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  F1今昔物語 1997年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 年17戦で争われる。ニュルブルクリンクがルクセンブルクGPとして開催される。ポルトガルGPが開催されなくなった。
 ジャッキー・スチュワートと息子のポールによって、イギリスF3や国際F3000に参戦していたPSR(ポール・スチュワート・レーシング)が参戦した。コンストラクター名はスチュワートとする。また、アラン・プロストもリジェを買収して、自身の名を冠したチームを設立した。それからジョーダンのカラーリングが、覚えている方も多いであろう、黄色にノーズの先端に動物の顔をあしらったもの(今季は蛇)に変わった。
 この年からブリジストンタイヤが参戦し、タイヤ戦争と呼ばれる技術競争が注目を集めるようになった。初年度は、プロスト、アロウズ、スチュワート、ミナルディがブリジストン・タイヤを、他がグッドイヤー・タイヤを装着する。
 技術面では吊り下げ型ウイングが流行し、主流となった。
 前年の王者、D.ヒルは結局アロウズのシートに座ることになった。ウィリアムズにはH-H.フレンツェンが加入した。M.シューマッハの7歳下の弟、ラルフがジョーダンからデビューする。日本の中野信治もプロストからデビュー。
 またドライバーだけでなくチームスタッフにも重要な動きがあった。これまでウィリアムズのマシンを設計してきたエイドリアン・ニューウェイは、この年からマクラーレンに移った。契約の問題によって8月から現場に立つ。また、ベネトンでM.シューマッハと共に一時代を築いたR.ブラウンとR.バーンがフェラーリへ加入し、再びM.シューマッハと組むことになった。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
アロウズ A18 ヤマハ(V10) 1、デイモン・ヒル
2、ペドロ・ディニス
ウィリアムズ
リジェ
BS
ウィリアムズ FW19 ルノー(V10) 3、ジャック・ヴィルヌーブ
4、ハインツ・ハラルト・フレンツェン
残留
ザウバー
GY
フェラーリ F310B フェラーリ(V10) 5、ミハエル・シューマッハ
6、エディー・アーバイン
残留
残留
GY
ベネトン B197 ルノー(V10) 7、ジャン・アレジ
8、ゲルハルト・ベルガー他
残留
残留
GY
マクラーレン MP4/12 メルセデス(V10) 9、ミカ・ハッキネン
10、デビッド・クルサード
残留
残留
GY
ジョーダン 197 プジョー(V10) 11、ラルフ・シューマッハ
12、ジャンカルロ・フィジケラ
新人
ミナルディ
GY
プロスト JS45 無限(V10) 14、オリビエ・パニス他
15、中野信治
残留
新人
BS
ザウバー C16 ペトロナス(V10 ) 16、ジョニー・ハーバート
17、ジャンニ・モルビデリ
残留
復帰
GY
ティレル 025 フォードED(V8) 18、ヨス・フェルスタッペン
19、ミカ・サロ
フットワーク
残留
GY
ミナルディ M197 ハート(V8) 20、片山右京
21、ヤルノ・トゥルーリ他
ティレル
新人
BS
スチュワート SF1 フォード-ゼテックR(V10) 22、ルーベンス・バリチェロ
23、ヤン・マグヌッセン
ジョーダン
復帰
BS
ローラ T97/30 フォード-ゼテックR(V8) 24、ヴィンチェンツォ・ソスピリ
25、リカルド・ロセット
新人
フットワーク
GY

 ■ 3月9日 第1戦 オーストラリア
 予選でJ.ヴィルヌーブが2位以下を1.7秒も引き離した。一方で、カーナンバー1のD.ヒルは予選落ちとなる107%タイムを1秒だけ上回って20位につけた。
 しかし、スタートで波乱が発生する。まずフォーメーションラップでヒルがマシントラブルでリタイヤする、ヴィルヌーブが発車に失敗し、ハーバートとアーバインと絡んで3台がリタイヤとなった。R.シューマッハが2周目にリタイヤ。フレンツェン、クルサード、M.シューマッハ、ハッキネン、アレジ、パニスという順番でレースが進む。
 19周目頃、フレンツェンがピットイン。どうやら2回ストップ作戦のようである。30周を経過後、ワンストップ作戦のクルサードやM.シューマッハがピットインし始めた。ここでアレジがピットインを示すサインボードを見落としたか何かで走行を続け、とうとうガス欠によるリタイヤを喫してしまった。
 レース終盤にも上位陣に波乱が起こった。40周目、下位に20秒以上の差をつけてフレンツェンが2/2のピットインを行う。しかし、タイヤ交換に手間取って、クルサード、M.シューマッハに先を越された。52周目、給油機の計算ミスでM.シューマッハが緊急にピットイン。フレンツェンは2位へ順位を上げたが55周目、ブレーキの故障によってスピン、リタイヤ(完走扱い)となった。
 トラブルもバトルもなく、淡々とペースを刻んだクルサードが優勝した。マクラーレンは今季からウエストカラーに変わっている。その初戦を勝利で飾った。チームとしては'93年のアデレード以来、50戦ぶりの勝利となる。メルセデスエンジンも'94年に復帰してから初の勝利である。また、6位にはN.ラリーニが入った。彼は'94年にアレジの代役としてフェラーリで参戦し、悪夢のサンマリノでひっそりと2位表彰台に立った。そのとき以来となる3年越しの2戦連続入賞である。
 D.ヒルのチャンピオンらしくない姿はマスコミの揶揄の的となった。予選後、J.ヴィルヌーブは「あと少しでヒルを予選落ちにできたが…」という質問を受けた。決勝では、ヒルはスタートできずにリタイヤしたわけだが、その後の会見では、M.シューマッハに対して「ヒルがマシンを降りたのは気づきました?」と質問があり、意図を察知したM.シューマッハは「フェラーリのバックミラーは最後尾が見えるほど優れてはいないんだよ」と答え、場内は大爆笑となった。
 しかし、真面目なハッキネンは、「…彼はワールドチャンピオンになったほどの素晴らしいドライバーだ。その彼がこのようなパフォーマンスが発揮できない状況に置かれて僕は同情している。これは皆が言ってるような笑い話じゃない」と答えたという(2ちゃんねる「90年代を振り返るスレ」より)。

