ヘンリー8世と6人の王妃

はとみね勉強中 → その他のページ → 当ページ(最終更新:2019年04月01日)

 概要

イギリス(イングランド)のヘンリー8世とその6人の王妃の関係がややこしいので、簡単にまとめた。

 人物1

■ ヘンリー8世(1491〜1547)
最初の離婚騒動から15年ほどのあいだに5人の女性をとっかえひっかえした。彼の離婚のために、イングランドの宗教改革はカトリックでもプロテスタントでもない独自の方向に進み、そのための政争も絶えなかった。結局、彼の離婚騒動からエリザベス1世の即位まで25年ほどテューダー家にはお家騒動がついて回ることになった。彼はその元凶と言える。
六人の王妃については、2人が刑死、1人が産褥熱で亡くなるなど不幸がついて回ったところがある。またキャサリンやアンなど多くの名前が重なりややこしい。

■ 1.キャサリン・オブ・アラゴン(1487〜1536)
カスティーリャ王女の妹。甥っ子がカルロス1世。時の覇権国スペインと何かと縁が強かった。
1503年にヘンリーの嫁となる。ただし前年に兄のアーサー王太子との結婚が決まっていたが、死別するという出来事があった。
1516年にメアリー(後のメアリー1世)を産む。男子が生まれなかったことで、1533年に離婚を突きつけられた。この離婚のためにイングランド国はローマ・カトリックから脱し、国王を首長とするイギリス国教会に宗教政策を変えた。
これは、彼女が国民からの人気が高く、カルロス1世との関係から教会が離婚(厳密な言い方だと婚姻の無効)を認めなかったためである。
離婚後は王太子未亡人という扱いになり、メアリーも庶子となった。

■ 2.アン・ブーリン(1501?〜1536)
4代前までは平民という家系。王妃の侍女から国王の愛人になり、1533年に結婚、その年に後のエリザベス1世を産んだ。
彼女との結婚に反対したトマス・モアは処刑された。国王が贔屓にしている以外にこれといった美貌はなかったと言われる。
義子である後のメアリー1世には徹底的に冷たくあたった。エリザベスのために本気で殺そうとしたと言われる。
キャサリン・オブ・アラゴンが亡くなった夜、ヘンリー8世と喜びのダンスを踊ったとも言われるが定かではない。
その直後に男子を流産してしまい、国王の寵愛を失った。すると政敵によって姦通罪や国王暗殺の罪を着せられ、斬首刑に処されてしまった。

■ 3.ジェーン・シーモア(1508〜1537)
アン・ブーリンとははとこの関係に当たる。前2人の王妃の侍女を務めた。1536年、アン・ブーリンの刑死の2週間後にヘンリー8世と結婚し、翌1537年に男子(後のエドワード6世)を出産した。しかし体調を崩し、その月のうちに産褥死した。
唯一成長できた男子の存在により、兄弟のエドワードとトマスは権力を握ることになる。

■ 4.アン・オブ・クレーヴズ(1515〜1557)
ドイツ西部の公爵家の出身。「イングランドにプロテスタントの王妃を」として、家臣のトマス・クロムウェルが肖像画で紹介した。しかし実際の彼女の姿は王の気に添わなかったらしく、半年で離婚した。さらに宮廷画家のハンス・ホルバインは解任され、責任者で、それまで王の意向にとことん忠実だったクロムウェルは政争に敗れて処刑されてしまう。その処刑は、次の王妃との婚姻と同日であった。
アン自身は離婚後、「王の妹」という称号を与えられ、年金をもらって穏やかに暮らしたそうである。6人の王妃のなかで最も後年まで生きたのも彼女である。

■ 5.キャサリン・ハワード(1521?〜1542)
2番目のアンや3番目のジェーンとはとこの関係に当たる。4番目のアンの侍女を務めていたとき国王に目をつけられ、1540年に結婚した。国王との年の差は30歳ほどになる。
性に奔放だったらしく、国王との結婚前に既に2人の男性と関係があったことが発覚した。すぐに政争に発展して姦通罪で処刑された。重用された秘書官F.デレハム、王のお気に入りだった27歳の廷臣T.カルペパー、カルペパーとの仲立ちを助けたとしてジェーン・ブーリン(2番目のアンの妹)が処刑された。

