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  F1今昔物語 1954年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 9戦中5戦が有効得点である。
 エンジン排気量が前年の2リッターから2.5リッターに引き上げられた。3年ぶりにフォーミュラ1で争われたのだが、F2に変更以前の4.5リッターよりかなり低い。
 今季からの参戦を目指して、メルセデスはマシン開発を進めた。戦前の威光に傷がつかぬよう、最初から優勝戦線に加わることを目標に、慎重に開発は進められた。結果、メルセデスのGP復帰はシーズンの半ばになった。ドライバーは、J-M.ファンジオとドイツ人の新人2人である。
 このメルセデスの動きに隠れがちになったけれども、イタリアの老舗ランチアもF1に参戦することが明らかになった。ドライバーは、A.アスカリとL.ヴィッロレージという、フェラーリのエース2人であった。フェラーリは財政が苦しく、チャンピオンのアスカリを引き止めることが適わなかった。
 新エンジン規定に合わせて、フェラーリは新車625及び553を、マセラティは250Fを開発した。共に前年のF2車の流れを汲んでいる。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(L4) F.ゴンザレス
マイク・ホーソーン
モーリス・トランティニャン
ジュゼッペ・ファリーナ
マセラティ
残留
ゴルディーニ
残留
PI
マセラティ マセラティ(L6) ファン・マヌエル・ファンジオ
オノフレ・マリモン
スターリング・モス
他多数
残留
残留
クーパーpvt
 
PI
メルセデス・ベンツ メルセデス・ベンツ(L8) ファン・マヌエル・ファンジオ
カール・クリング
ハンス・ヘルマン
マセラティ
新人
新人
CO
ランチア ランチア(V8) アルベルト・アスカリ
ルイジ・ヴィッロレージ
フェラーリ
フェラーリ
PI
ゴルディーニ ゴルディーニ(L6) ジャン・ベーラ
他多数
残留
 
E
ヴァンウォール ヴァンウォール(L4) ピーター・コリンズ HWM  
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
エキップ・ロジェ フェラーリ ルイ・ロジェ
ロベール・マンヅォン
残留
スポット参戦
 
他多数        


 ■ 1月17日 第1戦 アルゼンチン
 メルセデスの参戦が遅れるあいだ、ファンジオはマセラティに乗って出場した。晴れ間と豪雨が入れ替わる難しいレースとなった。
 レース中盤、M.ホーソーンは雨に滑ってコースアウトした。そして奇妙なことに、コースに復帰する際、観客の何人かが押し掛けした。彼は失格となった。
 レース終盤、2番手のファンジオがピットアウトしたあと、フェラーリのウゴリーニというマネージャーが、「ファンジオのピット作業に規定以上の作業員が就いた」と審判に抗議した。そして、先頭ファリーナのペースを緩めさせた。しかし抗議は最後まで認められなかった。ファンジオはファリーナを抜き、以後独走した。ファンジオ側の意見は、「オイル漏れを調べるためにマシンの下を覗き込んだ。マシンには触れていない」というものである。
 フェラーリは天気とルールに翻弄され、マセラティに2連敗となった。

 ■ 6月20日 第3戦 ベルギー
 G.ファリーナはこの一戦の後、ミッレ・ミリアで大事故に遭い、以後を欠場した。フェラーリは、代わりにモーリス・トランティニャンをレギュラーにした。彼は、南米でのノンタイトル戦において、青いフェラーリに乗って(プライベーターということ)優勝を果たしていた。本戦では、早速2位という戦果を挙げた。
 レースの方は、またもファンジオの圧勝で終わった。実際、このマセラティ250Fは、1957年にいたるまで第一線で活躍し続けた名車であった。プライベーターのS.モスも、このマシンで3位に。

 ■ 7月4日 第4戦 フランス
 そして、ここランスにてメルセデスの登場となった。マシン名はW196で、ストリーム・ライナー、ボッシュ製燃料噴射装置、デスモドロミック・バルブ(スプリングの代わりにカムでバルブを開閉する)など大胆な新技術をいくつも用いている。タイヤもコンチネンタルという母国のものを使っている。率いるのは戦前からの名監督、アルフレート・ノイバウアーである。
 なお、「シルバーアロー」という愛称には、面白い由来がある。1934年に開催されたレースで、規定の重量を1kgだけオーバーしていた為、当時のナショナルカラーであった白の塗装を削ぎ落とし、アルミの地金を露出させてレースに出場したからなのだ。以後、銀色がドイツのナショナルカラーになった。
 メルセデスの新技術について専門知識がなくても、スタートラインに立ったときのストリーム・ライナーは目立つ。タイヤを覆い隠すスポーツ・カー姿のことで、遠くからでも一目でメルセデスと判別できた。このストリーム・ライナーは結局、3位以下を周回遅れにする速さを見せて勝った。昨年までの覇者フェラーリも、ここまで2連勝のマセラティの新車も、すっかり存在が霞み、脇役に追いやられたように見えた。

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 ■ 7月17日 第5戦 イギリス
 人類の叡知の結晶、メルセデスの夢のマシンは、2戦目にして弱点にぶつかった。コースが曲がりくねっていたので、タイヤがカバーされているメルセデスは視界が悪化した。操縦に余計な困難を抱えることになった。さらにレース終盤にファンジオにギヤボックスのトラブルが発生した。フェラーリのF.ゴンザレスが堂々の優勝を飾った。
 この一戦では、計測が秒単位であったために、ファステストラップに7人ものドライバーが名を連ねた。1点を7等分してポイントが与えられた。
 イギリスに集った七人のスピード侍の一人に、オノフレ・マリモンがいた。予選28位から3位まで順位を上げ、FLは予選タイムを11秒も縮めていた。普通に走ってこうなったのでは、余りにも奇妙だ。予選で何かトラブルを抱えて後方に沈んだと思われる。
 O.マリモンはアルゼンチン人である。父は、同国でファンジオとライバル関係にあった。その縁故から、オノフレがヨーロッパに留学するにあたって、ファンジオが様々な面で面倒をみた。彼は、徐々に頭角をあらわし、予選でも上位につけ、このように表彰台にも立つようになった。母国の英雄ファンジオを師匠とあがめ、常に手本としていた…。

