Friedrich Nietzsche
フリードリッヒ・ニーチェ 1844〜1900 ドイツの哲学者。ヨーロッパ文化の退廃はキリスト教支配に原因があるとし、"神は死んだ"と叫び、新しい価値の樹立を主張した。力への意志、永劫回帰、超人などの思想を説いたが、晩年に発狂した。

 『悦ばしき知識』より

 ペンが走らない
ペンが走らない、やりきれぬ
こうも引っかかねばならぬとは業罰か?
ならばと勇敢にインク壷をわし掴みして
インクの流れも太ぶとと おれは書く
なんと走ることか、こんなに力づよく、のびのびと!
なにもかも何とうまく思いどおりゆくことか!
なるほど書きあがりははっきりしてしてないけれど―
それがどうした? 一体おれの書いたものを誰が読む?

 7 勤勉な人々のために数言
 こんにち道徳的事象の研究をしようと欲する者には、膨大な研究領野がひらけている。あらゆる情念がひとつびとつ熟考されねばならず、時代・民族・大小の個人にわたってひとつびとつ追究されねばならない。それらのすべての条理とそのあらゆる価値評価および諸事物の解明が、はっきり捉えられねばならない! これまでのところ、存在に色合いをあたえていたもののすべてが、まだ歴史をもたなかった。いいかえるなら、どこに愛の歴史が、貪欲の歴史が、嫉妬や良心の歴史が、敬虔や残虐行為の歴史があるというのだ? ……
 ……万一こうした仕事のすべてがはたされたとしたら、そのときはあらゆる問題のなかでも一番面倒な問題が前景にあらわれてくるであろう、つまりそれは、科学が行動の目標を奪い去り根絶し去ることができるのを証明したあとで、はたして科学には行動目標を与える力があるだろうか、という問題である。
 ―そうなったあかつきには、どんな類のヒロイズムをも満足させることができるような実験が、おこなわれることになろう―これまでの歴史におけるあらゆる偉大な労作や犠牲行為が光を失うような、幾世紀にも輪ある実験が。これまで科学はおのれの巨石建築をまだ築いてはいなかった。そのための時もまたやって来るだろう!

 10 一種の隔世遺伝
 私としては、ある時代の非凡な人間たちをば過去の文化とその諸力から突然に生え出た新芽だと、解したいのだ。いわばある民族とその良風の隔世遺伝であると解したいのだ。―そう考えればじっさいになお幾分なりと彼らを理解できるというものだ!……
 ―古い諸衝動のこうした再発がおこるのは、とりわけ一民族の永く保たれてきた家系や階級においてである。それに反し、種族や慣習や価値評価があまりに急速に変化するところでは、そうした隔世遺伝が起こりそうな余地は全くない。けだし、音楽におけると全く同様に、諸民族のもとでの発展の諸力にあっても、テンポがものをいうのだ。我々のこの場合にあっては、情熱的でしかもゆったりとした精神のテンポとして、発展のアンダンテ(緩徐調)が絶対に必要である。―保守的な家系の精神は、まったくのところ、こういう品種のものなのだ。

 12 学問の目標について
 なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快楽と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? ―「天にもとどく歓喜の叫び」をあげようと望む者は、また「死ぬばかりの悲しみ」をも覚悟しなければならないとしたら、どうか? おそらくそうしたものなのだ! ……
 …おそらく今日なお学問は、人間からその悦びを奪い去り、彼を一そう冷たく、一そう彫像的に、一そうストイックにするというその力のゆえに、ひろく人々の熟知するところなっているのだろう。だがまた学問はそれ以上に偉大な苦痛のもたらし手として発見されることもあるだろう。
 ―そうなったあかつきにはおそらく同時に学問の持つ逆の力も、悦びの新しい星空を輝かしめるその巨大な能力も、発見されることだろう!

 14 すべて愛と呼ばれるもの
 所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の衝動なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者―この衝動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物」が気がかりになっている者―の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛―それは新しい所有権への衝迫ではないか? 知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか? ……

 19 悪
 最善の、かつ最も豊かな人間や民族の生を味識し、さて次のように諸君は自ら問うてみるがいい、誇らかに天高く成長しようとする樹木は荒天や嵐なしに済ますことができるかどうかと、また、外部から襲う不利な条件や障碍とか、ある種の憎悪・嫉妬・我執・不信・冷酷・貪欲・暴行などは、それなしには徳における偉大な成長そのものがほとんど不可能になるところのあの好都合な環境の成分なのではないかどうかと。
 虚弱な本性の人間を破滅させる毒物は、強健な人間には強壮剤となるのだ、強者はそれを毒と呼ぶことすらしない。

