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  F1今昔物語 1955年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 7戦中5戦が有効ポイントである。ただし開幕の時点では、年間11戦の開催が予定されていた。
 これまで3勝をあげているのは、ファンジオ、アスカリ、ファリーナのチャンピオンたちのみである。新鋭の誕生が待たれる感じがする。
 しかしながら、この年は「メルセデスのファンジオ、ランチアのアスカリの一騎打ちになる」、と予想した人が大半だったのではないだろうか。力のある者はこの二人しかいなかった。そして数字上、二人は互角だった。共にチャンピオン2回、共に29戦出走で13勝、PP数が15と14、FL数が共に13と、何もかもが拮抗していた。
 メルセデスとランチア…、二人とも去年再登場したばかりの古豪チームに所属している点でも共通している。メルセデスはL8で290馬力の「W196」、ランチアはV8で260馬力の「D50」、メカニズムが当時の水準を超えているのも共通している。
 しかし、シーズン中、暗いニュースが両方のチームを襲うことになる。
 フロイラン・ゴンザレスは、ヨーロッパでの修行を終え、アルゼンチンに戻った。ホーソーンはヴァンウォールに移籍した。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
メルセデス・ベンツ メルセデス・ベンツ(L8) ファン・マヌエル・ファンジオ
スターリング・モス
カール・クリング
ピエロ・タルッフィ
残留
マセラティ
残留
フェラーリ
CO
フェラーリ フェラーリ(L4) ジュゼッペ・ファリーナ
モーリス・トランティニャン
エウジェニオ・カステロッティ
他多数
残留
残留
新人
 
E
マセラティ マセラティ(L6) ジャン・ベーラ
ルイジ・ムッソ
ロベルト・ミエレス
他多数
ゴルディーニ
残留
マセラティ
 
PI
ランチア ランチア(V8) アルベルト・アスカリ
エウジェニオ・カステロッティ
残留
新人
PI
ヴァンウォール ヴァンウォール(L4) マイク・ホーソーン フェラーリ PI


 ■ 1月16日 第1戦 アルゼンチン
 南半球において1月は盛夏である。今回の決勝は、酷暑の中で行なわれた。ドライバーの交代が多いのは、暑すぎてピットで休みを取らないと、完走ができないためである。単独で完走できたのは、勝者ファンジオとR.ミエレスの、地元出身者のみだった。地元とはいえ、F.ゴンザレスはダウンして交代した。
 "時速200キロで走っているのだから、風で涼しいのでは?"と疑問に思う方もいるかもしれない。だが、この当時のF1マシンは、フロント部分にエンジンを搭載していた。エンジンの熱気が始終、コクピットにまとわりつくのである。
 ファンジオはこう述懐している。―レース中に水を飲めないことはわかっていた。そのため私は、前もってできるだけ水を飲まない訓練をしておいた。…コクピットの暑さはひどいもので、足首が金属面に触れるたびに、熱さでひどく痛んだ。…(ピットインで水を浴びたあと)サーキットを2周も走らないうちに、ミネラルウォーターで濡れたスーツはすっかり乾いてしまい、暑さは耐えられないほど激しくなった。……

 ■ 5月22日 第2戦 モナコ
 このレースで、ルイ・シロンは、55歳9ヶ月という年齢で完走を果たしていて、最高齢完走記録になっている。
 最高齢の記録を漁ると、大抵はフィリップ・エタンセラン、ルイ・シロン、ルイージ・ファジオーリの3人が占めている。彼らは19世紀の生まれであり、自動車の誕生や成長とそっくりそのまま年齢が重なる、時代の生き証人である。
 ルイ・シロンは、モナコのホテル経営者の子として生まれた。モナコ人のF1ドライバーと言えば、40年後のO.ベレッタくらいしかいないので、極めて珍しい。地元のグランプリを得意とし、F1初年度には表彰台にあがった。壮年期の1931年には優勝もしている。

