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  F1今昔物語 1959年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 9戦中5戦が有効である。
 前年の覇者ヴァンウォールは、スポット参戦に移った。数年の間に有望な若手が数多く死に、ファンジオが引退した結果、エントリーした中にチャンピオンはおらず、ウィナーもS.モス、T.ブルックス、M.トランティニャンの3人のみになった。新しいホープの誕生が切に期待される。新チャンピオンの最有力候補、スターリング・モスは、今季プライベーター・チーム中心のフリーランス活動に移った。

 ここで、ワークスとプライベーターとの関係についてハッキリさせておきたい。F1で一般的に言われるフェラーリとかメルセデスとかクーパーとか、これらは車体(シャシー)製造者のことであり、これを"コンストラクター"と言う。コンストラクターは、まずメーカー系と独立系に分けられる。フェラーリやメルセデスなどの自動車メーカーは、【コンストラクター=エンジンメーカー=チーム】という体制を必ずとる。チームとして車体もエンジンも製造しないと、自動車メーカーの名が泣いてしまうからである。一方で、ロータスや後のマクラーレン、ウィリアムズなどは、【コンストラクター=チーム≠エンジンメーカー】という体制がほとんどである。彼らは自動車メーカーのエンジンを使用する。当サイトでは、この"エンジンが自製か他製か"の観点で以って、メーカー系と独立系という名称を用いる。
 F1では、このコンストラクターの製造した車体を独自に買い取って、個人でチームを組んでグランプリに参戦することも許されている。【コンストラクター≠エンジンメーカー≠チーム】体制の、チームである。彼らのことを「プライベーター」と言う。ロブ・ウォーカー・レーシングやレッグ・パーネルやBRP(ヨーマン・クレジット)が有名である。購入する以上は、独自にシャシーを改良することも許される。このプライベーターに対する意味で、コンストラクター=チームのものは、メーカー系・独立系の区別に関わらず、「ワークス」と呼ばれる('80年代になるとプライベーターが消滅し、「ワークス」の意味合いも変化する)。
 F1のコンストラクターズ選手権では、プライベーターであろうとワークスであろうと、エンジンの種類によって得点が配分される。エンジンと車体が同じであれば、チームが異なっていても同じ枠内で得点される。飽くまで【車体+エンジン】がF1を戦うのである。当サイト・レース結果のコンストラクター欄でも、このルールに従っている。
 なんだかややこしくなってしまったが、詰まるところ、S.モスは資金力の乏しい小体制個人チームに移ったのであり、ワークスチームを打ち負かす"下克上"を、これから何度となくやらかす。彼が国民から英雄として熱狂的に愛される理由の一つである。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(V6) トニー・ブルックス
ジャン・ベーラ
フィル・ヒル
他多数
ヴァンウォール
BRM
残留
 
DL
クーパー クライマックス(L4) ジャック・ブラバム
マステン・グレゴリー
ブルース・マクラーレン
残留
マセラティpvt
新人
DL
BRM BRM(L4) ハリー・シェル
ヨアキム・ボニエ
残留
マセラティpvt、BRM
DL
ロータス クライマックス(L4) グレアム・ヒル
イネス・アイルランド
残留
新人
DL
アストンマーチン アストンマーチンL6 ロイ・サルバドーリ
キャロル・シェルビー
クーパー
マセラティpvt
AV
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ロブ・ウォーカー・レーシング クーパー・クライマックス(L4) スターリング・モス
モーリス・トランティニャン
ヴァンウォール
残留
 
BRP BRM/BRM(L4) スターリング・モス ヴァンウォール DL

 ■ 5月10日 第1戦 モナコ
 優勝候補の筆頭、S.モスは、開幕戦を終盤までリードした。ところが81周目にトランスミッションを壊してリタイヤする。その後を引き継いだのは、これまで15戦出場入賞1回という目立たない成績のジャック・ブラバムだった。
 昨年前半の連勝によって、クーパーのミッドシップ車に力があることは証明されたが、今季、この技術が既存のマシン観を根底から覆す歴史的代物であることが判明する。この"ミッドシップ革命"を、今後クーパーが勝つたびに記していく。
  〜 ミッドシップ革命〜 その1 〜
 今日、レーシングカーと言えば、運転席と後輪の間にエンジンがあるミッドシップ・レイアウトが当たり前となっている。しかし、1950年代後半までのエンジンレイアウトは、FR(前エンジン後輪駆動)がほとんどだった。
 ところが、戦前、ミッドシップ車を引っさげてグランプリを席巻していたチームがある。現在のアウディ、旧名アウトウニオンである。1930年代にF.ポルシェ博士が開発したアウトウニオンのグランプリカーは、ミッドシップ・レイアウトの採用に成功し、レースでも大活躍した。本来ならば、このアウトウニオン車がレースでミッドシップ・レイアウトがいかに有利な技術かを証明するはずだった。しかし、第二次世界大戦が勃発し、戦後ヨーロッパの自動車技術の進歩を止めてしまう。(続く)