 21 無私を説く者たちに
 我々がある人間の諸徳をと呼ぶのは、その徳がその人間自身に及ぼす効果に着目してではなくて、その徳が我々自身や社会に及ぼすと予想される効果に着目して、言っているのだ。……
 人々は勤勉な者を称賛する。…「身体を壊すまで働いた」若者を、誉めたり惜しんだりする。…このようにして、諸徳が称賛される場合、本当に称賛されるのは、結局のところ実は諸徳における道具的性質なのである。
 無私な者・犠牲的な者・有徳な者たちを称賛すること―要するに自分の力と理性の一切を自分の保持・発展・高揚・促進・権力拡大に使わないで、自分に関しては慎ましく無思慮に、それどころかおそらく無頓着か皮肉に暮らしている者たちを、称賛すること、―こういう称賛は、どっちみち、無私の精神からおこったものではない!
 「隣人」というやつは無私を誉めたたえる、無私によって彼が利益を得るからだ! もし隣人自身が「無私に」考えたならば、彼は、自分のためになる力のあの毀損、あの損傷を拒絶し、そのような傾向の起こることに反対し、そして何はおいてまず無私をば善と呼ばないことまさにそのことによって自分の無私性を表明するであろう!
 これによって、まさに今日おおいに尊重されているあの道徳の根本矛盾が示唆されるのだ。この道徳の動機は、その原理と背反しているのだ! ……

 23 頽廃の徴候
 「頽廃」という言葉で言い表されるところの、あの時として必然的に社会を襲う状態について、我々は次のような徴候に注意しよう。
 どこかで頽廃がおこるやいなや、種々雑多の迷信が流行し、それに対しては一民族のこれまでの信仰全般が色あせて無力なものとなる。…迷信はつねに信仰に対する一つの進歩として、知性が一そう独立的となりその権利を主張しようとしていることの徴(しるし)のように、見える。このとき、古い宗教と宗教心との尊奉者らは、頽廃を嘆く…
 ―第二に、世人は頽廃がおこる社会を無気力だといって非難する、あきらかにそういう社会では、戦争の尊重や戦争の悦びが減退するし、生活の安楽というものが、以前には軍事上および体育上の名誉がそうであったと同様に、今や熱烈に追求される。しかし、戦争や競技を通じて豪奢な見世物を展開できたあの古い民族エネルギーと民族情熱が、今では無数の私的情熱に分解してしまって、ほとんど目立たなくなっただけだということを、人々はとかく見落とすくせがある。……
 ―第三に、人はよく…頽廃の時代は一そう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。……
 ―第四に、いわゆる「道義が地に墜ちる」とき、はじめてあの人呼んで僭主という人物たちが姿をあらわす。彼らは個体の先駆者、いわば個体の早熟の初子なのだ。いますこし時を貸すと、この果実中の果実は熟れ黄ばんで民族という樹木に垂れさがる―そしてこれら果実のためにのみ、この樹木の存在があったことになるのだ! ……私の言っているのは、未来の種蒔き人たちである個体のこと、精神的植民運動の草創者および国家的・社会的連合を新たに形成する草創者たちのことである。頽廃というのは、一民族の秋の季節に対する誹謗の言辞にすぎない。

 27 諦念の人
 諦念の人はどんなことをするか? 彼はより高い世界を目指して努力する、あらゆる肯定の人間たちよりも一そう遥かに一そう高く一そう高く飛翔しようと欲する。
 この飛翔を重くするような幾多ものを彼は投げすてる、そのなかには彼にとって無価値ではないし、気に入らぬでもない多くのものが含まれている。彼はそれを高きへ飛ぼうとする熱望のために犠牲にするのだ。この犠牲、この放擲こそまさに、彼の身に目立って見える唯一のものである。
 それがために人々は諦念の人という名を彼にあたえる。このような者として彼は、頭巾つき法衣に身を包んだ換毛自在な精神のように、我々の前に立つ。彼が我々に与えるこの印象に、おそらくきっと彼は満足しているだろう。彼は我々を超えて飛翔し去ろうとする自分の熱望・誇り・意図を、我々の目に見えないようにしておこうとする。
 そうだ! 彼は我々の思ったより遥かに賢く、そのうえ我々に対してはなはだ丁重である、この肯定の人間は! というのは、彼は諦念をいだきながらも我々と同じく肯定の人間だから。

