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  F1今昔物語 1995年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 これまでの年16戦から一戦増え、年17戦で争われた。また1月17日の阪神淡路大震災の影響で、4月に予定されていたパシフィックGPが延期された。
 エンジンの排気量が3.5リッターから3リッターに引き下げられた。ステップボトムの導入によって、ダウンフォースが減った。この動きに合わせて、各チームが様々なアイデアに挑戦した。
 ベネトンが最速のルノーエンジンを獲得し、両タイトルの奪取を狙う。ウィリアムズがハイノーズ化に踏み切った。フェラーリの12気筒エンジンはこの年が最後である。ホンダが撤退した後、12気筒エンジンと言えば唯一フェラーリのみであったが、来年から10気筒に移行する。
 マクラーレンは前年のプジョーエンジンから、メルセデスエンジンにスイッチした。ホンダ撤退以降、1年ごとにエンジンを変えて迷走ぎみである。リアウイングの手前にセンターウイングというものを持ってきたが、不格好ということで後々まで語り継がれるマシンになった。ドライバーには意外にもN.マンセルを起用した。
 他にもミナルディのウィングロッドなどの空力付加物が登場し、ティレルがハイドロリンクサスを用いたりした。また、ミナルディは無限エンジンを搭載する予定だったが、開幕間近というときにリジェに奪われてしまい、訴訟沙汰になった。
 ベネトンとリジェのマシンに周囲は驚いた。モノコック、ギアボックス、フロントノーズ、まったく一緒の一卵性双生児マシンだったのである。2戦目からリアの一部の形状をリジェが変えてきたが、モナコからそこもまた全く一緒になった。
 イタリア人のグイード・フォルティが率いるチーム、フォルティが参戦してきた。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ベネトン B195 ルノー(V10) 1、ミハエル・シューマッハ
2、ジョニー・ハーバート
残留
ロータス他
GY
ティレル 023 ヤマハ(V10) 3、片山右京他
4、ミカ・サロ
残留
新人
GY
ウィリアムズ FW17、FW17B ルノー(V10) 5、デイモン・ヒル
6、デイビッド・クルサード
残留
ウィリアムズ
GY
マクラーレン MP4/10 メルセデス(V10) 7、マーク・ブランデル他
8、ミカ・ハッキネン他
ティレル
残留
GY
フットワーク FA16 ハート(V8) 9、ジャンニ・モルビデリ他
10、井上隆千穂
残留
新人
GY
シムテック S951 フォードED(V8) 11、ドメニコ・スキャッタレーラ
12、ヨス・フェルスタッペン
新人
ベネトン
GY
ジョーダン 195 プジョー(V10) 14、ルーベンス・バリチェロ
15、エディー・アーバイン
残留
残留
GY
パシフィック PR02 フォードED(V8) 16、ベルトラン・ガショー他
17、アンドレア・モンテルミニ
残留
新人
GY
フォルティ-コルセ FG01 フォードED(V8) 21、ペドロ・ディニス
22、ロベルト・モレノ
新人
復帰
GY
ミナルディ M195 フォードED(V8) 23、ピエルルイジ・マルティニ
23、ペドロ・ラミー
24、ルカ・バドエル
残留
ロータス
復帰
GY
リジェ JS41 無限(V10) 25、マーティン・ブランドル
25、鈴木亜久里
26、オリビエ・パニス
マクラーレン
復帰
残留
GY
フェラーリ 412T2 フェラーリ(V12) 27、ジャン・アレジ
28、ゲルハルト・ベルガー
残留
残留
GY
ザウバー C14 フォード・ゼテックR(V8) 29、カール・ベンドリンガー
29、ジャン-クリストフ・ブイヨン
30、ハインツ-ハラルト・フレンツェン
残留
新人
残留
GY

 ■ 3月26日 第1戦 ブラジル
 マクラーレンのマンセルは、シートが小さすぎると文句を言って、いきなり初戦を欠場した。マーク・ブランデルが代走することになった。
 PPはD.ヒル。スタートでM.シューマッハが前に出た。コースを漂う風船を吸い込んだような場面があったが、何の問題もなかった模様である。
 D.ヒルがタイヤ交換の隙にM.シューマッハを追い抜いた。しかし31周目、ギアボックスのトラブルからスピンを演じ、リタイヤとなった。ティレルの新人M.サロは驚きの3位走行、しかしこちらもスピン! コースに戻ることはできたが、この影響で惜しくも7位でレースを終えた。
 クルサードが先頭で2回目のピット作業に差し掛かった。ベネトンはウィリアムズより3秒速い作業でM.シューマッハを送り出し、先頭の座を再度奪い返した。なお、この頃はジャッキによる上げ方が今よりもずっと高く、給油後にマシンが「ズドン!」と落ちてからスタートする様に迫力がある。
 レースはそのままM.シューマッハの勝利で終わった。しかし一悶着が発生した。スタート前の抜きうち検査によって、M.シューマッハとクルサードのマシンの燃料に違法成分が含まれていたことが発覚し、レース後に二人は失格となった。後に、コンストラクターズ・ポイントのみ剥奪という結果に変わった。