■ 6.キャサリン・パー(1512〜1548)
16歳、21歳のときに結婚したが、そのたびに夫を病で失ってきた。1543年に6人目の王妃となった。その時まで3番目のジェーンの弟トマスと交際していたという。
かなりの読書家で教養が高く、人格者としての行動が数多く残っている。
・庶子扱いになっていたメアリーとエリザベスの2人の娘を正式な王位継承者に戻した。カトリックのメアリーとは教義の違いを超えて親しかった。
・まだ幼かったエドワードとエリザベスの教育係を務めた。
・健康を害していた王の看病を率先して務めた。
などなど妻として母として王妃としての仕事をソツなくこなし、ヘンリー8世の家庭は晩年になってようやく落ち着きを見せた。
一度だけ神学の勉強が行きすぎて、侍女が火刑に処されるほど異端者としての強い疑いをかけられたことがある。この時は王の一喝によって救われた。
1547年にヘンリー8世が亡くなると、彼女は驚きの行動を見せた。エドワード6世の戴冠式を見届けたあと、宮廷を出てかつての恋人であるトマス・シーモアと再婚したのである。
このとき義理の娘エリザベスも一家に引き取った。しかしキャサリンの妊娠中にトマスは14歳のエリザベスと親しくし始め、エリザベスは家を追い出されることになった。テューダー家の性的なお家騒動のオマケと言える。
その後キャサリンは高齢出産でメアリーという娘を産んだが、産褥死してしまった。メアリーも幼くして亡くなったという。

 人物2

■ エドワード6世(1537〜1553)
王子のために6回も結婚したヘンリー8世の子供のなかで、唯一生き延びた男子。しかし先天性の梅毒のため幼いころより病弱であった。
治世は6年ほどのあいだになる。その間にイングランド国教会の脱カトリック化がやや進んだ。伯父・叔父であるシーモア兄弟が台頭し、権力闘争に発展した。マーク・トウェインの著作『王と乞食』の主役となった。日記が残っていて、現存する英語の日記として最古のものとされる。

■ シーモア兄弟
3番目のジェーンの兄弟で、兄エドワード(1506〜1552)、弟トマス(1508〜1549)の2人。トマスは6番目のキャサリンの夫となった。彼女の死後、遺産を相続してイングランドでも有数の権力者となった。幼いエドワード6世の下、この兄弟間で権力闘争が起きて、1549年にトマスが刑死した。兄の方も弟との争いによって隙が生まれ、ジョン・ダドリーの台頭を許し、1552年に大逆罪で処刑された。

■ ノーサンバーランド公ジョン・ダドリー(1502〜1553)
E.シーモアを失脚させた人物。彼はエドワード6世の健康が優れず、死期が近いことを悟ると、己の権力固めに奔走した。
王と遠縁の親戚にあたるジェーン・グレイと自身の息子ギルフォードを結婚させ、亡くなる直前のエドワード6世に、ジェーンを後継者とする遺言を無理やり取りつけた。エドワード6世がプロテスタントに熱心で、カトリックを強く信仰するメアリーの即位に躊躇いがあったと言われる。
しかし危機を察したメアリーは城外に逃亡し、国民の広い支持を集めて挙兵した。ダドリーは捕まり、処刑された。

■ ジェーン・グレイ(1537〜1554)
エドワード6世の遠縁の親戚。ジョン・ダドリーの策略によって息子のギルフォード・ダドリーと結婚し、エドワード6世の後を継いでイングランド王に即位した。しかし9日間でメアリー1世に捕えられた。
メアリー1世とも親戚にあたるため、当初は処刑を免れていた。しかしワイアットの乱が起きたことで、メアリーを脅かす存在である彼女は、父や夫と共に処刑された。満16歳の短い生涯であった。
ロンドン塔の監獄の壁には、夫ギルフォードが彼女を思って刻んだ「IANE」という文字が残っている。

■ メアリー1世(1516〜1558)
カルロス1世は16歳年上のいとこになる。ヘンリー8世の心変わりのたびに庶子扱いになったり王位継承権を取り戻したりと身分が不安定であった。
1553年、ジェーン・グレイの即位を阻止してイングランドの女王となった。母譲りのスペインおよびカトリック気質のため、イングランドは一時的にカトリックの文化に戻った。父以来の宗教政策を覆したのである。プロテスタント系への弾圧は厳しく、「Bloody Mary」と呼ばれる。
いとこの息子であるフェリペ2世(11歳年下)と政略結婚したが、子は授からなかった。フェリペ2世は数ヶ月だけ宮廷に滞在した。やがて健康を害し、即位5年で亡くなった。

■ エリザベス1世(1533〜1603)
メアリー1世の後を継いでイングランド王に即位した。在位は44年にも及ぶ。彼女の安定した統治の下、イングランドの社会は後の大英帝国の礎を築いた。
考えてみると、生涯において一度も家庭というものに恵まれていない。生まれてすぐ母は姦通罪で処刑され、彼女は庶子とされた。メアリー1世の統治時代、プロテスタントの彼女は1年ほど幽閉されたことがある。即位までに一体どのようにして人生や帝王学(王としての統治の知恵)を学んだのか、不思議なところがある。


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