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  F1今昔物語 1966年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 9戦中5戦が有効である。また「グランプリ」という映画制作のため、制作スタッフが全GPに同行している。この映画には現役ドライバーも多数出演したという。
 エンジン排気量の上限が、1.5リッターから3リッターに変わった。'54〜'60の2.5L、'61〜'65の1.5Lに続く今回のレギュレーションは、実に20年間も継続された。この安定したレギュレーションのもとで、F1マシンの技術は他の様々な点において飛躍的な発展を遂げる。
 エンジン規定の変更は、きまって勢力分布の大規模な変更をもたらす。またもやエンジンの開発・選択が各チームの悩みの種となった。BRMは'50年代に続いて、久しぶりにとんでもないエンジンを開発した。従来の1.5Lエンジンを上下2段に重ねた、H型16気筒というものである。ロータスもこれを使用したが、実戦的になるまで時間がかかった。クーパーはマセラティV12を使用した。しかしこれは基本設計が'50年代の古物である。ホンダはV12を継続したが、開発が遅れ、参戦開始は終盤になった。いずれも信頼性不足に悩み、トップドライバーの活躍を妨げた。
 フェラーリはV12を選択した。3Lエンジンに関しては、スポーツカーで十分なノウハウを培っていた。ブラバムは、祖国オーストラリアのレプコ製V8を選んだ。V8の300馬力とは、他に比べて100馬力ほど非力だった。
 J.ブラバムに続いて、B.マクラーレンとD.ガーニーが自チームを結成した。それぞれマクラーレン、AARイーグルと言う。共にブラバムのチームメイトだったことがある。タイヤメーカーでも、前年のグッドイヤーに続いて、同じアメリカのファイアストン(FS)が参戦してきた。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ロータス クライマックス(V8)
BRM(H16)
ジム・クラーク
ピーター・アランデル
残留
復帰
FS
FS
BRM BRM(V8、H16) グレアム・ヒル
ジャッキー・スチュワート
残留
残留
DL、GY
DL、GY
ブラバム レプコ(V8) ジャック・ブラバム
デニス・ハルム
残留
残留
GY
GY
フェラーリ フェラーリ(V6、V12) ジョン・サーティース
ロレンツォ・バンディーニ
残留
残留
DL、FS
DL、FS
クーパー マセラティ(V12) リッチー・ギンサー
ヨッヘン・リント
ホンダ
残留
DL、GY
DL、FS、GY
ホンダ ホンダ(V12) リッチー・ギンサー
ロニー・バックナム
残留
残留
DL、GY
GY
イーグル クライマックス(L4)
ウェスレイク(V12)
ダン・ガーニー ブラバム GY
マクラーレン フォード(V8)
セレニッシマ(V8)
ブルース・マクラーレン クーパー FS
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ロブ・ウォーカー クーパー・マセラティ(V12) ジョセフ・シフェール 残留 DL、FS


 ■ 6月12日 第2戦 ベルギー
 雨中1周目の多重事故で、15台中8台が消えた。開幕戦を制したJ.スチュワートも、2週間前インディ500で優勝を決めたG.ヒルもこれに巻き込まれた。快勝したJ.サーティースは、このあと監督と揉めてフェラーリを離脱した。

 ■ 7月3日 第3戦 フランス
 サーティースは、クーパーのエースとしてサーキットに現れた。フェラーリはロレンツォ・バンディーニ/マイク・パークスという体制になり、パークスはいきなり2位という好成績を収めた。
 また、このレースの観戦に向かう初代王者のジュゼッペ・ファリーナが、氷結した路面で滑り、事故死した。

 ■ 7月24日 第5戦 オランダ
 連勝してポイントリーダーとしてオランダにやって来たJ.ブラバムを、年寄り扱いする連中がいたらしい。ブラバムは40歳だったし、2番手のデニス・ハルム29歳は、お世辞にも若々しいとは言えない顔だった。そこでブラバムは、付け髭に杖という出で立ちでグリッドに登場し、このヤジに応えたという。

