リチャード・アトウッド
クーパー
復帰
GY
DL
マクラーレン フォードDFV(V8) デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ブラバム
残留
GY
GY
マトラ マトラ(V12) J-P.ベルトワーズ 新人 GY、DL
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マトラ・インターナショナル マトラ・フォードDFV(V8) ジャッキー・スチュワート
J.セルボ・ギャバン
BRM
新人
DL
DL
ロブ・ウォーカー ロータス・フォードDFV(V8) ジョセフ・シフェール 残留 FS


 ■ 1月1日 第1戦 南アフリカ
 昨シーズンの閉幕から2ヶ月余のハッピーニューイヤー・グランプリである。全チームが前年のマシンで戦っている。第2戦は4ヶ月先なので、この間に各チームが新車を開発する。
 本戦を完全勝利で制したクラークは、通算勝利数を25に伸ばした。これまでファンジオが10年間まもってきた最多勝利数の記録を、彼が破った。ポールポジションの33回はもう既に歴代最多を数えていた。ロータスはここまで10戦連続のポールポジションであり速さは抜群、クラークは4戦連続の完走で、昨年とことん苦しめられた信頼性の問題も解決されたように思えた。だから、このままの勢いでロータスのクラークが今季を制する、誰も彼の王座奪取を阻む者はいないと多くの人が予想した。
 しかし、クラークは4月7日、ドイツでのF2レースで事故死した。享年32歳。おそらく、'94年のセナのときのような痛ましい喪失感のなか、以後のシーズンが進んだと思われる。今シーズンから、マシンには現代へと受け継がれる様々な劇的変化が生じていくのだが、それらの変化を体験する直前にクラークは死んだ。スポンサーロゴいっぱいのレーシングスーツを着込んで、ウイングを装着したマシンをクラークが操る姿とは、一体どんなものだったろうか。
 F1の古くて清らかな時代は、この一戦が最後だったと言えるかもしれない。巨大産業と化す新時代はクラークを受けつけなかったのか、あるいはいにしえの時代が彼を引きとめたのか…。

 ■ 5月12日 第2戦 スペイン
 1954年以来、3度目のスペインGPである。☆ハラマ…マドリード北部の雄大な丘陵地に広がるサーキット。'81年までちょくちょく開催された。のどかな景観はなかなかだが、コース幅が狭くて抜きどころに乏しかった。
 各チームが新車を持ち込んだが、ロータスのマシンが一際変わっていた。カラーリングが、これまでのグリーンではなく、赤地に白と金のストライプの入ったものであった。これは煙草メーカー、ゴールドリーフの色である。企業をスポンサーに招き、資金を提供してもらう代わりに、マシンを広告塔としたものである。従来は、出身国の決められたカラーで走っていたF1だったが、このスポンサード方式は瞬く間に広がって、数年後にはどのチームのマシンも、独自のカラーリングに文字情報だらけという外装になる。
 その他の変更としては、マクラーレンがフォードDFVエンジンを装着してきた。前GPのD.ハルムのポイントは別扱いとなる。

 ■ 5月26日 第3戦 モナコ
 G.ヒルはこれで4度目のモナコ制覇である。ロータスのマシンのノーズ部分にウイングが取り付けられた。この技術も一瀉千里の勢いで広がっていき、カナダGPでは全車がハイウイングを装着するようになった。3リッター時代も3年目になり、各チームのエンジンが安定した性能を発揮するようになった、という証拠である。エンジン出力を最大限に路面に伝える力(ダウンフォース)が重要視され始めた、それだけの余裕ができたのである。
 BRMのマイク・スペンスは、テスト中の事故によって第2戦を前に亡くなっていた。その後を継いだのがリチャード・アトウッドだった。彼は本戦で唯一の表彰台とFLを記録した。翌年に引退した。
 3位のルシアン・ビアンキもキャリア唯一の表彰台である。スポーツカー中心の活動で、この年のル・マンを制した。しかし翌年のル・マンで事故死する。