 ■ 3月30日 第2戦 ブラジル
 前GPではローラが参戦していた。しかし予選タイムがトップの112%という手の施しようのない遅さだった上、資金繰りに行き詰まって参戦継続は成らなかった。35年以上もの長きにわたってシャシー供給という形でF1界にちょくちょく名乗りを上げていたエリック・ブロードレイだったが、このプロジェクトの失敗を以て会社を手放した。
 予選は2〜14位まで1秒以内という混戦になった。しかしJ.ヴィルヌーブはこれらをコンマ5秒出し抜いてPP。
 しかしスタートではまたも波乱が起きた。数台のスタート失敗や、ヴィルヌーブも含めた何台ものコースアウトがあったため赤旗中断となった。再スタートはM.シューマッハが制し、ヴィルヌーブが2位。以下、ハッキネン、ベルガー、アレジ、パニス、D.ヒルと続いた。
 ヴィルヌーブは2周目ホームストレートであっさりとM.シューマッハをオーバーテイクし、以後、トップを独走した。12周目、M.シューマッハはベルガーにも抜かれた。21周目頃からグッドイヤー・タイヤ勢のピットインが始まった。一方、ブリジストン・タイヤ勢は35周目までピットインを伸ばすことができた。ブリジストン・タイヤは長いステイントでもタイムが落ちない耐久性の良さを見せ、パニスが3位に浮上した。
 レースはそのままヴィルヌーブが制し、ベルガー、パニス、ハッキネン、M.シューマッハ、アレジという入賞者の顔ぶれになった。

 ■ 4月13日 第3戦 アルゼンチン
 F1通算600戦目というメモリアルレースである。ティレルが「Xウイング」「バンザイウイング」などと呼ばれる奇抜なウイングを装着し始めた。J.ヴィルヌーブは体調を崩し、レース前に点滴を打つほどであったという。しかしそれでもウィリアムズに通算100回目のPPをもたらした。好調なパニスが予選3位につけた。スチュワートのバリチェロの5位も見事である。
 スタートでは3戦連続となる波乱が起きた。1コーナーでバリチェロとM.シューマッハが接触し、後者がリタイヤ、巻き込まれる形でクルサードもレースを終えた。コースを塞ぐ形で発生したこのアクシデントに乗じて、中団の者がジャンプアップする。セーフティーカーが出動し安全走行を終えた5周目、フレンツェンがクラッチの故障でゆっくりとマシンを止めた。その結果、上位はヴィルヌーブ、パニス、アーバイン、フィジケラ、D.ヒル、アレジという並びになった。
 18周目、ヒルとアレジが接触するも、2台とも無事にレースを続ける。19周目、ただ一人ヴィルヌーブに食らいついていたパニスにエンジントラブルが生じ、ゆっくりとレースを終えた。25周目、上位を走行していたジョーダンのフィジケラとR.シューマッハに、同士討ちとなる接触が起きた。押し出された形のフィジケラがリタイヤとなった。同じ周にはバリチェロが油圧系トラブルによってゆっくりとレースを終えた。
 30周目の時点で、ヴィルヌーブ、R.シューマッハ、アーバイン、ハーバート、ハッキネン、アレジという順番である。ハードタイヤを履いてワンストップ作戦を採ったR.シューマッハやアレジが上位に浮上していた。
 終盤の56周目、ヴィルヌーブが意外な3回目のピットストップを行った。しかし下位に差をつけていたので順位に変動は起きない。しかしアーバインが迫ってきて、テール・トゥ・・ノーズの接近戦になった。これを守り切り、ヴィルヌーブが2連勝を飾った。アーバインが自己最高の2位、R.シューマッハがデビュー3戦目で早くも3位表彰台に立った。
 レース後、同士討ちについてフィジケラは「ラルフと話をしてからでないとコメントできない」と冷静に対応していたが、この日を境に二人は犬猿の仲になった。

 ■ 4月27日 第4戦 サンマリノ
 予選は順当にJ.ヴィルヌーブ、フレンツェン、M.シューマッハ、パニス、ジョーダン勢という順番になった。当時トップ4の一角であったベネトンは、完全に中団の勢力となってしまった。
 決勝の日は朝から雨、レース前には止んで全車スリックタイヤではあるものの、路面は不安定な状態である。今回は無事にレースが始まり、先頭はヴィルヌーブ、M.シューマッハがフレンツェンをパスして2位につけた。5周目にベルガーがスピンしてリタイヤ。12周目、中野信治にD.ヒルが追突し両者ともリタイヤ。18〜19周目に入賞圏内を走っていたR.シューマッハ、ハーバートがそれぞれマシントラブルでリタイヤした。
 24周目にM.シューマッハがピットイン。前が空いたフレンツェンはペースを上げる。すぐにヴィルヌーブ、フレンツェンとピットインが続いた結果、フレンツェン、M.シューマッハ、J.ヴィルヌーブという順番に変わった。そして徐々にフレンツェンが下位を引き離していく。J.ヴィルヌーブはトラブルを抱えているのか、ペースが安定しない。
 ワンストップ作戦のマクラーレンは、2台を同一周回にピットインさせるという荒業に出た。しかしハッキネンがアウトラップでコースアウト、クルサードはやがてエンジンブローと苦労は実らなかった。41周目、2/2のピット作業でヴィルヌーブに災難が降りかかった。ギアのトラブルからステアリングの交換に迫られ、さらにエンストで立ち往生、そこへフレンツェンもピットインしてきて除け者にされてしまった。結局このままリタイヤとなる。
 開幕から3戦連続リタイヤと精彩を欠いていたフレンツェンであったが、今回は期待されたパフォーマンスを発揮し、うれしい初優勝を遂げた。2位3位にはフェラーリ勢が続いた。