 31 商業と貴族
 売り買いということは、今日では読み書きの術のように、日常卑近の事柄となっている。…
 ―その昔、人類の野蛮だった時代に、誰もかれも猟師であって来る日も来る日も狩猟の技術を練磨していた。当時は狩猟が茶飯事であった。しかしそれがついに権力者や貴族たちの特権と変わってしまい、それによって狩猟は日常茶飯事たるの性格を失った。
 いつかはきっと、売り買いごとも、それと同じようになるかもしれない。売られも買われもしないような社会状態、そして売買の技術の必要も次第に全くなくなってしまうような社会状態というものが、考えられる。
 もしかしたら、そのときには一般の社会状態の法則に服従させられることの比較的すくない少数の人が、やがて感覚の贅沢のつもりで売買を勝手にやるようになるかもしれない。そうなったときにはじめて商業は高貴性を帯びるようになり、貴族らはそのときおそらく、それまで好んで戦争や政治にたずさわったと同様の意気込みで商業に従事するようになるだろう。……

 37 三つの錯覚から
 人々は最近の数世紀において科学を推し進めてきた。その理由の一つとしては、人々が科学とともにかつ科学を通じて神の善意と知恵とを最もよく理解できると期待したことがあげられる(イギリス人のニュートン)。他の理由の一つは、人々が認識の絶対的な有用性を、とくに道徳と知識と幸福との深奥の結合を信じたことにある(フランス人のヴォルテール)。いま一つの理由は、人々が科学のなかで何か公平無私なもの・無害なもの・自己充足的なもの・真実無垢なものを、要すれば人間の悪質な衝動などとはおよそ何の関係もないようなあるものを、所有したり愛したりできると思ったことにある(スピノザ)。つまり、このように三つの錯覚から科学が促進されたのであった。

 42 仕事と無聊
 報酬を得るためにとて仕事を求める―この点では文明諸国のほとんどあらゆる人間が現在おなじ事情にある。…ところで仕事の悦びなしに働くよりはむしろ死んだがましだと思うような一風変わった人間もいる。…彼らにとっては仕事それ自体が一切の収益にまさる収益でないなら豊かな実入りも何の足しにもならないとされる。あらゆる種類の芸術家や瞑想家は、こういう一風変わった人間の部類にぞくするものだ。
 彼らは無聊よりかむしろ悦びのない仕事の方を怖れる。それどころか、彼らの仕事が成功するようになるには、多くの無聊が必要でもある。思想家にとって、またすべての工夫に富む精神の人にとっては、無聊というものは、楽しい航海と快い順風の先触れとなるあの不味い心の「凪」なのである。こういう人はこの凪に耐えなければならないし、その気配の影響の終わるのをじっと待たなければならぬ。

 84 詩の起源
 …人間は詩句を散文以上によく記憶するものだということに、人々が気寸いてからは、人間の願い事を神々により深く感銘せしめるにはリズムの力によるべきだと考えられるようになった。同様にまた人々は、リズミカルな調子によって遥かの遠方まで自分の言葉を聴きとれるようにしよう、と望んだ。韻律に乗った祈りは、一そうよく神々の耳近くにとどくように思われたのだ。
 …古代の迷信的な人間種属にとっておよそリズム以上に有益なものなどあっただろうか?人はリズムの力で何でもすることができた、…詩句によって人はほとんど神と化した。
 そのような根本感情は、もはや完全には根絶されようもない―そして今日なお、そうした迷信を克服すべく闘った幾千年の永きにわたる労苦の後なのに、我々のうちの最も賢明な人ですら折にふれリズムの道化者となる、―たとえ彼が、ある思想を、それが韻文形式を備え従って急テンポの神々しい舞踏調で訪れるときに、一そう真実なものと感ずる、というその点でだけだとしても。きわめて真面目な哲学者たちでさえ、他の点でなら非常に厳密にできるかぎり確実にことがらを考えていながら、さて自分の思想に力と信憑性とを与えようとする段になると、あいもかわらず詩語に訴えるということは、まことに可笑しい話ではないか?
 ―けれども真理にとっては、詩人に反対される場合よりか、賛成される場合のほうが、さらに危険なのだ! というのもホメロスが言うように、「うたびとは、まこといつわり多し!」、だから。

 90 光と影
 書物や記録は、思想家のさまざまなのに応じてさまざまである。ある者は書物のなかに、彼の心に閃いた認識の光線から素早く盗みとり持ち帰ることのできた光を、まとめ入れている。
 他のある者は、影だけを、前の日に彼の心のなかでつくり上げられたものの灰色や黒色の残像だけを、再現している。