 ■ 4月9日 第2戦 アルゼンチン
 フォークランド紛争で途絶えて以来、アルゼンチンで14年ぶりのF1開催となった。以前とはレイアウトが大きく変わっている。
 クルサードが初のPPの座へ。スタート後1コーナーで多重クラッシュが発生し、やり直しとなった。2回目のスタートでは、アーバインの追突によりハッキネンのタイヤがいきなりバーストした。
 7周目、クルサードは一瞬のエンジントラブルに襲われ、3位に後退した。その後、M.シューマッハとD.ヒル、クルサードの接近戦になった。11周目、D.ヒルがM.シューマッハをオーバーテイクした。クルサードもこれに続いたが、17周目にスロットルの不調でリタイヤとなった。
 タイヤ交換でアレジが2位に浮上した。最初の多重クラッシュの被害者であり、スペアカーに乗っているが、調子が良い。最後、D.ヒルとの差を詰めたものの、6秒差でD.ヒルが勝った。

 ■ 4月30日 第3戦 サンマリノ
 あの悲しい週末から一年が経った。タンブレロとトサは共にシケインに変わった。
 雨模様でレースが始まった。10周目、路面が乾いてきてM.シューマッハはスリックタイヤに変えた。その直後に派手なスピンでリタイヤを喫した。珍しく本人がミスを認めたリタイヤである。
 先頭はベルガーに変わった。しかし22周目のピットインでエンジンストールに見舞われ、D.ヒルが勝利をものにした。
 マンセルがマクラーレンを駆って出走した。しかし何も彼らしいところを見せることがなく、9位で完走した。

 ■ 5月14日 第4戦 スペイン
 ハーバートがジャッキをつけたままピットアウトする場面があった。
 最終ラップで、D.ヒルが油圧系のトラブルにより2位から4位へ後退した。
 再びマンセルがマクラーレンを駆った。しかし何も彼らしいところを見せることがなく、序盤にリタイヤを喫した。これで彼のF1のキャリアは幕を閉じるのであった。
 レースはベネトン勢の圧勝で、M.シューマッハは通算12勝目をあげた。当時の現役ドライバーの中でトップに立ち、以後、誰の追随も許さぬ領域に突っ走っていく。

 ■ 5月28日 第5戦 モナコ
 フリー走行中、フットワークの井上隆智穂のマシンがオフィシャルカーの衝突を受け、ひっくり返るというハプニングが起きた。
 スタートでアレジとD.ヒルの接触から多重事故が発生し、赤旗中断となった。
 資金難ながら細々と活動を続けてきたシムテックが、本戦を以て撤退の決断を下した。

 ■ 6月11日 第6戦 カナダ
 午前中の雨で路面が濡れていて、多くのマシンがスピンによってリタイヤした。
 後半になってD.ヒルがギアボックストラブルで、ベルガーもアクシデントでリタイヤした。M.シューマッハの圧勝かと思われたが、彼にもギヤが3速に入りっぱなしになるというトラブルが発生し、後退していった。
 代わりに先頭に立ったのがジャン・アレジ。遂に初優勝のときがやって来た。レース前に日本の有名タレント、ゴクミとの婚約発表があったり、決勝日が本人の誕生日だったりで、大騒ぎとなった。さらに、ここはG.ヴィルヌーブの地元である。カナダでフェラーリの27番をつけたマシンが勝つ、特にアレジが見せるような暴れ回るように動く27番が勝つことは特別な意味を持つ。こうして最終周回中に観客がコースになだれ込み、1周少ない段階でレース終了となった。
 結果的にこの年のルノーエンジン以外の唯一の勝利である。ジョーダン勢が2位3位に入り、表彰台では肩を並べて喜んだ。

 ■ 7月2日 第7戦 フランス
 D.ヒルは2回ストップ、M.シューマッハは1回ストップと作戦が分かれた。速さでは上回るD.ヒルは、中盤になって先頭の座を奪われてしまった。ベネトンとM.シューマッハがまたもやピット戦略での格の違いを見せつけたのであった。
 レース後、D.ヒルがブレーキテストを行ったと、M.シューマッハが非難した。