 ■ 5月11日 第5戦 モナコ
 予選でJ.ヴィルヌーブにミスがあり、今回はフレンツェンがPP。
 スタート30分前から雨が降ってきた。各チームはレインタイヤに履き変えレースに臨む。しかしウィリアムズだけ専用の気象予報士の「これは通り雨で、すぐ止む」との予報を信じ、スリックタイヤを履いた。この選択は完全に裏目に出て、スタート直後から後方集団に呑まれていった。混乱は続き、アロウズ勢とマクラーレン勢が2周の内にスピンやアクシデントでレースを終えた。上位はM.シューマッハ、フィジケラ、R.シューマッハ、バリチェロ、ハーバート、パニスの順番である。
 ウィリアムズ勢は堪らずハーフウェットに履き換え、また順位を落とした。6周目、バリチェロがジョーダン勢の二人を抜いて2位に浮上した。10周目頃、ハーバートとR.シューマッハがスピンやアクシデントでレースを終えた。14周目、M.シューマッハ、バリチェロ、フィジケラ、パニス、アーバイン、サロ。
 特に遅く走るモナコで水たまりができるほどの雨ということで、F1らしからぬスローペースでレースが続く。ティレルのM.サロは燃料補給を断ち、ノンストップの作戦に打って出た。M.シューマッハには一度、コースアウト→スピンターンで復帰という危ない場面があった。が、圧倒的な差を築いていたため順位は変わらない。
 2時間ルールが適用され、レースは62周で終わった。M.シューマッハは最終周を2分かけて走り、周回と走行距離を短くしてチェッカーを受けた。決められた時間の中でトラブルをできるだけ回避するための作戦であり、天候を読み間違ったウィリアムズとは対照的な、慎重で余裕のあるレース運びと言える。これは一昨年のベネトンとウィリアムズと同じ構図でもある。
 今季初優勝によってM.シューマッハがポイントランキングでもトップに躍り出た。スチュワートのバリチェロが殊勲の2位表彰台、アーバインも3位につけ、フェラーリはコンストラクター部門でも首位に躍り出た。5位には無給油無交換のノンストップレースを走り切ったサロが入った。

 ■ 5月25日 第6戦 スペイン
 フォーメーションラップでベルガーがスタートできず、最後尾に回った。しかしスタート直前でR.シューマッハもエンストを起こす。もう一度フォーメーションラップがやり直され、ベルガーは命拾いをして6番グリッドに復帰し、R.シューマッハが最後尾に回った。1周減算でレースが争われる。
 クルサードが上手くスタートを決め、先頭で1コーナーを回る、、、がすかさずJ.ヴィルヌーブが2コーナーでこれを追い抜いた。予選7位だったM.シューマッハも好スタートを決め、クルサードをも抜いた。ヴィルヌーブ、M.シューマッハ、クルサード、アレジ、ハッキネン、ベルガー。
 M.シューマッハはストレートが伸びず、後続が数珠つなぎになった。14周目、とうとうクルサードに追い抜かれた。直後、1/3のピットインが始まった。18周目、5位まで浮上していたD.ヒルが油圧系の故障でリタイヤとなった。
 28周目の時点で、ヴィルヌーブ、クルサード、アレジ、M.シューマッハ、ハッキネン、パニスという順番である。直後に2/3のピットインが始まった。ブリジストン・タイヤを履くパニスは2回ストップで済む。タイヤに厳しいレースになると、ブリジストンの耐久性のよさが際立つのであった。
 38周目、パニスが1コーナーでクルサードのインをつき、実質的な2位に浮上した。終盤、パニスが周回遅れのアーバインに執拗なブロックを受け、後続に詰められてしまった。チームのオーナーであるプロストと監督のC.フィオリオがフェラーリに抗議に向かった。結局アーバインには10秒ストップペナルティが科された。
 レースはそのままヴィルヌーブが制し、ランキングトップに返り咲いた。これで今季は3勝3リタイヤである。パニスが予選14番手から2位まで上り詰めた。3位は今季初表彰台のアレジ。
 フィジケラが初のファステストラップを記録した。ジョーダンにとっては1991年ハンガリーGP以来、久しぶりのFLとなる。通算2回目でこれが最後のものでもある。今季のジョーダンはフレッシュな顔ぶれを揃えて好調であり、予選でもシングルグリッドを続けている。この年の予選は、トップ4以外にも10位以内にプロスト無限やザウバーが切り込んできて毎戦賑やかであった。

 ■ 6月15日 第7戦 カナダ
 ベルガーが蓄膿症で欠場し、アレクサンダー・ブルツというテストドライバーが代わりに走ることになった。予選で赤旗中断があり、わずかな残り時間で最後の1周を駆けたM.シューマッハが今季初のPPの座に就いた。地元のJ.ヴィルヌーブは僅差で2位に甘んじることになった。またバリチェロの3位も光る。
 スタート第1コーナーで多重クラッシュが発生した。アーバインとマグヌッセンが接触し、両者ともリタイヤとなった。煽りを受けたハッキネンもリタイヤ、パニスもダメージを負い、ピットインの必要に迫られて上位から脱落した。大荒れの様相はまだ収まらず、2周目最終コーナーでヴィルヌーブがクラッシュを喫した。
 6周目に片山右京のリタイヤ(スロットルの故障)の影響で、セーフティーカーが出動した。10周目に再開、しかしフレンツェンのタイヤにブリスターが発生し、予定外のピットインを強いられた。14周目、R.シューマッハがクラッシュ。これはタイヤ・バーストによるもので、本レースでのグッドイヤー勢の耐久性に暗雲が立ち込めた。
 グッドイヤー勢が予定2回のところを多めのピットインを強いられる。フレンツェンはペースを取り戻し、6位まで浮上してきた。31周目にはクルサード、M.シューマッハ、アレジ、フィジケラ、ハーバート、フレンツェンという順番になった。やがてハーバートにピットレーンでのスピード違反による10秒ストップペナルティが科された。
 48〜50周目、M.シューマッハとフレンツェンのタイヤにブリスターが生じ、ピットインを強いられた。2位に30秒以上の差をつけていたクルサードも、ここで安全策を取ってピットインする。結果的には、この判断が勝負の明暗を分けた。クルサードにまさかのエンジンストールが起きる。30秒たってもスタートできない。1位から入賞圏外へと脱落してしまった。
 しかしさらに衝撃的な出来事が起こる。52周目、パニスのマシンが挙動を乱してウォールに激突、跳ねかえってタイヤバリアにノーズから突き刺さった。スピードが一気に殺される危険なクラッシュであり、パニスは両足を骨折した。レースはセーフティーカー出動後に赤旗中断となり、予定周回の75%を満たしていたため、56周の時点でレースが終わった。
 予測できぬ事態とはいえ、SC導入直前に必要のないピットインからエンストを起こしたクルサードは大損を被った。棚ボタの勝者はM.シューマッハ。フィジケラが初の3位表彰台に立ち、中野信治も初の6位入賞を果たした。パニスは以後3カ月以上も欠場する。ブリジストンタイヤの勢いがグッドイヤーの耐久性の弱さを明らかにしていた段階だっただけに、その意味でも惜しまれる事故であった。