 109 我々は用心しよう!
 世界が一つの生きものだなどと考えないように、我々は気をつけよう。宇宙は一個の機械だなどと信ずることをすら、我々は慎もう。宇宙が一つの目標を目ざして組み立てられたものでないことは、たしかだ。
 …我々は、宇宙が無情で不条理だとか、あるいはその逆だとかいって陰口をたたくのはやめにしよう! それは完全でもなければ、美しくも高貴でもないし、またそれらのどれ一つにもなろうなどとは露ほども欲してない。それは人間に倣おうなどとは皆目つとめてはいない! それは我々のどんな美的および道徳的な判断とも断じて相応ずるものではない!
 …我々は、自然には法則があるなどと言わぬようにしよう。あるのはもろもろの必然性だけだ、つまり自然には命令する何者もなく、服従する何者もなく、違背する何者もない。もし諸君が、目的の何一つ存しないことを知るならば、諸君はまたいかなる偶然も存しないことを知るだろう。なぜとって、諸目的の世界があるところでのみ「偶然」という言葉も意味をもつからである。

 125 狂った人
 諸君はあの狂った人のことを聞かなかったか。彼は明るい午前中にカンテラをともし、市場へ走り、たえず「私は神を捜している! 私は神を捜している!」と叫んだ。
 市場にはちょうど神を信じない人たちが大勢集まっていたので、彼は大笑をかった。いったい神が行方不明になったのか? とある者はいった。神が子どものように道に迷ったのか? と別の者はいった。それとも、神は隠れているのか? 神は我々を怖がっているのか? 神は船に乗ったのか? 移民になったのか? 彼らはてんでに叫び、笑った。
 狂った人は彼らのただなかにとびこみ、彼らをじっと見すえた。「神はどこへいったか? 」、彼は叫んだ、「私がそれを諸君にいおう! 我々が神を殺したのだ―諸君と私が! 我々は、皆、神の殺害者だ! しかし、どうしてそうしたのか? どうして我々は海をのみほすことができたのか? 水平線全体を拭きさるための海綿をだれが我々にくれたのか? この大地をその太陽の鎖から切り離したとき、我々はなにをしたのか? いまや大地はどこに向かって動いているのか? 我々はどこに向かって動いているのか? すべての太陽から離れていくのか? 我々はたえまなく突進しているのではないか? しかも後へか、横へか、前へか、四方八方へか? まだ上下があるのか? 我々はいわば無限の虚無をさまよっているのではないか? 我々に息を吐きかけているのは空虚な空間ではないか? 寒くなってきたのではないか? たえず夜が、いっそうの夜が、やってくるのではないか? 午前中カンテラに火をともすのもやむをえないではないか? 神を埋葬する墓掘り人たちの騒ぎはまだ聞こえないか? 神の腐るにおいはまだしてこないか? 神々もまた腐るのだ! 神は死んだ! 神は死ん我々我々我々我々我々我々我々我々我々我々我々だままだ! しかも、我々が神を殺したのだ! あらゆる殺害者中の殺害者たる我々は、どうしてみずからを慰めたらよいのか? 世界がこれまでにもった、もっとも神聖でもっとも強力なもの、それが我々の短刀の下に血を流して死んだのだ―だれがこの血を我々からふきとってくれようか? 我々はどんな水でわが身を清めることができようか? どんな贖罪の祭り、どんな聖劇を我々は発明しなければならないか? この行為の偉大さは我々には偉大すぎるのではないか? 我々がこの行為にふさわしくみえるためだけでも、我々はみずから神になる必要がありはせぬか?これよりも偉大な行為はたえてなかった―我々の後に生まれてくるほどの者は、とにかく、この行為のおかげで、これまでのあらゆる歴史より高い歴史に属することになる!」
 ここで狂った人は沈黙し、ふたたび聴衆たちを凝視した。彼らもまた沈黙し、不思議そうにこの人間を注視した。とうとう彼はカンテラを地面に投げつけたので、それは粉々に割れて消えた。そこで彼は語った。「私は早く来すぎた。いまはまだ私の時ではないのだ。このすさまじい出来事はまだ途上にあり、進行中である―それはまだ人間たちの耳にはいっていないのだ。稲妻も雷鳴も時間を要する。星辰の光は時を要する。行為は、それがなされた後でも、見られ聞かれるために、時間を要する。この行為は、人間たちにとって、もっとも遠い星よりもいぜんとしてなお遠いのだ―しかも、それにもかかわらず、彼らがこの行為をなしたのだ!」
 ―なお人びとの物語るところによれば、この狂った人は、同じ日に、いろいろな教会に侵入し、神のための永遠の鎮魂曲を歌った。外に連れだされ、詰問されると、彼はいつもただつぎのように答えたという。「これらの教会は、神の墓穴、その墓標でないとしたら、いったい、なおなんであるのか? 」