 ■ 7月16日 第8戦 イギリス
 前GPのブレーキテスト事件を発端に、D.ヒルとM.シューマッハがマスコミを通じて舌戦を繰り広げた。
 レースでは再び両者が異なるピット戦略を採り、D.ヒルが2回ストップしている間に、1ストップのM.シューマッハが先頭に立った。
 45周目、D.ヒルがM.シューマッハのインに強引に突っ込んで接触、両者リタイヤとなった。ますます因縁が深まる結果である。
 優勝争いはハーバートとクルサードの一騎打ちに移った。どちらが勝っても初優勝の争いである。しかしクルサードはピットレーン速度違反を犯して、10秒ストップペナルティを食らってしまい、あっけなく決着がついた。ハーバートが71戦目の初優勝を遂げた。

 ■ 7月30日 第9戦 ドイツ
 D.ヒルが2周目1コーナーでスピンしてひとりでにコースアウトしていった。作戦面の不備や自身のミスなどにより、M.シューマッハとのポイント差が開いていく一方のシーズン中盤であった。
 J-C.ブイヨンが初入賞を果たした。

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 ■ 8月13日 第10戦 ハンガリー
 レース前の紙上が賑やかであった。M.シューマッハの入籍、そして何よりもフェラーリへの加入(アレジが離脱)によって世間は大騒ぎになった。
 レースはPPのD.ヒル、クルサード、M.シューマッハの順で周回が進んだ。14周目、エンジントラブルでリタイヤし、自ら消化中の井上隆智穂がレスキューカーに軽く跳ねられるというハプニングが発生した。
 1回目のピットインでM.シューマッハの給油器が故障し、もう一周してハーバートのものを使った。
 今回ばかりは、D.ヒル安心の独走勝利であった。スポット参戦の鈴木亜久里が6位入賞を果たした。

 ■ 8月27日 第11戦 ベルギー
 予選でフェラーリがワンツー体制を築いた。今季の予選は、上位3人をD.ヒルとクルサードとM.シューマッハが占めること12回を数えた。ルノーエンジンがPPを逃したのは本戦のみとなる。3位ハッキネン、4位ハーバートといつも異なる名前が連なった。M.シューマッハは雨に翻弄されて16番手に沈んでいる。
 注目のレーススタート。ハッキネンは1周目でスピンしてリタイヤを喫した。1周目はハーバートが先頭で折り返す。アレジがこれを抜くものの、すぐにリアサスペンションを痛めてリタイヤとなった。数周後、ウィリアムズの2台がハーバートを抜いた。シューマッハは徐々に順位を上げていく。
 14周目、クルサードが油圧系の故障でリタイヤし、先頭はD.ヒルに変わった。20周目ごろに雨が降り出し、D.ヒルはレインタイヤに交換した。M.シューマッハはスリックタイヤのまま先頭を走る。22周目、アーバインがピットで火災を起こしてリタイヤした。慌てて消火するジョーダンのクルーが危うく他のマシンに轢かれそうになった。23周目、タイトル争いの二人が激しく先頭を争った。また、ベルガーがトラブルでリタイアした。
 24周目、D.ヒルは何とか先頭に立ったが、雨は通り雨でレインタイヤは役に立たなくなった。すぐさまスリックに交換する。
 28周目頃、また雨が降ってきた。セーフティーカーが出動した。4位走行中の片山右京がスピンしてリタイヤを喫した。32周目に本来のレースが再開され、差が詰まった二人がいざ決戦かと思われたが、D.ヒルに対してピットロードスピード違反の10秒ストップペナルティが科せられた。これで先頭を争うどころか、3位に後退までしてしまった。
 レースは結局このままM.シューマッハの優勝で終わった。彼の数多い勝利の中で、最も下位からスタートしてもぎ取った一勝である。しかし、D.ヒルとのバトルの際、無理なブロックがあったとして、執行猶予付きの出場停止処分が下った。D.ヒルは最終ラップにブランドルを抜いて2位でレースを終えた。それでもブランドルは無限エンジンに初の表彰台をもたらした。

