- ■ シーズン前
- 引き続き、参加台数不足のためF2マシンでチャンピオンシップが争われた。全9戦中4戦のポイントが有効。
- 前年大怪我を負ったファンジオは、マセラティに乗って復帰を果たした。彼は半年以上レースをしていない。怪我によって、かつてのキレが失われていないかどうか、本人も恐る恐るレース感覚を探る。
- クーパーで好走を見せたM.ホーソーンは、昨シーズン後すぐにフェラーリからお呼びがかかった。レース歴たったの2年で、世界最高峰の舞台で世界最高のマシンに乗ることになった。テストを充分にこなし、今季の更なる飛躍に臨む。
- ドライバーはこの通りだが、マシンには前年の改良という以外、ほとんど変化が見られない。
ワークス・チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(L4) |
アルベルト・アスカリ ジュゼッペ・ファリーナ ルイジ・ヴィッロレージ マイク・ホーソーン |
残留 残留 残留 クーパーpvt |
PI |
マセラティ |
マセラティ(L6) |
ファン・マヌエル・ファンジオ フロイラン・ゴンザレス フェリーチェ・ボネット オノフレ・マリモン |
復帰 残留 残留 新人 |
PI |
ゴルディーニ |
ゴルディーニ(L4) |
モーリス・トランティニャン ジャン・ベーラ 他多数 |
残留 残留 |
E |
HWM |
アルタ(L4) |
ランス・マックリン ピーター・コリンズ 他多数 |
残留 新人 |
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他多数 |
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プライベーター |
車体/エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
エキュリー・ロジェ |
フェラーリ |
ルイ・ロジェ |
残留 |
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エンリコ・プラーテ |
マセラティ(L6) |
エマヌエル・ド・グラッフェンリード |
残留 |
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個人参加 |
クーパー・アルタ |
スターリング・モス |
ERAなど |
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ロブ・ウォーカー・レーシング |
コンノート・リー・フランシス(L4) |
ジョニー・クレエ |
ゴルディーニpvt |
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他多数 |
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- ■ 1月18日 第1戦 アルゼンチン
- アルゼンチンでは、レース好きの大統領の政策もあって、'48年ごろからグランプリが開かれた。ヨーロッパの選手が招かれ、逆に自国の選手をヨーロッパのレースで戦わせた。このように、当時のアルゼンチンはレースが盛んな国であった。ペロン大統領は、1952年、とうとう新しいサーキットをブエノスアイレスに建設し、今季からここでのグランプリが世界選手権に組み込まれることになった。
- ☆ブエノスアイレス…'54〜'60年、'72〜'81年、'95〜'98年と、三期間に渡ってF1が開催されている。期間ごとにレイアウトが異なる。'50年代当時、スタンドに立つとサーキット全体が見渡せたのは特徴的であった。大抵は1月に第1戦として開催された。南半球なので、これは真夏の時期にあたる。猛暑での戦いが繰り広げられた。
- 初のF1ということもあって、ペロン大統領が観戦に訪れた。夫人のエバ・ペロン(通称エビータ)は半年前に癌で亡くなっていた。サーキットは異様な熱気に包まれ、大観衆が警官の制止を振り切って、コースの縁にまで殺到した。
- こうなると悪い予感がする。32周目に3位G.ファリーナの目の前で、観客である一人の少年がコースを横切った。ファリーナの必死の回避も空しく、少年は跳ねられ、更にマシンは群衆の中に突っ込んだ。ファリーナは無事だったが、観客の10名が死に、30名あまりが負傷するという大惨事となってしまった。レースはまたもA.アスカリが独走して優勝した。
- 5位のオスカル・ガルベスとは、ファンジオのアルゼンチン時代のライバルである。ちょうど巨人ファンと阪神ファンのように、当時のアルゼンチンでは二人のファン同士が火花を散らしあった。O.ガルベスは、ペロン大統領のヨーロッパ修行政策には興味を示さず、アルゼンチンでのレース活動に専念した。人気の高さは、このサーキットの別名が彼の名前ということからもわかる。
- ■ 6月7日 第3戦 オランダ
- ☆ザンドフールト…1952〜1985年に渡り、ほぼ毎年開催された。北海沿岸の砂丘上に作られた。そのため砂塵が積もって路面が滑りやすかった。
- マセラティが、'53年型のA6GCMをはじめて投入した。しかしA.アスカリの快進撃が続く。昨年の第3戦から、レースの全周回の93%で先頭を走っている。1チームがラップリーダーを独占するのならまだしも、1人のドライバーがなのだ。彼の好調さがうかがえる。
- アスカリに続くのが、ファリーナ、ヴィッロレージ、ホーソーンといったチームメイトたちだ。しかしマシンの故障や事故に翻弄された。ホーソーンは、イタリア語での連絡が全くわからないため、ピットサインの見落としによって2戦連続でF.ゴンザレスに表彰台を奪われた。