 213 幸福への道
 ひとりの賢者が、ある愚か者に、こう尋ねた―幸福への道はどちらか、と。愚か者は、最寄の町へゆく道を尋ねられた人のように、ためらいもなく、答えた、「自分自身を賛美しながら、巷間に暮らすことさ!」「待ってくれよ」、と賢者は叫んだ、「君の要求は多すぎる、自分自身を賛美するだけでもう充分だ」。愚か者は答えた、「そうはいっても、絶えず軽蔑することなしには、どうして絶えず賛美することなどできよう?」

 261 独創性
 独創性とは何か? あらゆる人の眼の前にあるものなのに未だ名を持たず、いまだ名づけられえないでいるものを、見ることがそれである。人の世の常として、およそ事物というものを人間にはじめて見えるようにするものは、名称なのだ。
 ―独創性ある人間は、おおむね、命名者でもあった。

 284 自分自身への信仰
 自分自身への信仰を持っている人間は、概して僅かしかない、―そうした僅かな人間のうちのある者たちは、有益な盲目性もしくは自分らの精神の部分的蒙昧化といったものとして、信仰を貰いうけている―(もし彼らが自分自身の心の底を覗き見ることができたら、何を認めることだろう!)。
 他の者たちは自分ではじめて信仰を獲得しなくてはならない。これらの者たちにあっては、彼らのなす善いこと、有用なこと、偉大なことの一切が、さしあたり自分らの心中に巣喰う懐疑家にむけられた論駁なのだ。問題は、この懐疑家を納得させるか説得することなのであり、それには天才を必要とするといっていいほどだ。彼らは、ひどい自己不満をもった人間なのである。

 300 科学の前奏曲
 魔術師、錬金術師、占星術師、魔女たちが、…科学の先行者となることがなかった場合でも、諸科学が発生し成長しただろうなどと、一体諸君は信じられるだろうか? いな、およそ何ごとかが認識の領域で実現されるためには、いつか実現されうるものより以上の無限に多くのことが約束されねばならないのではなかろうか? ……
 いつか遠い将来には宗教の一切合切もまた練習曲や前奏曲たる正体を明らかにするであろう。おそらく、宗教は、いつか少数の人々が神の如き完全な自己満足とその自己救済の力のすべてを享受できるようになるための、風変わりな手段であった、ということになるかもしれない。……

 318 苦痛の中の知恵
 苦痛のなかには、快楽のなかにおけると同じだけの知恵がある。苦痛は快楽と同じく、第一級の種族保持力の一つだ。苦痛がこういうものでないとしたら、それはとっくの昔に消えてなくなっていただろう。苦痛が人を痛めつけるということは、苦痛を否定する論拠となりはしない。それこそ苦痛の本質なのだ。苦痛のなかに聴きとられるものは、「帆をたため!」と叫ぶ船長の号令だ。……

 329 閑暇と怠惰
 アメリカ人が黄金を獲得しようと努めるそのやり方には、インディアン風の、インディアンの血統に特有の、凶暴さが見られる。彼らの息せき切ったあわただしい仕事ぶり―新世界につきものの悪徳―は、いちはやくも伝染して、古いヨーロッパを野蛮化し、まったく奇怪な精神喪失態をヨーロッパにおし拡げはじめている。人々は、今ではもう安息を恥とするようになった。長い時間にわたる沈思は、ほとんど良心の呵責をひきおこすほどになった。人々は株式相場新聞に眼をやりながら昼飯を食べるように、時計を手にしてものを考える、―絶えず何かを「逸しはしまいか」と懸念する者のような様子で生活する。……
 「何もしないでいるよりは、何かをした方がいい」―この原則もまた、あらゆる教養とあらゆる高級な趣味に止めを刺す準縄である。こうして、仕事に忙しい人間たちのこの慌しさのために、一切の様式が滅んでいくことは目に見えている。同様に、様式に対する感情そのものも、さまざまの動きに伴うメロディーを捉える耳と眼も失われていくのだ。
 その証拠は、人間が人間に対してともかくも誠意をもって接しようとするあらゆる場合に、…今日そのいたるところで要求される無作法なまでのあけすけさを見ればわかる。