 ■ 6月9日 第4戦 ベルギー
 決勝前日、ヒルクライム(登坂レースのこと)に参戦していたルドビコ・スカルフィオッティが事故死した。
 前GPのフロントウイングに対抗して、フェラーリがリアウイングを装着してきた。前後合わせての空力イノベーション合戦の始まりである。毎年、各チームが様々な大きさ・形状・位置にトライし続けるのだ。みなが独自のウイングを持っていて、決定版はない。この動きは現代まで続いていて、新車投入のとき第一に話題になるパーツである。
 ブルース・マクラーレンが久しぶりに勝った。自チーム結成2年目に、自製マシンで優勝した3人目の人物となった。スチュワートの最終周は、FLの2倍以上の時間がかかったため無効となっている。

 ■ 6月23日 第5戦 オランダ
 マクラーレンに続いて、マトラも初勝利を遂げた。こちらは参戦1年目である。「Grand Prix」などレース用語にフランス語が用いられているのは、70年程前の自動車レース黎明期をフランス文化が引っ張っていたからである。そのフランス製マシンがF1で初めて勝った。スチュワートは、F2レースで右腕を骨折して欠場もあったが、ギプスをはめて2年ぶりの復活勝利を達成した。
 マトラのコンストラクターズ・ポイントが二つに別れていることに注目されたい。マトラは、元はフランスの軍需メーカーであった。60年代に入ってから自動車の生産を開始し、同時にレース活動も展開した。'68年からF1に本格的に参戦を果たした。
 しかし、この'68年は、イギリス人ケン・ティレルにマトラ・インターナショナルとしてチーム運営を委託する一方、自前のV12エンジンによって参戦もした。よって、マトラが2チームなのである
 主にグランプリで活躍したのはティレルチームであり、'69年のチームタイトルもティレルチームによってもたらされた。

 ■ 7月7日 第6戦 フランス
 フェラーリは、5戦中3戦でC.エイモンがポールを獲得し、6戦目でJ.イクスが初優勝を飾った。前年が暗い一年だっただけに、待望された復調の兆しであったろう。
 しかし決勝では、マダガスカル生まれのフランス人、ホンダのジョー・シュレッサーが焼死した。この事件は、20年後のイタリアでのちょっとした因果応報によって、強く思い起こされることになる。
 このときのホンダは、空冷式マシンを用意した本国の本社チームと、水冷式マシンを用意した現地チームとで意見が分かれたままレースに臨んだ。ジョーは、チームのまとまりを無理に壊した本社チームの方に対し、自らレースへの参加を嘆願してきたのだという。
 4月にクラーク、5月にスペンス、6月にスカルフィオッティ、7月にシュレッサーというふうに、次々とドライバーが亡くなっていく68年前半戦であった。以下は、シュレッサー焼死の現場に居合わせた新米カメラマン、ジョー・ホンダ氏の言葉である。―前年モナコのバンディーニを思い出し、クラークが死んだこと、そしてBRMに乗る予定だったマイク・スペンスも事故死していることを考えた。再び、F1はすごい世界だと思った。レースが続行されているのがふしぎだった。一方では、これがF1レースなのだろうという思いもした…。

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 ■ 7月20日 第7戦 イギリス
 プライベーターのロブ・ウォーカー・レーシング、久々であると共に最後の優勝である。創設者のロブ・ウォーカーは、ウイスキーのジョニー・ウォーカーの子孫であるらしい。親友スターリング・モスを擁してワークスチームに果敢に挑んでいた頃が懐かしい。ジョセフ・シフェールはロブ・ウォ−カーひとすじ6年目にして初の勝利となった。
 この年から流行したウイングだが、現代とは違い、上方に向かって突出した形状だった。小さな鳥居みたいに見える。しかし徐々に危険性が露わになる。本戦では、トップを走るホンダのJ.サーティースのウイングが吹き飛び、瞬く間にコントロールを失ってクラッシュした。