 ■ 8月1日 第6戦 ドイツ
 前GPでの視界の悪化を受けて、メルセデスはオープンホイールタイプのW196を用意した。ストリーム・ライナーは高速コース用となった。
 F1ドライバーのレース中初の事故死者として、前述したばかりのO.マリモンが死んだ。プラクティスでのことである。アデナウというカーブに向かうマリモンを、後ろからファンジオは見ていた。「彼のドライビングは、見ているだけで楽しかった。まるで私がテレパシーを使って彼に助言を与えているようであった。マセラティに乗ったら、私ならこう走るな。そう思うとピノチョ(マリモンのあだ名)はそのとおりに走るのであった。私はにっこりした」―自伝より
 その直後、マリモンのマシンは大きく挙動を見出し、手当たり次第にぶつかって、草むらの向こうに見えなくなった。彼はステアリングで胸をつぶし、即死した。
 この事故死は、遠い異郷で共に戦う同胞らに大きなショックを与えた。F.ゴンザレスは翌日の決勝中、集中力を失ってピットでレースを終えた。ファンジオは冷静にレース・イベントを続行し、独走状態となったメルセデス同士の争いを制した。しかし、そうして目標にしていた2度目の世界タイトルが目前に迫っても、何の埋め合わせにもならなかったという。
 長いコースを22周も走って争ったために、このレースは3時間46分という最長時間を記録している。'50年代のF1は、3時間が当たり前であり、毎レース、現在の倍の時間を走った。'50年代の1勝には、現在の2勝の価値があるのかもしれない。

 ■ 8月22日 第7戦 スイス
 ☆ブレムガルテン…首都ベルンの郊外にある森の中に位置した。ストレートが極端に少なく、石ころも転がっていて、とにかくドライバーの腕が試されるサーキットであったという。ブレムガルテンのスイスGPは、1954年が最後である。翌年のル・マンでの大惨事を受けて、スイスは永久にレースイベントを開催しないことになったのだ。

 メルセデスのハンス・ヘルマンが表彰台に立った。F1では大成せず、この表彰台が唯一のものである。カフェの経営者という職業も持っていて、F1にはプライベーターとして参戦することが多かった。しかしル・マンでは、ポルシェ初の覇者として名を残した。1970年、ワークス全滅、完走はプライベーターのみの7台という荒れたレースを制したのが、H.へルマン/R.アトウッド組のポルシェ917であった。

 ■ 9月5日 第8戦 イタリア
 今回、メルセデスの独走は5周で終わった。イタリアの2チーム、マセラティのS.モス、フェラーリのアスカリらの方に勢いがあった。中盤、雨で若干の混乱があったのち、S.モスが独走態勢に入った。ファンジオは珍しく全力疾走に切り替えてこれを追った。しかし、タイヤのカスを踏んでコースアウトし、タイムが落ちた。
 スターリング・モスはイギリスの青年で、若くして俊才の誉れが高く、25歳のときに自国のチームから引っ張りだこであった。しかしどのイギリス・チームでもよい結果を残すことができず、彼は今季メルセデスに自分を売り込んだ。しかし返事は「マセラティでも買って結果を残してから」というものだった。モスはそのとおりにマセラティのプライベーターとして参戦し、ワークスに昇格し、こうして優勝目前までこぎつけた。
 ファンジオも勝利をあきらめかけた68周目、モスは燃料補給でピットに入った。またさらに、オイル漏れのトラブルも発生した。最後は、フィニッシュラインの2km手前でエンジンが止まり、モスはマシンを押して10位完走(9周遅れ)を果たした。観客は彼の健闘を称えた。モスは翌年メルセデスに加入することになった。
 イギリス勢の話がもうひとつある。ヴァンウォールというチームが今季から登場し、ここで初完走を果たした。1951のところで述べた、トニー・ヴァンダーベルが設立したものである。はじめBRMに資金提供していたが、なかなか本格参戦を果たさないのに業を煮やし、自らチームを立ち上げたのだ。

 ■ 10月24日 最終の第9戦 スペイン
 F1にランチアが登場した。現在はフィアット傘下の高級車メーカーになっているランチア。レース活動の方も、戦前からアルベルト・アスカリの父アントニオを擁して活躍していた。
 シーズン前、高額の契約金でフェラーリからA.アスカリを引き抜くが、マシン完成の遅れから参戦は最終戦までずれ込んだ。その間、アスカリはマセラティを走らせた。本戦では、彼はメルセデスに1秒差をつけてポールポジションを奪い、決勝でも序盤をリードした。しかし10周目にクラッチが壊れた。
 アスカリの脱落後、軽タン作戦のH.シェル(マセラティ)と、フェラーリ1年生のM.トランティニャンが激しく首位の座を奪い合った。が、こちらも共にリタイヤした。モスは燃料ポンプ不調で後退、メルセデス勢もエンジン不調で脱落していった。トラブル多発のレースを制したのは、フェラーリのM.ホーソーンであった。通算2勝目。このときのフェラーリは、今季2台目の新車、553スクアーロ(サメのような外観のこと)である。


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