 338 苦悩への意志と同情者たち
 何はさておいても同情深い人間であるということは、君たち自身の身のためになることであろうか? さてまた、…苦悩している人たちの身のためになることだろうか?
 ―我々は最も深刻に、最も個人的に悩んでいるものは、他人の誰にもほとんど理解されえないし、窺い知られないものである。…それなのに、我々が苦悩者だと気づかれる際は、いつも、我々の苦悩は浅薄な解釈を蒙る。他人の苦悩から、その独特に個人的な契機を剥ぎ取ってしまうのが、同情という感情の本質に属したことだ。…不幸な人たちに施される大方の慈悲には、同情深い者が運命をいじり回す知的軽率さが見られて、何となく腹立たしい気持ちになる。
 同情深い者は、にとって不幸とされているもの、内面的いきさつやもつれの全体について、何ひとつ知るところがない! …彼らは援助しようとするが、不幸の個人的必要性というものが存在することには思いつかない。のみならず私にも君にも恐怖・窮乏・零落・暗夜・冒険・離れ業・失敗などが、その反対のものと同様に必要であることに、いや、神秘的な言いあらわしをすれば、自分の極楽に至る道が、いつでも自分の地獄の歓楽を突っ切っていくものだということに、思い及ばない。
 ああ、君たち安楽で善良なる方々よ、君たちは人間の幸福について何と僅かしか知っていないことか! ―なぜかといって、幸福と不幸とは兄弟であり双生児であって、そろって大きく育ってゆくか、あるいは君たちの場合のように、そろって―小さいままでいるからである!……
 ……さもあれ私は自分に次のように告げる私の道徳を秘密にしておく気はない、―お前はお前自身を生きうるために、隠れて生きよ!お前と現代との間に、少なくとも三世紀の皮膚を張りわたせ! …お前とて人を助けようとはするだろうが、しかし、お前と苦悩を一にし希望を同じくするがゆえに、その人の憂苦をお前が残らず了知している者たちだけを、助けよ、―つまり、お前の友達だけを助けよ。それも、お前がお前自身を助けるようなやり方でだけ助けるがいい。―…私は、彼らに、こんにちごく僅かな者だけが理解して、あの同情共苦の説教家たちがほとんど理解しないものを、教えようと思う、―つまり同喜共歓をだ!

 341 最大の重し
 もしある日、またはある夜、デーモンが君のお前のあとを追い、お前のもっとも孤独な孤独のうちに忍び込み、次のように語ったらどうだろう。
 「お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛、あらゆる愉悦、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない。しかもすべてが同じ順序で―この蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。存在の永遠の砂時計はくりかえしくりかえし回転させられる。―そしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」
 ―お前は倒れ伏し、歯ぎしりして、そう語ったデーモンを呪わないだろうか? それともお前は、このデーモンにたいして、「お前は神だ、私はこれより神的なことを聞いたことは、けっしてない!」と答えるようなとほうもない瞬間を以前経験したことがあるのか。
 もしあの思想がお前を支配するようになれば、現在のお前は変化し、おそらくは粉砕されるであろう。万事につけて「お前はこのことをもう一度、または無数回におよんで、意欲するか?」と問う問いは、最大の重しとなって、お前の行為のうえにかかってくるだろう! あるいは、この最後の永遠の確認と封印以上のなにものも要求しないためには、お前はお前自身と生とにどれほど好意をよせなければならないことだろう?

 以上、ちくま学芸文庫からの抜粋です。


 管理人のコメント

 断片集なわけですが、何を言っているのか、チンプンカンプンなのが多数あり、それらは省きました。
 ここに抜粋したものは、理解できた思想というより、音楽のような刺激物として強く反応したものです。
 豊富な語彙、激越な表現の数々、大胆な比喩の数々には何度も驚かされました。
 それから、この本から学んだのは、ものを考えることを専らとする人間の生き様とでも言いたいものです。
 長期間集中して深くものを考えて過ごす場合、人間社会から少し距離をおかねばならず、非常に生活が不安定になり、とうぜん人恋しさも募るのですが、この本と作者は、「どのような態度で思索に打ち込まねばならぬのか」について、一つの手本となりました。
 "世の中には、極限の孤独の中、このくらいハイテンションで思索に打ち込んだ人がいたんだ…"というふうにです。


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