- ■ シーズン前
- 9戦中5戦が有効得点である。
- エンジン排気量が前年の2リッターから2.5リッターに引き上げられた。3年ぶりにフォーミュラ1で争われたのだが、F2に変更以前の4.5リッターよりかなり低い。
- 今季からの参戦を目指して、メルセデスはマシン開発を進めた。戦前の威光に傷がつかぬよう、最初から優勝戦線に加わることを目標に、慎重に開発は進められた。結果、メルセデスのGP復帰はシーズンの半ばになった。ドライバーは、J-M.ファンジオとドイツ人の新人2人である。
- このメルセデスの動きに隠れがちになったけれども、イタリアの老舗ランチアもF1に参戦することが明らかになった。ドライバーは、A.アスカリとL.ヴィッロレージという、フェラーリのエース2人であった。フェラーリは財政が苦しく、チャンピオンのアスカリを引き止めることが適わなかった。
- 新エンジン規定に合わせて、フェラーリは新車625及び553を、マセラティは250Fを開発した。共に前年のF2車の流れを汲んでいる。
ワークス・チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(L4) |
F.ゴンザレス マイク・ホーソーン モーリス・トランティニャン ジュゼッペ・ファリーナ |
マセラティ 残留 ゴルディーニ 残留 |
PI |
マセラティ |
マセラティ(L6) |
ファン・マヌエル・ファンジオ オノフレ・マリモン スターリング・モス 他多数 |
残留 残留 クーパーpvt |
PI |
メルセデス・ベンツ |
メルセデス・ベンツ(L8) |
ファン・マヌエル・ファンジオ カール・クリング ハンス・ヘルマン |
マセラティ 新人 新人 |
CO |
ランチア |
ランチア(V8) |
アルベルト・アスカリ ルイジ・ヴィッロレージ |
フェラーリ フェラーリ |
PI |
ゴルディーニ |
ゴルディーニ(L6) |
ジャン・ベーラ 他多数 |
残留 |
E |
ヴァンウォール |
ヴァンウォール(L4) |
ピーター・コリンズ |
HWM |
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プライベーター |
車体/エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
エキップ・ロジェ |
フェラーリ |
ルイ・ロジェ ロベール・マンヅォン |
残留 スポット参戦 |
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他多数 |
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- ■ 1月17日 第1戦 アルゼンチン
- メルセデスの参戦が遅れるあいだ、ファンジオはマセラティに乗って出場した。晴れ間と豪雨が入れ替わる難しいレースとなった。
- レース中盤、M.ホーソーンは雨に滑ってコースアウトした。そして奇妙なことに、コースに復帰する際、観客の何人かが押し掛けした。彼は失格となった。
- レース終盤、2番手のファンジオがピットアウトしたあと、フェラーリのウゴリーニというマネージャーが、「ファンジオのピット作業に規定以上の作業員が就いた」と審判に抗議した。そして、先頭ファリーナのペースを緩めさせた。しかし抗議は最後まで認められなかった。ファンジオはファリーナを抜き、以後独走した。ファンジオ側の意見は、「オイル漏れを調べるためにマシンの下を覗き込んだ。マシンには触れていない」というものである。
- フェラーリは天気とルールに翻弄され、マセラティに2連敗となった。
- ■ 6月20日 第3戦 ベルギー
- G.ファリーナはこの一戦の後、ミッレ・ミリアで大事故に遭い、以後を欠場した。フェラーリは、代わりにモーリス・トランティニャンをレギュラーにした。彼は、南米でのノンタイトル戦において、青いフェラーリに乗って(プライベーターということ)優勝を果たしていた。本戦では、早速2位という戦果を挙げた。
- レースの方は、またもファンジオの圧勝で終わった。実際、このマセラティ250Fは、1957年にいたるまで第一線で活躍し続けた名車であった。プライベーターのS.モスも、このマシンで3位に。
- ■ 7月4日 第4戦 フランス
- そして、ここランスにてメルセデスの登場となった。マシン名はW196で、ストリーム・ライナー、ボッシュ製燃料噴射装置、デスモドロミック・バルブ(スプリングの代わりにカムでバルブを開閉する)など大胆な新技術をいくつも用いている。タイヤもコンチネンタルという母国のものを使っている。率いるのは戦前からの名監督、アルフレート・ノイバウアーである。
- なお、「シルバーアロー」という愛称には、面白い由来がある。1934年に開催されたレースで、規定の重量を1kgだけオーバーしていた為、当時のナショナルカラーであった白の塗装を削ぎ落とし、アルミの地金を露出させてレースに出場したからなのだ。以後、銀色がドイツのナショナルカラーになった。
- メルセデスの新技術について専門知識がなくても、スタートラインに立ったときのストリーム・ライナーは目立つ。タイヤを覆い隠すスポーツ・カー姿のことで、遠くからでも一目でメルセデスと判別できた。このストリーム・ライナーは結局、3位以下を周回遅れにする速さを見せて勝った。昨年までの覇者フェラーリも、ここまで2連勝のマセラティの新車も、すっかり存在が霞み、脇役に追いやられたように見えた。
- ■ 7月17日 第5戦 イギリス
- 人類の叡知の結晶、メルセデスの夢のマシンは、2戦目にして弱点にぶつかった。コースが曲がりくねっていたので、タイヤがカバーされているメルセデスは視界が悪化した。操縦に余計な困難を抱えることになった。さらにレース終盤にファンジオにギヤボックスのトラブルが発生した。フェラーリのF.ゴンザレスが堂々の優勝を飾った。