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 ■ 8月7日 第6戦 ドイツ
 第3戦で初入賞したばかりのプライベーター・ブラバムのジョン・テイラーが、このレースで大火傷を負い、1ヵ月後に死亡した。

 ■ 9月4日 第7戦 イタリア
 本戦からホンダが出場する。またBRMとロータスは、新型エンジンであるH16が第7戦にしてやっと戦える状態になった。両者とも馬力は抜群だが、重量過多が問題となっていた。一方で、ブラバムのレプコエンジンは軽量と信頼性の高さを武器にシーズンを席巻し、ここでチャンピオンの座を射止めた。ドライバーが自チームを率いてチャンピオンとなった唯一の例である。 自分で作ったマシンを自分が運転して世界一! 何という栄光だろう!
 しかし、レースではJ.ブラバムはリタイヤし、この栄光を勝利で飾ることができなかった。ワンツーで優勝したフェラーリの二人は、元々はスポーツカーのレーサーであり、"助っ人"としてF1にやって来た感がある。フェラーリに乗るイタリア人がモンツァを制するのは、'52年のA.アスカリとこのL.スカルフィオッティの2例のみとなっている(2006年現在)。

 ■ 10月2日 第8戦 アメリカ
 資料によっては、J.リントの最終周のラップタイムが勝者のファステストラップの2倍以上であったため、1周のペナルティを受けているものもある。どちらにしても順位の変更はない。
 J.クラークは、重いH16型エンジンで優勝し、ディフェンディング・チャンピオンとしての面目を何とか保った。最多気筒数のエンジンの勝利とされる。

 ■ シーズン後
 タイヤ戦争の行方はこうなった。ダンロップ2連勝、グッドイヤー4連勝、ファイアストン3連勝。この頃はタイヤの選び方が現在よりも雑で、1レースで三つのメーカーのタイヤを使ったりもできた。
 コンストラクターの欄を見ると、同じシャシーなのに別のポイント扱いされているのが見られる。例えばロータス・BRMとロータス・クライマックスとか。マクラーレン・フォードとセレニッシマとか。これらは同じチームだが、異なるエンジンであるが故に、別の枠組みなのである。コンストラクターズ選手権がそういうルールになっている。詳しくは1959年や1960年のところで述べている

 ■ サーキットを去るウィナーたち
フィル・ヒル Phil Hill
 1961年、アメリカ人初のチャンピオンに輝いたP.ヒルが引退した。チャンピオンで3勝というのは、M.ホーソーンと並んで最も少ない勝ち星である。元々はフェラーリでのスポーツカー・レースを専らとしており、'58年に助っ人としてF1にやってきた。F1での活躍と共に、ル・マンを2年連続で制した。しかしF1では、1963年のフェラーリ離脱が晩節を汚す選択となった。今季は、イタリアGP一戦にイーグルから出場し、予選不通過に終わった。
生年月日 1927年4月20日
国籍 アメリカ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1958フェラーリ1013
1959フェラーリ417
1960フェラーリ51129
1961フェラーリ覇者2527
1962フェラーリ66
1963ATS-6
1964クーパー199
1966イーグル--
36647


イネス・アイルランド Innes Ireland
 I.アイルランドも引退した。彼の唯一の勝利は、1961年最終戦。ワークス・ロータスに初優勝をもたらすという功績であった。彼が切り開いた道を、J.クラークやリントや数々のウィナーが通っていった。引退後はモーター・ジャーナリストとして働いた。'93年、ガンにより死去した。
生年月日 1930年6月12日
没年月日 1993年10月22日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1959ロータス106
1960ロータス418
1961ロータス616
1962ロータスpvt168
1963BRP97
1964BRP127
1965ロータスpvt-6
1966BRM pvt-2
10150

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