 ■ 5月31日 第3戦 オランダ
 自身の初優勝と、チームBRMの初優勝を為したのはヨアキム・ボニエである。昨年はヴァンウォール、今季はクーパーとイギリス勢がGPを席巻しているが、最も早くかつ大掛かりにGPに登場したイギリス車は、BRM製のものであった。それから苦節10年余り、遂に夢がかなった。
 3位のマステン・グレゴリーは、今季、予選で上位を維持し、表彰台に2度あがった。歌手のバディ・ホリーのような縁の大きな眼鏡が目立つアメリカ人。眼鏡のドライバーは珍しい。'65年にはル・マンを制した。'85年に死去。

 ■ 7月15日 第5戦 イギリス
 本戦では、血縁のないテイラーという人物が4人デビューするという珍事が発生した。
  〜 ミッドシップ革命 その2 〜
 戦争によって人々の記憶から葬り去られたミッドシップ・レイアウト…。この技術は、華やかなグランプリ・レースとは打って変わって、イギリスの小規模な草レースにおいて、再び日の目を浴びることになる。
 '50年代前半、クーパーという親子の作ったマシンが、ちょっとした話題になっていた。バイクのエンジンを搭載したマシンを二人で開発し、息子がレースで好成績を収めていたのである。コスト削減のため500ccのエンジンを無理に搭載するうちに、エンジンはマシンの後方に取り付けられるようになっていた。
 改良が進むうち、重いエンジンが重心位置に取り付けられることで運動性能が飛躍的に上がった。マシン下部のドライブシャフトが要らなくなり、車高が低くなって空気抵抗が減った。小型化・軽量化に成功し、軽自動車のようにコーナーリングに抜群の性能を示すようになった。(続く)

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 ■ 8月2日 第6戦 ドイツ
 ☆AVUS…高速道路を利用してベルリンに作られた、直線2本、コーナー2つという、極めて単純なレイアウトのサーキットである。その直線たるや、走りきるのに1分ほどかかる長さである。一方のコーナーは平坦だが、もう一方、北側のコーナーは、レンガ敷きの43度バンクであった。スキーで43度を滑ると、真下に落ちている感覚がするものだ。同じところをマシンが横断するのは、チョット信じがたいものがある。

 ジャン・ベーラが死亡した。フランス人。ゴルディーニとマセラティとBRMで9回も表彰台にのぼった男である。今季はフェラーリに乗って雌伏の機会を狙ったが、フランスGP後にチームと揉めて脱退した。監督をブン殴るほどの喧嘩だったと言われている。
 本戦には、自分の持つポルシェを改造した「ベーラ・ポルシェ」を引っさげて現れた。しかし、決勝前のサポートレースで、上述のバンクの「死の壁」と呼ばれるフェンスに激突して死んだ。

 ■ 8月23日 第7戦 ポルトガル
 ☆モンサント…リスボン郊外の公園に作られたサーキット。街中を走るポルトとは対照的で、木々に囲まれ、路面の起伏が激しい。一度きりの開催。ポルトガルGPは翌年開催された後、20年ほどお休みになる。

 ■ 9月13日 第8戦 イタリア
  〜 ミッドシップ革命 その3 〜
 ミッドシップ車が少しずつ成果をあげてきた頃、ジャック・ブラバムというオーストラリアの青年が、エンジニアとしてクーパーの会社で働きだした。彼は幾つかのレースに出場するようになり、'55年からF1に参戦し、今こうしてチャンピオンへの道を歩み始めた。
 忘れられていたミッドシップの強さに、ロータスやフェラーリなど他のメーカーも目覚めた。こうして燎原の火の如き勢いで、ミッドシップ・レイアウトが普及していく。
 チャールズとジョンのクーパー親子の方は、この後「ミニ・クーパー」の活躍によって、社会現象的な成功を収める。詳細は割愛するが、イギリスに「プロジェクトX」があったなら、この親子のことを真っ先に取り上げたことだろう。(終わり)

 ■ 12月12日 最終の第9戦 アメリカ
 ☆セブリング…フロリダ州のセブリング飛行場跡地につくられたサーキット。コンクリート舗装の極めてバンピーな路面は、F1には不向きだったようで、一度限りの開催となった。アメリカ人は、ヨーロッパ中心のレースには無関心で、第1回のアメリカGPに集まった観客は2万人にすぎなかった。

 S.モスはポールポジションから首位走行中の5周目に、マシンが壊れた。これでブラバムのチャンピオンが決定した。
 レースの大半をトップで走行するブラバムは、最終ラップでガス欠を起こす。200メートル余り自らマシンを押してチェッカーを受けた。何人かの後続が、その横をすり抜けた。最初に通り抜けたのがブルース・マクラーレンで、デビューイヤーでの初優勝となった。22歳104日での勝利である。2003年にアロンソが更新するまでの40年余、史上最年少の優勝記録として、この一戦の出来事は人々の注目を集めていた。

 ■ シーズン後
 この年は、PPからの優勝率が75%を数えていて、'91年と並んで歴代最高となっている。

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