- この一戦では、計測が秒単位であったために、ファステストラップに7人ものドライバーが名を連ねた。1点を7等分してポイントが与えられた。
- イギリスに集った七人のスピード侍の一人に、オノフレ・マリモンがいた。予選28位から3位まで順位を上げ、FLは予選タイムを11秒も縮めていた。普通に走ってこうなったのでは、余りにも奇妙だ。予選で何かトラブルを抱えて後方に沈んだと思われる。
- O.マリモンはアルゼンチン人である。父は、同国でファンジオとライバル関係にあった。その縁故から、オノフレがヨーロッパに留学するにあたって、ファンジオが様々な面で面倒をみた。彼は、徐々に頭角をあらわし、予選でも上位につけ、このように表彰台にも立つようになった。母国の英雄ファンジオを師匠とあがめ、常に手本としていた…。
- ■ 8月1日 第6戦 ドイツ
- 前GPでの視界の悪化を受けて、メルセデスはオープンホイールタイプのW196を用意した。ストリーム・ライナーは高速コース用となった。
- F1ドライバーのレース中初の事故死者として、前述したばかりのO.マリモンが死んだ。プラクティスでのことである。アデナウというカーブに向かうマリモンを、後ろからファンジオは見ていた。「彼のドライビングは、見ているだけで楽しかった。まるで私がテレパシーを使って彼に助言を与えているようであった。マセラティに乗ったら、私ならこう走るな。そう思うとピノチョ(マリモンのあだ名)はそのとおりに走るのであった。私はにっこりした」―自伝より
- その直後、マリモンのマシンは大きく挙動を見出し、手当たり次第にぶつかって、草むらの向こうに見えなくなった。彼はステアリングで胸をつぶし、即死した。
- この事故死は、遠い異郷で共に戦う同胞らに大きなショックを与えた。F.ゴンザレスは翌日の決勝中、集中力を失ってピットでレースを終えた。ファンジオは冷静にレース・イベントを続行し、独走状態となったメルセデス同士の争いを制した。しかし、そうして目標にしていた2度目の世界タイトルが目前に迫っても、何の埋め合わせにもならなかったという。
- 長いコースを22周も走って争ったために、このレースは3時間46分という最長時間を記録している。'50年代のF1は、3時間が当たり前であり、毎レース、現在の倍の時間を走った。'50年代の1勝には、現在の2勝の価値があるのかもしれない。
- ■ 8月22日 第7戦 スイス
- ☆ブレムガルテン…首都ベルンの郊外にある森の中に位置した。ストレートが極端に少なく、石ころも転がっていて、とにかくドライバーの腕が試されるサーキットであったという。ブレムガルテンのスイスGPは、1954年が最後である。翌年のル・マンでの大惨事を受けて、スイスは永久にレースイベントを開催しないことになったのだ。
- メルセデスのハンス・ヘルマンが表彰台に立った。F1では大成せず、この表彰台が唯一のものである。カフェの経営者という職業も持っていて、F1にはプライベーターとして参戦することが多かった。しかしル・マンでは、ポルシェ初の覇者として名を残した。1970年、ワークス全滅、完走はプライベーターのみの7台という荒れたレースを制したのが、H.へルマン/R.アトウッド組のポルシェ917であった。
- ■ 9月5日 第8戦 イタリア
- 今回、メルセデスの独走は5周で終わった。イタリアの2チーム、マセラティのS.モス、フェラーリのアスカリらの方に勢いがあった。中盤、雨で若干の混乱があったのち、S.モスが独走態勢に入った。ファンジオは珍しく全力疾走に切り替えてこれを追った。しかし、タイヤのカスを踏んでコースアウトし、タイムが落ちた。
- スターリング・モスはイギリスの青年で、若くして俊才の誉れが高く、25歳のときに自国のチームから引っ張りだこであった。しかしどのイギリス・チームでもよい結果を残すことができず、彼は今季メルセデスに自分を売り込んだ。しかし返事は「マセラティでも買って結果を残してから」というものだった。モスはそのとおりにマセラティのプライベーターとして参戦し、ワークスに昇格し、こうして優勝目前までこぎつけた。
- ファンジオも勝利をあきらめかけた68周目、モスは燃料補給でピットに入った。またさらに、オイル漏れのトラブルも発生した。最後は、フィニッシュラインの2km手前でエンジンが止まり、モスはマシンを押して10位完走(9周遅れ)を果たした。観客は彼の健闘を称えた。モスは翌年メルセデスに加入することになった。
- イギリス勢の話がもうひとつある。ヴァンウォールというチームが今季から登場し、ここで初完走を果たした。1951のところで述べた、トニー・ヴァンダーベルが設立したものである。はじめBRMに資金提供していたが、なかなか本格参戦を果たさないのに業を煮やし、自らチームを立ち上げたのだ。
- ■ 10月24日 最終の第9戦 スペイン
- F1にランチアが登場した。現在はフィアット傘下の高級車メーカーになっているランチア。レース活動の方も、戦前からアルベルト・アスカリの父アントニオを擁して活躍していた。
- シーズン前、高額の契約金でフェラーリからA.アスカリを引き抜くが、マシン完成の遅れから参戦は最終戦までずれ込んだ。その間、アスカリはマセラティを走らせた。本戦では、彼はメルセデスに1秒差をつけてポールポジションを奪い、決勝でも序盤をリードした。しかし10周目にクラッチが壊れた。
- アスカリの脱落後、軽タン作戦のH.シェル(マセラティ)と、フェラーリ1年生のM.トランティニャンが激しく首位の座を奪い合った。が、こちらも共にリタイヤした。モスは燃料ポンプ不調で後退、メルセデス勢もエンジン不調で脱落していった。トラブル多発のレースを制したのは、フェラーリのM.ホーソーンであった。通算2勝目。このときのフェラーリは、今季2台目の新車、553スクアーロ(サメのような外観のこと)である。
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