 ■ 6月29日 第8戦 フランス
 M.シューマッハが2戦連続のPP。パニスの代役として、ミナルディのJ.トゥルーリが抜擢された。いきなり中野信治より0.9秒速いタイムで、予選6位という位置につけた。空いたミナルディのシートにはT.マルケスが座る。またザウバーのモルビデリがテスト中にクラッシュし、代わってN.フォンタナが乗ることになった。
 スタートでアーバインが3位に浮上した。7周目、中野信治がシケインでスピンを喫してリタイヤ。ポカポカとヘルメットを叩いた。
 1/2のピット戦が終わった26周目の段階で、M.シューマッハ、フレンツェン、アーバイン、J.ヴィルヌーブ、トゥルーリ、R.シューマッハという順番になった。
 45周目頃、曇り空が一段と暗くなり、雨粒が落ちてきた。ピットインと重なる微妙なタイミングであったが全車がスリックタイヤを選択した。実際、雨は強くならない。52周目、トゥルーリのピットインでプロスト・チームはレインタイヤを装着させ、さらなる上位浮上を賭けた。しかし、雨はまだ強くならず、ズルズルと後退していった。M.シューマッハ、フレンツェン、アーバイン、ヴィルヌーブ、クルサード、R.シューマッハ、アレジ、ブルツという順番である。
 雨が本格的になったのは60周目頃で、クルサードとR.シューマッハがすかさずレインタイヤに履き換えた。上位4台はスリックのまま走る。M.シューマッハに一瞬コースアウトする危機があった。新鋭のブルツがスピンしてリタイヤした。土砂降りに耐えきれず、アーバインとヴィルヌーブがピットインする。アーバインは3位で復帰できたが、ヴィルヌーブは先にタイヤ交換していたクルサードとR.シューマッハに先行された。
 まだまだ順位は変わる。ヴィルヌーブは前の2台を抜き、4位に復位する。R.シューマッハがコースアウトして7位に脱落した。最終ラップ、M.シューマッハが上手くペース調整し、弟を先行させるべくコースを空けた。R.シューマッハが同一周回でレースを続ける。アレジがクルサードに迫り、クルサードはスピンして最後の最後にリタイヤとなった。勝者はM.シューマッハ。フレンツェンが続く。最終コーナーで4位ヴィルヌーブが3位アーバインに襲いかかるも、パイロンをなぎ倒す派手なスピンにつながった。ヴィルヌーブはFウイングを破損したままスピンターンで復帰、後ろから迫るアレジを振り切って4位でゴール、5位アレジ、6位が兄の機転に助けられたR.シューマッハであった。
 フェラーリとM.シューマッハがポイントランキングを独走している。8戦を終えてマシントラブルはなく、前年までのイメージを完全に払拭し、ベネトン時代のレース戦略の巧みさも見せている。R.バーンやR.ブラウンの力が大きい。トラブル多発のウィリアムズは8戦目でやっと2台が同時に入賞した。

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 ■ 7月13日 第9戦 イギリス
 シルバーストンにさらなる補修が加えられた。高速サーキットである点は守られている。予選はJ.ヴィルヌーブが制した。マンセル時代からウィリアムズは7年連続のPPである。
 スタート直前でフレンツェンがエンストを起こし、フォーメーション・ラップがやり直された。再スタートでは片山右京がスピンしてリタイヤ。最後尾スタートのフレンツェンもフェルスタッペンの追突を受け、リタイヤとなった。セーフティーカーが出動した。ヴィルヌーブ、M.シューマッハ、6番グリッドのクルサードが3位、4位ハッキネン、9番グリッドのハーバートが5位、6位R.シューマッハという順番である。
 先頭2台が下位をどんどん引き離し、20周で30秒近い差となった。20周すぎに1/2のピットインが始まった。先頭のヴィルヌーブがフロントタイヤの外し方に手間取り、30秒以上もピットを離れられなかった。ステアリングを叩いて悔しがる。
 マクラーレン勢は1回ストップである。2位クルサードの遅さに苛立ち、同僚のハッキネンが揺さぶる。やがてクルサードがミスしてハッキネンが2位に浮上した。先頭のM.シューマッハは27秒も前にいる。クルサードの後ろにアレジ、ブルツ、ヴィルヌーブと続く。ヴィルヌーブが攻め立てるものの、ブルツが華麗にブロックした。
 マクラーレン勢の1回だけのピットインののち、その他の2/2のピットインが始まった。37周目、M.シューマッハがピットインする。しかし直後にまさかのスローダウン! ホイールベアリングの故障からリタイヤとなった。これでヴィルヌーブ、アーバイン、R.シューマッハ、ハッキネン、ブルツ、アレジという順番になった。44周目、ヴィルヌーブらがピットインを終えるとハッキネンがトップに立っていた。同じ頃アーバインがピットレーン出口付近でドライブシャフトが折れてリタイヤした。
 先頭のハッキネンにヴィルヌーブが1秒以内まで詰めてきた。激しい先頭争いが予想されたが、52周目、ハッキネンのマシンから白煙があがり、初優勝目前で無念のリタイヤとなった。またこのとき中野信治が、タイヤに難を抱えていたフィジケラを抜いて入賞圏内の6位に浮上した。その後ろはD.ヒルである。
 最終周、中野信治にもエンジンブローが生じる。しかしプロストはこの日の中野の走りを評価したという。D.ヒルが6位にあがり、チャンピオンとしての母国凱旋を一応入賞で締めることができた。優勝はヴィルヌーブ、ちなみに彼はF1ドライバーには珍しく髪を金髪に染めはじめた。2位にアレジ、ベルガーの代役ブルツがデビュー3戦目で3位表彰台に立った。