 ■ 9月10日 第12戦 イタリア
 アレジに続き、ベルガーもベネトン移籍が決定した。
 PPのクルサードがフォーメーション・ラップでスピンする失態を演じてしまった。スタート直後、多重クラッシュの発生によって赤旗中断再スタートとなった。
 24周目、周回遅れを抜くため減速したM.シューマッハにD.ヒルが追突し、ともにリタイヤとなった。さすがのM.シューマッハもこれには怒った。D.ヒルには執行猶予つきの出場停止の処分が下った。
 その後アレジ、ベルガーのフェラーリ勢がワンツー体制を築いた。しかし今回もフェラーリを悪夢が襲う。33周目、アレジの車載カメラがはずれ、ベルガーのサスペンションに激突し、まずベルガーがリタイア。アレジも残り7周というところでホイールの故障でリタイヤを喫した。荒れたレースを制したのはハーバートであった。
 ハッキネンが2位表彰台、ブランデルも4位で続いて、マクラーレンはコンストラクターズで4位に浮上した。フレンツェンは初の表彰台、5位のミカ・サロも初の入賞である。

 ■ 9月24日 第13戦 ポルトガル
 ジャック・ヴィルヌーブの翌年のウィリアムズ入りが決定した。
 スタートで片山右京がバドエルに接触し、宙を舞って回転しながら壁に激突、なおもパーツをまき散らしながら回転を続けた。マシンは木端微塵で、ドライバーは意識不明に陥ったものの、大事には至らなかった。
 レースは赤旗中断後、再スタートがきられ、クルサード、M.シューマッハ、D.ヒルの順になった。パニスがスタートフライングで10秒ペナルティを科せられた。さらに直後にスピンでリタイヤした。D.ヒルは2ストップ作戦で、M.シューマッハとクルサードは3回ストップ作戦を採った。
 この結果、クルサード、D.ヒル、M.シューマッハの順で終盤を迎えた。62周目、M.シューマッハがS字コーナーへの飛び込み時に鋭くD.ヒルのインを突いた。2位浮上でまたもやポイント差が開いた。クルサードは独走のまま初優勝を遂げた。
 ちなみに、ハイテンションな実況で有名な鈴木アナウンサーがデビューしたのがこのレースである。レースの最後の方では喉がつぶれているほど元気な実況であった。

 ■ 10月1日 第14戦 ヨーロッパ
 ニュルブルクリンクで1985年以来のF1レースとなる。M.シューマッハ人気によってドイツで1シーズンに2回のF1が催されるのである。以後2007年まで、GP名が変わることもあったが開催が続いた。
 レース前まで雨が降っていて、路面が濡れた状態でレースが始まった。このところD.ヒルを上回る速さを見せるクルサードがトップ、以下M.シューマッハ、D.ヒルと続いた。路面が乾いてきてタイヤ交換が始まった。ここで先頭に立ったのがアレジであった。皆がレインタイヤでスタートする中、一人スリックタイヤを選んでいたのである。2位以下を引き離して独走態勢を築いた。
 2回目のタイヤ交換によってD.ヒルが抜け出し、アレジに接近していった。40周目、D.ヒルがアレジのインを刺し、接触した。D.ヒルはフロントウィングを壊してピットインする羽目に陥った。最後はスピンでレースを終える。
 一方のM.シューマッハは違った。残り10周あたりからファステストラップを連発してアレジを追う。勝利に対する飽くなき執念によって、20秒もあった差がどんどん詰まっていった。アレジにもコースアウトする場面があり、いよいよ接近戦となった。
 65周目、M.シューマッハがシケインでアレジをアウトから抜きさった。なんという執念だろう! こうして残り3戦でポイント差は27となり、ドライバーズタイトルはほぼ確定した。

 ■ 10月22日 第15戦 パシフィック
 4月予定が震災のため延期となった。次戦の鈴鹿と合わせて、初の同国2週連続シリーズとなった。
 ハッキネンが盲腸で欠場した。クルサードはここでもPPを奪い、結局4連続PPを成し遂げた。
 クルサードはスタートを上手く決める。D.ヒルとM.シューマッハがにらみ合う隙にフェラーリの2台が彼らの間に割って入った。しかしM.シューマッハはすぐにベルガーから4位の座を奪った。以後、クルサードが独走し、アレジ、D.ヒル、M.シューマッハの団子が続いた。
 19周目、ウィリアムズがD.ヒルのタイヤ交換の準備を始めた。これを見てベネトンクルーも急いで準備に取り掛かった。アレジもタイヤ交換の動きを見せ、2位争い3台の同時ピットインとなった。これを制したのはやはりM.シューマッハであった。
 クルサードは2回ストップ作戦、M.シューマッハは3回ストップである。クルサードはM.シューマッハ最後のピットアウトのとき、周回遅れに捕まってしまった。これでM.シューマッハが先頭に躍り出た。こうして年間チャンピオンをレースの勝利で決めた。