 決勝レースは白熱したものだった。前半メルセデスが速かったが、ファンジオが50周目にミッションを壊した。替わってトップに立ったモスは、2位アスカリまでも周回遅れにしてしまいそうな独走を見せたが、これも81周目にエンジンが壊れた。同じ周、消えた先頭を追いかけていたアスカリは、運転ミスで海に飛び込んでしまった。幸いにも彼は軽傷で済んだ。勝ったのは予選で出遅れていたフェラーリ。M.トランティニャンの初優勝だった。
 レース後、アスカリの自宅に、潜水夫協会の名誉会員章とモーターボートのライフベルトが届けられた。このようなイタリアン・ジョークがモナコの戦いの締めくくりとなればよかったのだが、大変なことが起きた。
 決勝から4日後、ランチアのテストにアスカリが現れ、「サーキットを軽く回ってくる」つもりで、カステロッティのスポーツカーに乗りこんだ。そのまま彼は原因不明の事故に遭い、生きて帰ってくることができなかった。

 ■ 6月5日 第4戦 ベルギー
 ランチアは大変な目に遭った。高額の契約金で呼び招いたA.アスカリを失ったのだ。企業の言葉で言うと、巨額の投資が泡と消えたのである。ランチアはこの一戦を最後に、短いF1活動を休止した。さらに企業としても倒産し、創業者一族は会社を去った。
 ランチア最後の一戦で輝きを見せたのが、同チームのスポーツカー部門で活躍していたエウジェニオ・カステロッティであった。レース撤退に一人反対し、一台かぎりの参戦を許された彼は、予選1位を奪い、決勝序盤を奮闘した。17周目にマシンが壊れたが、このランチアD50がこのまま歴史の彼方に葬り去られるのは惜しいマシンであることを示した。
 1ヵ月後、イタリア自動車クラブ、フィアット、フェラーリ、ランチアの要人による会議が開かれ、「GPレースにおけるイタリアの威信を取り戻すため、ランチアのマシンおよび設備の一切がフェラーリに譲渡され、フィアットが今後5年間、フェラーリに資金援助する」旨が公式発表された。カステロッティもフェラーリに移籍することになった。

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 ■ 6月19日 第5戦 オランダ
 メルセデスが2戦連続でワンツーフィニッシュを遂げた。メルセデス強し、と言いたいところだが、この勝利は沈みきった雰囲気の中で達成された。ランチアに続いて、この新参・古豪チームにも、運命の大きなうねりが訪れていた…。
 オランダGP前の6月11日、ル・マン24時間耐久レースで、レース史上最悪と言われる大事故が発生した。死者は85名を数えた。モータースポーツ自粛のムードが高まり、F1でもフランスやドイツなど四つのグランプリが中止になった。スイスでは、2台が同時に走るようなレースそのものが禁止になった。『死のレース 1955年ルマン』(マーク・カーン著 二玄社 1993)が、事故の記述だけでなく、渦中のドライバーやチーム関係者の人間模様をドラマチックに描写している。
 事故の発端となる行動を起こしたホーソーンは、ピットで取り乱していたが、チームの説得によってレースを続け、これを制した。表彰式では、高らかにシャンパンをあおりもしたという。レース史上最悪のこの事故について、ホーソーンは何も語らなかったという。
 この事故では、メルセデスのマシンが観客席に突っ込んだ。原因はどうであれ、実際に多くの死傷者を生み出したのはメルセデスであった。同チームは、世論への配慮からこのレースを撤退し、遺族に多額の弔慰金を支払った。
 J-M.ファンジオはこの大事故の渦中にいた。前車のテールをジャンプ台にして、メルセデスが宙に舞う姿を、目の前で目撃した。3年前は自分が事故で生死の境をさまよい、一昨年は友人のF.ボネット、昨年は弟子のO.マリモンが、彼の目の前で事故死した。今年もライバルであるアスカリの死、そしてこの大事故と、彼は人間の生き死にというものと何遍も繰り返し向き合っている。

 ■ 7月16日 第6戦 イギリス
 ☆エイントリー…リバプールの競馬場を一部利用した平坦なコースである。これから10年ほど、シルバーストンと1年交代で開催されることになる。