 ■ 7月27日 第10戦 ドイツ
 予選。4戦ぶりの出場となるベネトンのベルガーがいきなりPPを奪った。2位にフィジケラ、3位にハッキネン。
 スタートで接触があり、フレンツェン、アーバイン、クルサードがまとめてピットに向かいリタイヤとなった。ベルガー、フィジケラ、M.シューマッハ、ハッキネン、アレジ、J.ヴィルヌーブ。
 ベルガーがリード広げ、フィジケラとM.シューマッハ、ハッキネンとアレジが接近して走る。16周目頃にベネトン勢が1/2のピットインを行った。21周目すぎに1回ストップ作戦の他のマシンが続々ピットイン。先頭ベルガー、2位フィジケラのままである。
 34周目、ベルガーが注目の2/2のピットインを行う。フィジケラとの差は19秒、作業は6秒4。僅かに遅れ、フィジケラの後ろについたが、シケインで追い抜いた。同じ周、5位のヴィルヌーブがスピンしてリタイヤ。
 40周目、フィジケラのリアタイヤがバースト。なんとかタイヤ交換して復帰したもののリタイヤとなった。これで2位はM.シューマッハ、しかし彼にもガス欠の危機が生じ、緊急にピットイン。僅かな給油で2位を守り、こちらは被害を最小限に抑えた。
 ベルガーがフェラーリ時代の'94年以来の勝利を遂げた。場所は同じホッケンハイムである。現役最年長で顔も若干老け込み、そして病気休養明けで、さらに数週間前に父親を航空機事故で亡くして精神的にダメージを負っていたとインタビューで語っていたのだが、改心の走りであった。
 フィジケラの健闘も光る。惜しくもリタイヤに終わったものの、最後まで勝ちにこだわった走りを見せた。話しは前後するが、レース前、この二人が入れ替わりでベネトンを離脱・加入することが発表されていた。

 ■ 8月10日 第11戦 ハンガリー
 PPはM.シューマッハ、J.ヴィルヌーブが2位。そしてセッション終了直前、D.ヒルが3位に飛び込んできた。ここまで9位が最上位だったのに、彼とアロウズに何が起こったのだろうか?
 スタートでイン側スタートのヴィルヌーブが遅れた。M.シューマッハが先頭で、ヒル、アーバイン、ハッキネン、フレンツェン、ヴィルヌーブの順になった。M.シューマッハは午前中にマシンをクラッシュさせ、スペア・カーで走っている。そのセッティングが悪いのかペースが全く伸びず、抜きにくいサーキットで上位が団子状態になった。7周目、アーバインがタイヤの不調でピットインした。
 11周目のストレートエンドのコーナーで、ついにヒルがM.シューマッハをオーバーテイクし、次の周で5秒もの差をつけた。13周目、3位ハッキネンがスローダウン。M.シューマッハはヴィルヌーブにも抜かれた。直後にピットイン、ブリスターの発生によるタイヤ交換である。
 ヒルが快調にトップを走る。24周目以降に上位陣が正常な1/2のピットインを行った。フレンツェンのマシンに異常が発生し、ピットでリタイヤとなった。
 42周目、フィジケラがM.シューマッハを抜こうとして単独スピン。そのままリタイヤとなった。46周目、ヒル、ヴィルヌーブ、クルサード、ハーバート、M.シューマッハ、中野信治という順番である。50周目、ヒルがピットイン。チームは冷静な作業で送り出す。各車が2/2のピットインを終えてもヒルが独走状態を維持し、いよいよ優勝が見えてきた。アロウズにとって'78年の参戦以来の初の、'92年の参戦から苦しい戦いが続いていたヤマハエンジンにとっても初の、BSタイヤにとっても参戦初年度の、という輝かしい勝利が…。
 60周目頃、M.シューマッハがR.シューマッハ、アーバイン、中野信治らと集団を形成した。66周目、3位クルサードが電気系トラブルでリタイヤとなった。ヒルは30秒近い独走状態…だったのが、75周目、ラップタイムがガクッと落ちた。最後の最後でスロットルの故障が生じたのである。1分20秒前後だったラップタイムが20秒も遅くなった。最終周、ヴィルヌーブが力を失った前年度チャンピオンを抜き去り、棚からぼた餅の一勝をあげた。また最終コーナー手前で中野信治がアーバインに追突しつつも復帰し、今季2度目の入賞を果たした。
 D.ヒルはハンガリーを大変得意としており、'93〜'97年は優勝か2位、'98、'99年は4位、6位である。また、彼はマシンの開発能力に優れるドライバーであると言われている。ウイリアムズは彼が抜けた途端に競争力が低下(エンジン変更やデザイナー流出も当然ある)し、アロウズは彼がいたときのみ首位を独走、ジョーダンはコンスタントに年1、2勝した。今回はこの二つの要素が大当たりしたのだろうか。いずれにしても、これまで散々馬鹿にされていたヒルは、チャンピオンチーム以外でも立派に走れることをこのレースで示した。
 また、このレースは絶叫で有名な鈴木アナが担当した。スタート直後に「3番手アーバイン」と言おうとして張り切りすぎ、「アーバンテサンバイン」という有名なセリフを言い残した。
 ここまで優勝かリタイヤという、チームのチグハグな戦略の通りにチグハグな結果を残す印象が強かったJ.ヴィルヌーブ…。しかしイギリスに続いてハンガリーでも棚ボタ勝利を得て、勝負はまだ分からない。そして本戦以後、彼はリタイヤしなくなる。フェラーリも力を発揮しきれないところを示し(しかしM.シューマッハは被害を最小限に抑えるが)、ベルガーやD.ヒルといった脇役が意外な活躍を見せる。こうした誰が主役になるか分からない混沌さが、一戦一戦、1997年シーズンの中盤から後半を盛り上げた。

 ■ 8月24日 第12戦 ベルギー
 PPはJ.ヴィルヌーブで今季7回目。アレジが久々に2位のフロントローに飛び込んだ。他に注目すべきはP.ディニスが予選8位を記録したことである。D.ヒルよりも一つ前で、BSタイヤユーザーではトップである。彼がF1に来たのは単なる資金持ち込みのペイ・ドライバーとしてにすぎなかった。フォルティ-コルセ、リジェと、彼の加入・離脱がチームの存亡を左右するような状況が続いた。彼はこの一年でヒルから多くを学び、豊富な資金だけでなく、"そこそこ走れる"ということも示せるようになった。
 スタート前に通り雨があり、路面をウェット状態にしていった。フォーメーションラップは省略され、セーフティーカーが先導した状態でレースを始める措置が取られた。R.シューマッハとトゥルーリがトラブルからピットスタートで最後尾に並んだ。晴天の中マシンがゆっくり走る奇妙な光景が続く。事実上のレーススタートは4周目となった。先頭のヴィルヌーブのペースが上がらない。2位のアレジも含めフル・ウェットのタイヤが合わないのか? 5周目、インターミディエイトを履くM.シューマッハがこの2台を抜き去って先頭に立った。そして1周の内に6秒ものを差をつけた。フィジケラも豪快にアレジをオーバーテイクした。続いてヴィルヌーブに襲いかかる。ヴィルヌーブはインターミディエイトに履き換えるためピットインした。
 路面は急速に乾いていき、各車がタイヤを交換し始めた。ヴィルヌーブは再びピットインしてようやくスリックタイヤに落ち着いた。15周目、M.シューマッハ、アレジ、フィジケラ、ハッキネン、ハーバート、クルサードの順番である。ウィリアムズ勢はポイント圏外に落ちてから、ようやく本来の速さが戻ってきた。20周目にクルサードが、22周目にR.シューマッハがそれぞれスピンしてリタイヤとなった。
 30周目ころに各車が2回目のピットインを始めた。ベネトン勢のみタイヤがよくないのか余計に多くピットインを強いられ、アレジが後退していった。コースが完全に乾いた終了間際、ヴィルヌーブがファステストラップを連発したものの、完全に後の祭りであり、M.シューマッハが大差をつけて1番目にチェッカーを受けた。
 M.シューマッハのファステストラップは全体の11番目だが、2位とは26秒もの差がついている。ウェット状態のときにそれだけの差を築き上げたことになる。フィジケラがカナダGPに続いて表彰台に立った。レース後、3位ハッキネンの燃料違反(チームのミスによる)が発覚し、ハッキネンは失格、以下順位が繰り上げとなった。ウィリアムズは今回もチグハグなレース戦略を立てつつ、幸運に恵まれてJ.ヴィルヌーブが2ポイントを得た。