 ■ 10月29日 第16戦 日本
 予選で亜久里が大クラッシュを起こし、ろっ骨を骨折した。レース欠場となり、そのままF1のキャリアを終えた。
 レースは雨でレインタイヤ装着でレースが始まった。スタートでアレジがフライングを起こし、10秒ペナルティを科せられた。アレジはどうせ後退するならと早めのスリックタイヤ交換を敢行し、追い上げに転じた。シケインでヒルをアウトからパス、周回遅れ処理のときに360度スピンを演じるなど、大暴れの活躍を見せた。更に先頭M.シューマッハとの差を詰める。だが25周目にエンジントラブルでリタイアに終わった。
 D.ヒルとクルサードが、40周目前後に相次いでスプーンコーナーでコースアウト、リタイアした。ウィリアムズ勢全滅で、コンストラクターズ争いもベネトンに軍配が上がった。
 M.シューマッハはシーズン終盤という大事な局面で3連勝を成し遂げた。強い。M.ハッキネンは盲腸手術から1週間というキツい日程ながら、自己最高の2位表彰台に立った。

 ■ 11月12日 第17戦 オーストラリア
 予選初日、ハッキネンが、"その後の死生観までも変わった"という大事故に遭った。マシンバリアに突っ込み、舌を噛み切ってしまった。意識不明のままレースを欠場することになった。
 スタート後、クルサード、D.ヒル、ベルガー、アレジ、M.シューマッハの順になった。
 20周目、堂々と先頭を走るクルサードがタイヤ交換の際、ピットレーンで壁に激突してリタイアする、という失態を演じた。
 23周目、アレジとM.シューマッハと接触して、両者リタイアとなった。35周目、ベルガーもリタイヤ。先頭のD.ヒルだけ安泰で、他の有力ドライバーがバタバタとリタイヤしていく。
 今さらの感があるものの、D.ヒルが後続を2周も離して優勝した。パニスが自己最高の2位へ、モルビデリが唯一の3位表彰台に立った。ペドロ・ラミーが唯一の入賞を遂げた。
 D.ヒルの友人であるジョージ・ハリスンが本戦を観戦していたという。親友が優勝して上機嫌だったのか、「ビートルズ・アンソロジー」の発売を公に漏らしてしまったらしい。D.ヒルは、若いころパンクバンドもやっていた。そのせいかミュージシャンの知り合いが多く、ポルトガルGPではミック・ジャガーが応援に来たりもした。

 ■ シーズン後
 この年、F-M.ファンジオが84歳で他界した。'95年の時点で鬼籍に入っているチャンピオン達を挙げてみると、G.ファリーナが引退後に交通事故死、A.アスカリが謎の事故死、M.ホーソーンが引退直後に交通事故死、J.クラークがF2レースで事故死、D.ハルムがレース中に心臓発作、J.リントがチャンピオン決定前に事故死、G.ヒルが飛行機事故死、J.ハントが心臓発作で孤独死、A.セナがレース中に事故死と、天寿を全うしていない死が続くことに驚かされる。
 '80年代以降、F1に参戦するチームはレースで一勝することすら希である。'95年の時点ではベネトン1チームのみである。そんな中でコンストラクターズ・タイトルまでものにしてしまうとは、驚きである。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ナイジェル・マンセル Nigel Mansell
 F1へのステップアップに際して家を売るほどの苦労を積んできた。レースでの活躍はこれまで書き記してきた通りである。他にも橋げたに頭をぶつけたりトロフィーで指を切ったりキルスイッチを押してしまったり黒旗が見えなかったりと、トホホな想い出もいっぱい残してきた。引退会見もない寂しい去り方も含め、実に"人間らしい"ドライバーだったと言える。日本でももちろん大人気であり、「マンちゃん」「荒法師」などと呼ばれた。空手の有段者であり、引退後、自宅に押し入った強盗を撃退したこともある。2005〜2006年にかけて行われたグランプリマスターズにおいて2勝した。
生年月日 1953年8月8日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1980ロータス-2
1981ロータス1413
1982ロータス1413
1983ロータス12115
1984ロータス9116
1985ウィリアムズ621115
1986ウィリアムズ252416
1987ウィリアムズ268314
1988ウィリアムズ9114
1989フェラーリ42315
1990フェラーリ513316
1991ウィリアムズ252616
1992ウィリアムズ覇者914816
1994ウィリアムズ9114
1995マクラーレン-2
313230187

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