 スターリング・モスが母国で初優勝を飾った。この年のミッレ・ミリアとタルガ・フローリオも優勝した。いずれもファンジオとの戦いを制した上での勝利である。レース発展途上国のイギリスに新たなスターが誕生したと言えるだろう。
 もう一人のスター、M.ホーソーンは、レースの出場機会が減った。実家の自動車修理業を手伝うなど、別な人生を歩もうとしている動きを見せた。
 ところで、モスが勝ったということは、ミッレ・ミリアやタルガ・フローリオも、メルセデスが制したことになる。ダンドロッドでのツーリスト・トロフィー(3人のドライバーが事故死したことで有名)もモスのメルセデスが勝った。もはや"サーキットに登場すれば勝利が約束されている"という状況で、このエイントリーでも上位4台がメルセデスであった。
 また、このレースにはクーパーのジャック・ブラバムが参戦している。当時としては一風変わった形状のマシンであった。エンジンが運転席の後ろにある、すなわちリヤエンジン搭載ミッドシップ・レイアウトのマシンだったのである。

 ■ 9月11日 最終の第7戦 イタリア
 この年、モンツァは新装した。バンクのついた新しいカーブが加えられ、1周10kmになった。ただし、まだバンク部分の舗装が不十分で、通過するたびにタイヤをひどく痛めつけた。ランチアD50がフェラーリのマシンとして練習走行をしたところ、ドライバーのG.ファリーナは高速走行下でトレッドが吹き飛ぶという恐怖を体験した。
 路面の舗装問題をファンジオはちゃんと見抜いた。ショックを最小限に抑える走りを実行し続けて、彼が勝者となった。

 ■ 10月23日 非選手権戦 シラクーザ
 イタリアで行なわれたこの一戦で、少し特筆すべきことが起きた。イギリス車がレースに勝ったのだ。T.ブルックスという青年が乗るコンノートが、マセラティ勢を振り切って、このような殊勲をあげた。M.ホーソーンやS.モスの勝利は前述したが、イギリスのマシンともなると、BRMやコンノートによる入賞が数年に一度という結果しかないのだ。タイトル戦でも勝てるだろうか!? またT.ブルックスはこれがはじめてのF1ということで、若き俊英の出現にも注目が集まった。

 ■ シーズン後
 メルセデス・ベンツ本社はレース活動からの撤退とチームの解散を決定した。ル・マンでの大事故が大きく影響したことは疑いようがない。メルセデスは、この2年弱の活動で、12戦9勝という、かつての威光に勝るとも劣らない戦績をきちんと残した。シーズン前の2強、ランチアとメルセデスは、このように戦績では明暗が分かれたものの、共に短期間での撤退という結末を迎えた。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ジュゼッペ・ファリーナ Giuseppe Farina
 初代チャンピオンであるG.ファリーナが引退した。彼は15歳という驚きの年齢からレースをはじめた。愛らしい顔から「NINO(ニーノ)」と呼ばれた。当時のドライバーがハンドルを抱えるように握っていたのに対し、真っ直ぐに腕を伸ばしてハンドルを握っていた。経済学教授という職も持っていた。引退後はインディ500に挑戦したりした。そして'66年、フランスGPの観戦に向かう途中に交通事故で亡くなった。
生年月日 1906年10月30日
没年月日 1966年6月30日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1950アルファロメオ覇者3236
1951アルファロメオ4127
1952フェラーリ227
1953フェラーリ318
1954フェラーリ712
1955フェラーリ53
55533


アルベルト・アスカリ Alberto Ascari
 イタリア人2人目にして、現在のところ最後のチャンピオンがA.アスカリである。父のアントニオもレース中に事故死した。この父子は、命日と享年が同じであり、しばしば「アスカリ家の悲劇」と言われる。'52〜'53の9連勝は不滅の記録である。インディ500の関係から7連勝だとしても、最多連勝記録のひとつになっている。
生年月日 1918年7月13日
没年月日 1955年5月26日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1950フェラーリ54
1951フェラーリ2227
1952フェラーリ覇者6567
1953フェラーリ覇者5658
1954マセラティ
ランチア
19124
1955ランチア-2
13141332

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