 ■ 9月7日 第13戦 イタリア
 8月31日、ダイアナ元ウェールズ大公妃がパリで事故死した。イギリス関係者の多いF1では、この事件を悼み、多くの人が腕に喪章をつけて本戦に臨んだ。
 予選。M.シューマッハがティフォシの期待に応えられない。9番手に沈んだ。アーバインも10位と、高速サーキットでフェラーリが全く力を発揮できない。PPは意外にもアレジである。通算2回目で、前回の'94年のときもここモンツァで勝ち取ったものである。2位にフレンツェン。上り調子のフィジケラが3位に入った。J.ヴィルヌーブが4位で続く。
 不安視された混乱もなくレースがスタートした。クルサードがここで3位にジャンプアップを果たした。金曜からトラブル続きだった片山右京が、9周目にホイールが外れるトラブルに見舞われ、ピットでリタイヤとなった。アレジ、フレンツェン、クルサード、フィジケラ、ヴィルヌーブ、ハッキネン、M.シューマッハの順で淡々とレースが進む。
 アレジはスピードが伸びない。フレンツェンが1秒ほどの差で追い立てた。その後ろでは若干マクラーレンのペースがよく、クルサードがフレンツェンに、ハッキネンがヴィルヌーブに迫っていった。そして1/1のピットインのときが来た。29周目にフレンツェンがピットインすると、クルサードがアレジの真後ろに迫った。32周目、この両者が同時にピットインし始めた。ベネトンもマクラーレンもクルーはきっちり仕事をこなし、見た目には何の差もない。しかし先にピットレーンを出たのはクルサードだった。
 クルサード、アレジ、フレンツェン、ハッキネン、フィジケラ、ヴィルヌーブ、M.シューマッハという順番で第2ステイントが経過していく。37周目、ハッキネンのタイヤがパンクし10位あたりまで脱落した。続いて、9位争いの最中、ハーバートとR.シューマッハが接触し、ハーバートが激しくタイヤバリアに激突するクラッシュを演じた。R.シューマッハもタイヤ交換後にリタイヤとなった。
 レースはそのままクルサードの勝利で終わった。勝負を決したのはピット作業であった。アレジはモンツァでは全くもって不運である。一方で、フェラーリは地元で力を発揮できず、ティフォシの声援が途中でアレジへと変わったほどだった。ハッキネンがパンクでタイヤを交換した後ペースがあがり、初のファステストラップを記録した。

 ■ 9月21日 第14戦 オーストリア
 ☆A1リンク…'87年限りでF1が開催されなくなったエステルライヒリンクが改修され、生まれ変わったもの。距離が縮小され、高速でコーナーを回ることができない、ストップ・アンド・ゴー型のサーキットに変わった。名前の「A1」とは、スポンサーである携帯電話会社から取られている。開催のたびに地元の環境保護団体から騒音などの問題に対して抗議があがった。結果、2003年を以てF1の開催は途絶えた。

 PPはJ.ヴィルヌーブ、ハッキネンが2位。そして今度はプロストGPの新人、J.トゥルーリが3位に飛び込んできた。新サーキットのスリッピーな路面に対してBSタイヤは的確な仕事をこなしたようで、スチュワート勢も5、6位につけている。M.シューマッハは今回も9位に沈んだ。
 レース前、静かな森にウィーン少年合唱団の歌声が響いた。レースがスタートすると、ヴィルヌーブが失速、4位にまで後退した。先頭はハッキネン、しかし1周も走りきらぬうちにエンジントラブルでリタイヤとなった。よって先頭はトゥルーリ。以下、バリチェロ、ヴィルヌーブ、マグヌッセン、フレンツェン、M.シューマッハと続いた。
 BSタイヤの利点を生かし、トゥルーリとバリチェロが逃げる。ヴィルヌーブはタイヤが温まるにつれてペースが上がりはじめ、24周目、バリチェロを抜いた。トゥルーリは1回ストップ作戦を採り、37周目まで首位を守りきってピットイン。一方、38周目、アレジとアーバインが絡んで共にリタイヤとなった。イエローフラッグが振られている最中に、M.シューマッハがフレンツェンを抜いてしまう。後に10秒ストップペナルティが科せられた。
 トゥルーリはピットアウト後に渋滞に捕まり、ペースを落とした。ヴィルヌーブがいいペースを保ったまま40周目にピットイン。そしてトゥルーリよりも前で復帰することに成功した。2/2のピットインが終わった段階で、ヴィルヌーブ、トゥルーリ、クルサード、フレンツェン、フィジケラ、R.シューマッハという順番である。
 終盤、中野信治、マグヌッセン、トゥルーリとBSタイヤ勢のマシンのエンジンが立て続けに壊れた。65周目、8位M.シューマッハが前を行くバリチェロに襲いかかった。バリチェロは必死に順位を守るも、コーナーを曲がり切れず、コースアウトからリタイヤに追い込まれた。さらに69周目、M.シューマッハはD.ヒルにも襲いかかり、執念で6位入賞を果たした。
 勝者はヴィルヌーブ。スタート直後のチグハグな展開を後半に払いのけた。フレンツェンも3位に入り、今季初めて二人で表彰台に立った。

