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  F1今昔物語 1994年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 この年、F1マシンは大きく変わった。ここ数年、開発の争いが激しかったハイテクの使用を禁止したのである。アクティブ・サスペンション、ラウンチ・コントロール、トラクション・コントロール・システムなど、ドライバーの運転とマシンの走行を電子制御するような技術のことごとくがマシンから取り除かれた。また、レース中の給油が再び行われるようになった。チームには、レース運びでも作戦・戦略を立てて戦うことが求められた。
 ベネトンは、フォードの最新型V8ゼテックRという優れたエンジンを手にいれ、開幕前のテストで絶好調であった。ウィリアムズはハイテク禁止の影響を最も受けると考えられた。しかし乗っているのはA.セナである。全く心配ないのかもしれない。そのセナの抜けたマクラーレンは、プジョーエンジン搭載に決まった。フェラーリだって何時までも勝てないままとはいかない筈…。このように開幕前のファンの予想は混沌としていた、に違いない。 ベネトンとウィリアムズはそれぞれ、マイルドセブンカラー、ロスマンズカラーへとカラーリングも変わった。
 パシフィックとシムテックというチームが新規参入してきた。
 昨年のことになるが、リジェの新オーナーが横領容疑で逮捕された。リジェは今期フラビオ・ブリアトーレに買収され、ベネトンの2軍という色合を濃くしていく。
 また、チーム・フットワークは、体制が実質的に以前のアロウズに戻った。スポンサーのフットワークが手を引いたのである。だがコンストラクター名を変更すると色々損することが生じるため、コンストラクター名のみフットワークのままである。このややこしい名乗り方は'96年まで続く。
 開幕前のテストでベネトンのJ-J.レートがクラッシュで重傷を負い、最初の2戦を欠場することになった。
チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ウィリアムズ FW16、FW16B ルノー(V10) 0、デイモン・ヒル
2、アイルトン・セナ他
残留
マクラーレン
GY
ティレル 022 ヤマハ(V10) 3、片山右京
4、マーク・ブランデル
残留
リジェ
GY
ベネトン B194 フォード・ゼテックR(V8) 5、ミハエル・シューマッハ
6、ヨス・フェルスタッペン他
残留
新人
GY
マクラーレン MP4/9 プジョー(V10) 7、ミカ・ハッキネン
8、マーティン・ブランドル
残留
リジェ
GY
フットワーク FA15 フォードHB(V8) 9、クリスチャン・フィッティパルディ
10、ジャンニ・モルビデリ
ミナルディ
復帰
GY
ロータス 107C、109 無限(V10) 11、アレッサンドロ・ザナルディ他
12、ジョニー・ハーバート他
残留
残留
GY
ジョーダン 194 ハート(V10) 14、ルーベンス・バリチェロ
15、エディー・アーバイン他
残留
新人
GY
ラルース LH94 フォードHB(V8) 19、オリビエ・ベレッタ他
20、エリック・コマス他
新人
残留
GY
ミナルディ M193B フォードHB(V8) 23、ピエルルイジ・マルティニ
24、ミケーレ・アルボレート
残留
スクーデリア・イタリア-ローラ
GY
リジェ JS39B ルノー(V10) 25、エリック・ベルナール他
26、オリビエ・パニス
復帰
新人
GY
フェラーリ 412T1、412T1B フェラーリ(V12) 27、ジャン・アレジ他
28、ゲルハルト・ベルガー
残留
残留
GY
ザウバー C13 イルモア(V10) 29、カール・ベンドリンガー他
30、ハインツ-ハラルト・フレンツェン
残留
新人
GY
シムテック S941 フォードHB(V8) 31、デイビッド・ブラバム
32、ローランド・ラッツェンバーガー他
復帰
新人
GY
パシフィック PR01 イルモア(V10) 33、ポール・ベルモンド
34、ベルトラン・ガショー
復帰
復帰
GY


 ■ 3月27日 第1戦 ブラジル
 予選でザウバーの新人、H-H.フレンツェンが5位につけた。ザウバーの二人とM.シューマッハは、かつてメルセデスの若手育成プロジェクトで共に腕を磨き合った仲であった。M.シューマッハは、フレンツェンの予選順位について、「彼ならもっと上にくると思った」とコメントを残した。フットワークのG.モルビデリも6位につけた。
 レースはPPのセナが先行し、M.シューマッハが追いかける展開になった。21周目に両者は同時にピットインし、M.シューマッハがあっという間の給油でセナの前に立った。
 34周目、アーバインとフェルスタッペンが絡む大クラッシュが起きた。巻き添えでM.ブランドルもリタイヤした。アーバインはこのアクシデントの責任を取ることになり、以後2戦を欠場する。
 レース後半の給油でも、M.シューマッハとセナの順位は変わらなかった。セナは差を詰める場面もあったが、56周目にスピンを喫し、リタイヤとなった。結局、M.シューマッハが2位以下を周回遅れにして開幕戦を制した。片山右京が初入賞を果たした。
 レース後、暴れ者のイメージがすっかり定着したアーバインが、ウィリアムズのマシンについて語った。「ウィリアムズの動きは異常だ。まるでバウンドしているボールみたいだった。相当リスクを負った走りをしている。遅かれ早かれデカイのやるぞ」。 ウィリアムズのマシンはハイテクを失った代わりに空力バランスを追及していて、その結果、非常に挙動不安定なマシンに仕上がっていたようだった。

