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  F1今昔物語 1965年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 10戦中6戦が有効である。
 この頃からタイヤの幅が徐々に広くなる。ダンロップ(DL)のワンメイクが続いてきたなか、グッドイヤー(GY)が本格参戦を挑んできた。予備予選が行われはじめた。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(F12) ジョン・サーティース
ロレンツォ・バンディーニ
残留
残留
DL
DL
BRM BRM(V8) グレアム・ヒル
ジャッキー・スチュワート
残留
新人
DL
DL
ロータス クライマックス(V8) ジム・クラーク
マイク・スペンス
残留
新人
DL
DL
ブラバム クライマックス(V8) ダン・ガーニー
ジャック・ブラバム
デニス・ハルム
残留
残留
新人
GY
DL、GY
GY
クーパー クライマックス(V8) ブルース・マクラーレン
ヨッヘン・リント
残留
新人
DL
DL
ホンダ ホンダ(V12) リッチー・ギンサー
ロニー・バックナム
BRM
残留
GY
GY
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
パーネル・レーシング ロータス・BRM(V8) イネス・アイルランド
リチャード・アトウッド
BRP
新人
DL
DL
ロブ・ウォーカー ブラバム・クライマックス
ブラバム・BRM
ヨアキム・ボニエ
ジョセフ・シフェール
残留
残留
DL
DL


 ■ 1月1日 第1戦 南アフリカ
 元旦からF1グランプリである。昨シーズンの終わりから2ヶ月余、そして次戦のヨーロッパラウンドまで5ヶ月も待つ日程である。これでは、昨シーズンの続きといった方がしっくりくる。

 ■ 5月30日 第2戦 モナコ
 J.クラーク及びロータスは、このレースを欠場している。インディ500参戦のためである。そのインディ500でもクラークは190周を首位で走り、ほぼ完璧な勝利を手にした。
 ロータスがいないとなると、フェラーリとBRMの争いとなる。BRMのG.ヒルは、首位走行中24周目にスピンして大きく後退したのち、懸命な追い上げによって65周目に首位に返り咲いた。モナコで3連勝である。新人のスチュワートも3位に入った。
 本戦からホンダが二車体制をとって、本格参戦を果たした。予選では最後尾、決勝もリタイヤと散々な結果だったけれど…。

 ■ 6月27日 第4戦 フランス
 ☆クレルモン・フェラン…オーベルヌ山中を駆け抜ける山岳コース。カーブと起伏が多く、『F1全史』では、"ミニ・ニュルブルクリンク"と表現されている。1965、1969、1970、1972年に開催された。

 BRMの新人ジャッキー・スチュワートが、開幕から入賞を続けている。この数字を「6」まで伸ばし、長らく新人の開幕からの連続入賞の記録となっていた。その間、表彰台が4回だから、注目が集まらないわけがない。元オリンピックの射撃選手候補だったという小柄な26歳の青年が、突如グランプリの顔になった。

 ■ 7月10日 第5戦 イギリス
 母国で強いジム・クラーク、これで4年連続の優勝である。'67年も勝って、母国で5勝である。サーキットを1年ごとに交代させて開催されるので、同一サーキットの4年連続ではない。
 クラークは終盤エンジンの不調に見舞われ、ペースダウンした。G.ヒルが最終周回にファステストラップを見せて追い上げたが、3秒差で逃げ切った。

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 ■ 7月18日 第7戦 オランダ
 ホンダが2戦連続で予選3番手を記録し、決勝でもトップランを果たした。戦力の向上が著しい。
 今後の盛り上がりのために前置きをしておくと、'64年の開幕前、ホンダは、経験不足と生産準備の遅れから、エンジン供給という形での4輪進出を決断していた。パートナー探しが始まり、新王者として開幕に臨むロータスと上手く契約を結ぶことが出来た。珍しいV12型で、珍しいDOHC4バルブというレイアウトで、220馬力は文句のない高水準だった。さらに、縦置きではなく2輪と同じ横置きだった点も特徴的である。
 革新的新技術を好むチャップマンのお眼鏡に十分適うエンジンだったのだろう。しかし、2月になってロータス組織内の事情による契約破棄の電報が届いた。ホンダは「自身の道を歩む」と電報を返し、そこからワークスとしての参戦が始まった。急な挑戦である。ドライバーも新人を起用せざるを得なかった。それが昨年までの出来事で、今季は、新規参入のグッドイヤー・タイヤを装着し、ここまで昇りつめた…。

 ■ 9月12日 第8戦 イタリア
 J.スチュワートはとうとう初勝利を遂げてしまった。
 このレースはまた、最多首位変更のレースでもある。スチュワートとG.ヒルとクラークとで、実に41回も首位を競い合い、分け合ったのである。当時のモンツァには、一列で通過しなければならない場所がなく、先頭が集団を作ったままでレース終了まで走り続けることが出来た。その間、スリップストリームの応酬によって首位を奪い合うのである。1972年にシケインが設置されると、そのような争いはとんと見られなくなった。

 ■ 10月24日 最終の第10戦 メキシコ
 前年のホンダ監督 中村良夫は、今季は本社に戻っていたのだが、なかなか勝利を挙げないチームに業を煮やし、最終戦の指揮をとることにした。エンジン調整が難題となるメキシコシティ。ホンダはレース前に3日間テストを実施して本番に臨んだ。
 スタートではクラークがリードしたが、マシンがおかしい。チャンプ決定後、3戦連続のリタイヤとなった。続いてホンダのR.ギンサーが首位を走行する。ブラバムのD.ガーニーが2位にあがった頃、ギンサーは周回遅れのジャック・ブラバムを迎え撃つこととなった。J.ブラバムは、"ブラック・ジャック"というあだ名を持っている。周回遅れがブロックしすぎるときの黒旗が由来である。ブロックが上手な証拠に他ならない。
 そんなブラバムの名テクニックも、この日のホンダの栄誉に、花を添えるためのものでしかなかった。ギンサーは抜き去って、また安定したペースで走り続けたのである。終盤、ガーニーとファステストラップを刻み合い、そのまま優勝した。日本製のマシンがついに頂点に立った! 表彰台ではギンサーが満面の笑みである。ここまで表彰台に立つこと13回にも及んだ彼も初優勝だ。中村監督は、日本に向けて「Veni Vidi Vici(来た見た勝った)」というジュリアス・シーザーの文句を打電した。群衆を掻き分けて、一人の男が「おめでとう!」と監督に声をかけてきた。昨年、ホンダエンジンを見限ったロータスのC.チャップマンであった。
 F1で優勝したマシンを国別に並べると、イタリア、ドイツ、イギリス、日本となる。管理人は当時の世界経済や車社会情勢に詳しくないが、"マシン部門で4カ国目の勝者、それも欧米以外では初の"というのは、誇りに思っていいことではないだろうか。

 ■ シーズン後
 クラークはまたしても有効得点で考えられる最大の得点(6戦全勝)をあげて、タイトルに返り咲いた。インディ500での"ほぼ完勝"と共に、好調な年の彼の成績には、恐ろしさを覚えるほどの何かがある。彼のレーススタイルのように、シーズン開始から本当に"ぶっちぎる"のである。初勝利の'62年から、毎年のように最多勝・PP王・FL王となっているが、その割合も高い。以後のどのチャンピオンよりもひとつ抜きん出ている割合である。
 経営上の問題から、コベントリー・クライマックスはエンジン供給の停止とF1からの撤退を決めた。翌年から3リッターエンジンのF1が始まることになっていた。1.5リッター時代の幕引きと共に、時代の顔となったエンジンも姿を消した。

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