 ■ 9月28日 第15戦 ルクセンブルク
 ☆ルクセンブルクGP…ニュルブルクリンクで開催されたF1レースに、1997年と1998年のときだけつけられた名前。F1は1国1開催が原則であるが、人気のあるドライバーの国などではシーズン中に別なサーキットでもう一回開催されることがある。そのグランプリは欧州だったら「ヨーロッパGP」と呼ばれることが多い。1997年はスペインとドイツで2回レースが行われた。第6戦がスペインのカタロニア、第17戦がへレスで開催され、後者が「ヨーロッパGP」と名付けられた。ドイツの方は第10戦がホッケンハイム、第15戦がニュルブルクリンクで行われ、後者のGPは隣国の名前である「ルクセンブルク」が冠せられた。翌1998年はヘレスでのヨーロッパGPがないにもかかわらず、そのままルクセンブルクGPとして開催された。ニュルブルクリンクでのF1は、1999年以降はホッケンハイムと並行してヨーロッパGPとして開催され続ける。

 2週連続開催のルクセンブルクGP。予選ではハッキネンが94戦目にして初のPPを記録した。以下J.ヴィルヌーブ、フレンツェン、フィジケラ、M.シューマッハと続く。
 レースが始まると、クルサードがいい発進で2位につけ、マクラーレンがワンツー体制を築いた。1コーナーを曲がるフィジケラにR.シューマッハとM.シューマッハが並びかけ、R.シューマッハがチームメイトと兄に接触した。3台はコースアウト。最後尾スタートの片山右京もこれに巻き込まれ、結局、4台ともリタイヤとなった。ハッキネン、クルサード、ヴィルヌーブ、バリチェロ、アレジ、マグヌッセンという順番で1周目がすぎた。
 17周目、中野信治がエンジントラブルでリタイヤ。23周目、アーバインも同じくリタイヤ。28周目以降、ハッキネンとヴィルヌーブがピットイン。無難に復帰した。30周目、6位D.ヒルがピット作業でエンストを起こし、後退した。
 ハッキネンが力強く首位を走る。41周目、マグヌッセンがリタイヤ(ドライブシャフト破損)。43周目、ホームストレート上でクルサードのマシンから激しい白煙があがりリタイヤ。翌周にはハッキネンのマシンからも同じ現象が起き、クルサードと同じところにゆっくりマシンを止めた。初優勝が見えてきたところで、地元のメルセデス・エンジンに不運が続いたのであった。同じ周、バリチェロにも油圧系のトラブルが生じ、リタイヤとなった。この数周の間に順位は大きく様変わりし、ヴィルヌーブ、アレジ、フレンツェン、ベルガーのルノー・エンジン勢が上位を独占し、ディニスとパニスが続いた。
 終盤、ディニスとパニスの5位争いが白熱した。成長中のディニスが巧みに順位を守った。レースはこの順位のまま終わった。ハッキネンが速さを見せているのに、なかなか結果に結びつかない。勝者はヴィルヌーブでポイントランキングで首位に立つどころか、王手をかけた。思えばこれが彼の最後の勝利である。2位、4位はベネトン。フラビオ・ブリアトーレがチーム代表を辞任することが発表されていた。ディニスが今季初入賞を遂げた。

 ■ 10月12日 第16戦 日本
 J.ヴィルヌーブが1点でもM.シューマッハを上回ればタイトルが決定する。予選ではセッション開始と共に雨が降った。すぐ止んだもののバリチェロがオイルをまき散らし、後続が走りづらくなった。この時点でのトップタイムはハッキネン。しかしオイルをものともせず彼を上回る走りを見せたのが、ヴィルヌーブとM.シューマッハであった。タイトル争いの二人がフロントローに並んで、分かりやすい構図になった。
 …と思ったら、ヴィルヌーブに出場停止の話しがもちあがった。金曜のフリー走行中に黄旗区間での追い越しがあったのだという。彼の追い越しは今季3回目で執行猶予中の身であった。チーム側は裁定を不服として協議が行われ、ヴィルヌーブは決勝を暫定出場することで落ち着いた。
 レースは無難に始まり、ハッキネンが3位に浮上した。2周目、アーバインが逆バンク部分で外側からハッキネン、M.シューマッハを次々と追い抜いた。次いで4周目、シケインでヴィルヌーブをも交わして先頭に立ち、グングンと差をつけはじめた。このときのアーバインの速さは後々まで伝説的に語られるほどで、8周目には下位に12秒差をつけた。以下、ヴィルヌーブ、M.シューマッハ、ハッキネン、フレンツェン、アレジが数珠つなぎで続く。
 9周目、引退を決めた地元の片山右京がリタイヤ。14周目、ハッキネンから上位陣がピットインを始めた。アーバインは16周目にピットイン。18周目にM.シューマッハ。21周目、ヴィルヌーブがピットアウトしたところにM.シューマッハが前に出て位置関係が逆転した。22周目、アーバイン、M.シューマッハ、ヴィルヌーブ、フレンツェン、ハッキネン、アレジの順。
 25周目、アーバインが意図的にペースダウンし、M.シューマッハに首位を譲った。そしてヴィルヌーブを抑える役に回った。31周目、アーバインのブロックを逃れるためヴィルヌーブが早めにピットイン。しかし、給油リグが入らず、タイムロスする。ハッキネンにも抜かれた。フェラーリ勢のピットインののち、37周目にフレンツェンがピットイン。何とかアーバインの前に出た。
 50周目ころ、M.シューマッハが12位D.ヒルを周回遅れにしようとするも、ヒルがいちいちブロックした。そのためフレンツェンが1秒差にまで迫った。M.シューマッハは抗議のアクションを見せる。しかし、順位は覆らず、M.シューマッハの勝利でレースが終わった。立役者のアーバインとがっちり握手を交わした。
 ヴィルヌーブ側は抗議を取り下げ、彼の失格が決まった。最終戦はM.シューマッハが1ポイントをリードして迎える。一方で、コンストラクターズタイトルはウィリアムズに決定した。フレンツェンが5戦連続で表彰台に立ったのが効いた。