 ■ 8月4日 第8戦 ドイツ
 豪雨のなか、スチュワートが2位に4分の差をつけて勝った。クラークという巨星が消えて、次代を担うドライバーは誰になるのか注目が集まっていたが、ここらで明確になりだしたようだ。

 ■ 9月8日 第9戦 イタリア
 アメリカのインディ500のスターである、マリオ・アンドレッティらが予選に登場した。10番手のタイムを記録すると、その日の内にアメリカに飛んで別のレースに参加する動きを見せた。時差を利用して週末に二つのイベントをこなそうというのである。こうなると、休息を取れるのは飛行機の中だけという気がする。FIAはこうしたドライバーの参戦を厳しく管理するようになり、M.アンドレッティらは決勝の出場を許されなかった。
 レースはD.ハルムが制し、連続タイトルへ向けてチャンピオン争いに食い込んできた。2位には、マトラ・インターナショナルのジョニー・セルボ・ギャバンが入った。今季、モナコで予選2位からトップランを果たすなど、新興チームの勢いを周囲に示した。がしかし活躍できたのはこの年だけで、'70年、目に傷を負って引退した。

 ■ 9月22日 第10戦 カナダ
 ☆モン・トランブラン…コース幅が狭い、バンピーであるとして、2度の開催で終わった。

 「優勝できそうでできなかったドライバー」の一等賞として、クリス・エイモンの名が真っ先に挙がるが、彼は今回、予選2位から1周目にトップに立って72周目にマシントラブルでリタイヤした。90周の内の72周だから、このレースは極めつけに惜しかった。
 D.ハルムは連勝して、ポイントリーダーに並んだ。残り2戦で6点差に4人がひしめいている。リントは今季2度目のPPである。しかしこの年のブラバム・チームはリタイアキングであった。ジャック御大とリントで出走24回中、リタイアは実に19回にも及んだ。

 ■ 10月6日 第11戦 アメリカ
 前述したインディスター、マリオ・アンドレッティが、デビュー戦でポールを決めた。モンツァで出走不許可ながらエントリーされていることと、'50年第1戦のファリーナの例を除けば、初の快挙である。それも地元でということで、大変な騒ぎになった。

 ■ 11月3日 最終の第12戦 メキシコ
 オリンピックで湧いたメキシコでの最終戦、チャンプ候補のD.ハルムとJ.スチュワートが脱落していくなか、G.ヒルが手堅く勝利を収めた。
 クラークの死後、ロータスのドライバーに抜擢されたのがジャッキー・オリバーであった。その彼が表彰台にあがった。今季はファステスト・ラップも記録した。しかし、マシンを労わる走り方が身につかない。今後、彼はレースの3分の2をリタイヤで終えることになる。

 ■ シーズン後
 スポンサーとウイングで時代を先取りしたロータスは、クラークという大ドライバーを失っても、チャンピオンの座に立った。大ドライバーの死と新技術の登場で、勝者や表彰台、PPやFLに、非常にばらつきが見られる。こういう荒れたシーズンにあっても、名門チームは最初から最後までポイントリーダーであった。
 その一方で、ホンダとクーパーが撤退を表明した。かつては一流であっても、時代のうねりにあっという間に置いていかれるチームが、これからいくつも現れる。
 タイヤ戦争は、ファイアストン6勝、ダンロップ3勝、グッドイヤー3勝という結果になった。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ジム・クラーク Jim Clark
生年月日 1936年3月4日
没年月日 1968年4月7日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1960ロータス86
1961ロータス718
1962ロータス23659
1963ロータス覇者77610
1964ロータス335310
1965ロータス覇者6669
1966ロータス6128
1967ロータス346511
1968ロータス111111
25332772


ルドビコ・スカルフィオッティ Ludovico Scarfiotti
生年月日 1933年10月18日
没年月日 1968年6月8日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1963フェラーリ151
1964フェラーリ-1
1965フェラーリ--
1966フェラーリ10112
1967フェラーリ193
1968クーパーpvt133
10110

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