- ■ 6月21日 第4戦 ベルギー
- 今度こそは一矢報いたいマセラティ。ここベルギーではファンジオがPP、ゴンザレスがFLを奪った。それでも決勝では二人とも前半でリタイヤしてしまい、アスカリの連勝を9に伸ばす結果となった。欠場したインディ500があるので、9ではなく7連勝とする見方もある。
- ファンジオはレース後半のスピンによって、また路上に投げ出された。幸いにも今回は無傷で済んだ。
- ■ 7月5日 第5戦 フランス
- 我が世の春を謳歌するフェラーリのアスカリ。その10連勝を阻んだのは、弱冠24歳のブロンド髪の青年、マイク・ホーソーンだった。
- レースは、ゴンザレスとファンジオのマセラティ勢の独走で始まった。ゴンザレスは燃料を半分だけ積んで飛ばし、フェラーリをかく乱させようという作戦だった。そのゴンザレスがピットインすると、レースは、ファンジオとホーソーンによる熾烈なデッドヒートへと変貌した。アスカリは彼らに着いてこれない。
- 最後のティロワというヘアピンカーブまで死闘が続いたが、ブレーキング勝負でホーソーンに軍配が上がった。ホーソーンはイギリス人として初の勝利を遂げた。それもアスカリやファンジオといったチャンピオンたちと競り合っての勝利だ。新しいイギリス人スターがF1(当時はF2だが)に誕生したと言っていいだろう。
- ただし、連勝が止まったのはドライバー、A.アスカリのことで、フェラーリの連勝は続いている。
- ■ 7月18日 第6戦 イギリス
- アスカリが前GPの雪辱を完全勝利で果たした。
- ホーソーンに続きたい地元イギリス勢である。多数のプライベーターが今回も参戦した。しかしマシンはコンノートの7位、ドライバーはホウォートンの8位が最高であった。
- ■ 8月2日 第7戦 ドイツ
- ここドイツでも地元のプライベーターが多数参戦した。34台が出走して、歴代最多の記録になっている。しかし、ヴェリタスのH.ヘルマンの9位が最高位であった。
- アスカリは今回はツキがなかった。タイヤが外れ、ドライバー交代によって復帰したところ、エンジンも壊れた。ジュゼッペ・ファリーナが2年ぶりの勝利を飾った。
- また、このレースを現平成天皇が観戦されている。当時、学生で外遊中であった。同じ戦後復興を期す友邦国の観衆に万来の拍手で迎えられ、プレゼンテーターもつとめた。初めてF1を目にした日本人ではなかろうか、と言われている。
- ■ 8月23日 第8戦 スイス
- 8月11日、戦前の名ドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリが亡くなった。
- アスカリは優勝とFLで9点をあげ、2年連続の王座に輝いた。ただし、ピットサインを無視したとして、ファリーナの怒りを買った。
- ファンジオは序盤でギヤを壊し、F.ボネットと交代した。しかし、そのマシンもピストンが壊れて、今度こそリタイヤとなった。そして、ギヤを修理したボネットの方が入賞するという皮肉な結果になった。
- シーズン前のところで有効得点が4戦と書いたが、実際はシーズンが始まってから4戦に変更になったと思われる。最初から4戦のままだと、ドイツGPでアスカリのタイトルが決まることになる。しかし、当時の雑誌・書籍にはそのような記述がない。
- ■ 9月13日 最終の第9戦 イタリア
- 3人の世界チャンピオン、ファリーナ、ファンジオ、アスカリが、抜きつ抜かれつの激闘を演じた。周回遅れながら、O.マリモンも加わった。
- 勝負は最終ラップまで持ち越された。コーナーを抜け出ると、アスカリの前に周回遅れのマシンが現れ、アスカリは横っ飛びに避けようとした。そこにマリモンが突っ込み、ファリーナは草地に逃げた。ファンジオは、彼の冷静さでも"どうすり抜けたのかわからない"という窮地を脱し、トップでチェッカーを受けた。ファンジオは前年に大怪我を負った当にその地で、復活の勝利を遂げた。
- そして、ここ2年続いてきたフェラーリの連勝が14で止まった。中盤から力を示しはじめたマセラティは、最終戦でしっかりした結果を残した。
- これはマセラティの初優勝である。1926年、アルフィエリ、ピンド、エルネストのマセラティ3兄弟によってボローニャに設立された。アルファロメオ、フェラーリに続くイタリアのチームの勝利であり、この後トップチームへとのし上がっていく初めの一歩である。
- ただし、設立者の3兄弟はこの時のマセラティにはいない。チームは、1947年に資金難からオルシー家のものとなっていた。その後、マセラティの3兄弟は、OSCAというチームを結成するが、3回しか完走を果たせなかった。
- ■ シーズン後
- スイスGPで名前の挙がったフェリーチェ・ボネットは、シーズン後、カレラ・パンアメリカーナというスポーツカーレースで事故死した。ファンジオとは友人だった。カレラ・パンアメリカーナには、ファンジオも同じランチアで出場していた。ファンジオがショックを受けた仲間の死のひとつである。
- フェラーリの2年にまたがる14連勝は、インディ500の関係で真っ二つに引き裂かれて扱われることもある。そう扱わないならば、現代まで破られていない大記録である。
- 今季は、そのフェラーリとマセラティが入賞のほとんどを占めた。資金豊富なメーカー系のチームが多数出場するので、非メーカー系の独立チームには入賞が厳しい'50年代前半である。そのメーカー系チームも2つきりとなると寂しい気がするが、この時点でメルセデスが、翌年の参戦に向けてマシン開発を進めていた。戦前の栄光に恥じぬような完璧なマシンの開発を…。
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