 ■ 10月26日 最終の第17戦 ヨーロッパ
 フリー走行中、アーバインがJ.ヴィルヌーブの進路を何度も妨害した。怒ったヴィルヌーブがピットに詰め寄って文句を言った。予選でたいへんな記録が出た。J.ヴィルヌーブ、M.シューマッハ、フレンツェンが1000分の1秒まで測っても同じタイムを刻んだのである。先に走った順に予選の順位が決められた。またセッション終了直前にはD.ヒルが4位に飛び込んだ。最終コーナーでのクラッシュがなければポールを取っていたかもしれないという。M.シューマッハは予選後のコメントで「自分の周りには三人のウィリアムズドライバーがいる」と、ヒルの存在も気にしていた。
 レース前、FIAはタイトル争いの二人に「フェアな戦いをする」という誓いを行わせた。レースがスタートすると、ヴィルヌーブが上手く発進できない。M.シューマッハ、フレンツェン、ヴィルヌーブ、ハッキネン、クルサード、D.ヒルという順番で1周目がすぎた。
 M.シューマッハが快調に飛ばして下位に2秒ほどの差をつけた。8周目、フレンツェンがヴィルヌーブに順位を譲った。そして意図的にペースを上下にコントロールした。何故なのかは1/2のピット作業後に判明する。21周目にM.シューマッハがピットアウトすると、フレンツェンの真後ろでペースを上げられない。翌周にはヴィルヌーブがピット作業を終えてM.シューマッハの真後ろについた。ウィリアムズは最後の最後で巧みな戦略を見せた。
 分かりやすい構図の一騎打ちが続く。ヴィルヌーブは一時0.8秒差にまで詰め寄った。しかしフォンタナの周回処理に手間取り、3秒差にまで開いたりもした。次々と周回遅れが現われる。彼らも慎重に道を譲った。42〜44周目、両者が2/2のピットインを行う。位置関係は変わらない。しかし第3ステイントになるとM.シューマッハのペースが落ちたように見える。
 テール・トゥ・ノーズの争いが続く。そして48周目、ヴィルヌーブがドライサックヘアピンでインから抜こうしたところで接触が起きた。M.シューマッハが相手の側面にタイヤをヒットさせ、大きく弾き飛んでグラベルに捕まり、リタイヤとなった。ヴィルヌーブはダメージが心配されたものの、引き続きコースを走る。前には誰もいない。しかしながら入賞だけすればチャンピオンである。ちなみに、同じ周にヒルがギア・ボックストラブルでリタイヤした。
 マクラーレン勢はこの間ずっと二人の後ろを走っていた。ヴィルヌーブは慎重なペースになっている。64周目、ハッキネンがクルサードを抜いて(クルサードが譲ったという見方もある)、猛然とヴィルヌーブを追いかけはじめた。そしてファイナルラップで、ヴィルヌーブも力を抜いてマクラーレン勢に先頭を譲った。
 ハッキネンが96戦目(99戦目という見方もある)にして、持ち前の速さに見合った結果を、念願の勝利の美酒を手にした。当時の最遅記録が更新された。表彰台ではクルサードと二人でヴィルヌーブを肩に担ぎ、彼の戴冠を讃えた。

 ■ シーズン後
開催数覇者得点シェア勝率PP率FL率LD率 最多勝PP王FL王LD王
17J.ヴィルヌーブ18.3%.412 .588 .176 31.6%J.ヴィルヌーブ.412 J.ヴィルヌーブ.588 H-H.フレンツェン.353 J.ヴィルヌーブ31.6%

1997年ポイント推移の図

 最終戦でのM.シューマッハの接触は故意のものであるとされた。1994年に引き続き二度目である。今回は、明らかに異常な角度にステアリングを曲げる姿が映像にハッキリと残っている。FIAは彼のランキング(だけ、獲得ポイントは残る)を剥奪し、交通安全キャンペーンでの奉仕活動を命じた。
 J.ヴィルヌーブとM.シューマッハは今季、共に8回ずつ表彰台に上ったが、同時にあがるということはなかった。二人でシャンパンを掛け合う姿は今季一回もなかったのである。つまり、二人が下位に沈んだイタリアGPを除いて、どちらか一方が8回ずつ表彰台に立ったということになる。結果、二人のポイント差は近づいたり離れたりとシーソーゲームになることが多かった。有望な新人や伏兵の鮮やかな活躍も相まって、1997年シーズンは「面白いシーズン」として振り返られることが多いように思う。
 前年の発表通り、ルノーエンジンはこの年限りで撤退する。'90年代に君臨した「ウィリアムズ・ルノー」というパッケージはこの年で終幕を迎えた。'89年から今季まで実に63回の勝利をあげ、ドライバーズタイトルを4回、コンストラクターズタイトルを5回獲得した。その間、1992年フランスGPから翌年の日本GPまで24連続PPという記録を残し、未だ破られていない。決勝レースにおける戦略の立て方がお粗末だったため、連続の「優勝」や「表彰台」、「入賞」という面では、そんなに驚くような結果を残さなかった。これは後のフェラーリの黄金時代とは性格が正反対である。ドライバーが引っ切り無しに変更するという点もまた同様である。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ゲルハルト・ベルガー Gerhard Berger
 翌年のシートが決まらず、休養という言い方で引退を決めた。彼は210戦走って一度も失格や出場停止がない。失格0の最多出走ドライバーである。'89年のサンマリノでの負傷や今季の体調不良による休養を除けば、すべて予選を通過し、決勝出走を果たしていて、失格も0というクリーンなドライバーである。10勝という数字はセナやプロストに比べると少ない。けれどもどの一勝も、何らかの付加価値がつく印象的な勝利であると言われる。ベネトンの最初と最後の優勝を飾ったこと、フェラーリを2度復活させたこと、マクラーレンのシーズン全勝を防いだことなど…。レース以外でのハチャメチャな人柄もあって、日本ではとても人気が高い。優等生的・お利口さんなドライバーが増えるなか、ギラギラと輝く個性をパドックに振りまいた最後のドライバーであった。 引退後はBMWエンジンのディレクターや実家の運送会社の経営に務めた。2006年からはトロ・ロッソの共同オーナーになった。
生年月日 1959年8月27日
国籍 オーストリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1984ATS-4
1985アロウズ1716
1986ベネトン71216
1987フェラーリ523316
1988フェラーリ311316
1989フェラーリ71115
1990マクラーレン42316
1991マクラーレン412216
1992マクラーレン52216
1993フェラーリ816
1994フェラーリ31216
1995フェラーリ61217
1996ベネトン6116
1997ベネトン511214
101221210
 

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