 ■ 4月17日 第2戦 パシフィック
 ☆TIサーキット英田…バブル時代の1990年に岡山県の山の中に開設された。3.7kmという短距離多周回サーキットである。当初は、1500万円もする入会金が必要な会員制を敷いた。1994年と1995年にパシフィックGPとしてF1が開催された。その際、シャトルバスで観客をピストン輸送する方法が採られた。その後2003年に倒産した。今は経営母体が変わり、「岡山国際サーキット」として用いられている。

 J.アレジがテスト中に事故に遭い、N.ラリーニが代役で出場した。また、アーバインの代役として浪人中の鈴木亜久里にも出番がやってきた。
 フォーメーションラップでペースカーの先導が遅かったと言われる。その影響からか、セナがスタートで遅れ、1コーナーでM.ハッキネンに押し出されてしまった。ここにラリーニも突っ込んできて、両者リタイヤとなった。
 M.シューマッハが労せずして連勝した。バリチェロが自身とジョーダンに初の表彰台をもたらした。フレンツェンも初入賞を果たした。
 桜舞い散る中、セナは開幕2戦でノーポイント、これはデビュー以来初の事態であった。

 ■ 5月1日 第3戦 サンマリノ
 史上有名な暗黒の週末。
 金曜フリー走行において、若手のバリチェロが縁石で跳ね上がり、スピードを失わぬままバリアに激突、マシンはノーズから地面に落ち2、3転した。彼は鼻骨を骨折して以後を欠場した。
 土曜日予選、シムテックのR.ラッツェンバーガーが事故死した。突然のフロントウイングの脱落によって、ヴィルヌーヴ・コーナーからトサ・コーナーにかけて激しいクラッシュが起きた。モノコックだけになって地面を滑るマシンのなかで、彼のヘルメットがラムネ瓶のガラス玉のように力なく回った。即死であったと思われる。F1のレースイベントとしては12年ぶりの惨事であった。
 日曜日の決勝スタート直後、J-J.レートにP.ラミーが追突し、パーツが観客席にまで飛び散った。8人の負傷者が出た。
 セーフティーカーが出動して5周ほど安全走行が続いた。そして、再スタート後のタンブレロ・コーナーにて、セナが大クラッシュに遭った。「まさか! まさか! アイルトン・セナにもイモラは牙を剥きました!」という実況の叫びが戦慄をそそる。レースは赤旗中断になり、セナの周りにたくさんの救護の人が集まった。セナの足が真っ直ぐ横たわっている。開胸手術による血の跡も映し出された。応急措置がとられたあと、彼はヘリコプターで病院に運ばれた。この事故は、ステアリングの故障から操作不能になったことが原因と言われる。高速コーナーを直進してウォールにほぼ正面から激突したとき、サスペンションが頭部に致命傷を与えたのであった。
 日本ではレースの録画放送中に訃報が届いた。前番組で既に事故のことは報じられていて、「ピポパ…」という速報の音で全てを悟ったファンが多かっただろう。その後、生中継の画面に切り替わり、実況の三宅氏とリポーターの川井氏が詳細を述べた。解説の今宮氏は泣きながらコメントを述べた。連休中ということもあり、深夜まで起きて、凍りついた心境の眠れぬ夜になった人も多い。
 話しはレースに戻る。再開後ベルガーが先頭を走った。しかし14周目にレースを棄権した。後輩を失い親友が危機に瀕している精神的動揺からであろう。片山右京が一時2位を走行した。惨事はまだ続き、44周目、アルボレートのピットアウト時にホイールが脱落、フェラーリのピットクルー4人が負傷した。
 終盤はM.シューマッハが危なげなく走り、3連勝を遂げた。表彰台で勝者に笑顔はなかった。シャンパンファイトも行なわれなかった。
 2位のN.ラリーニは、2008年現在、フェラーリ最後のイタリア人による表彰台である。また54戦目の初入賞で最遅の記録になっている。フェラーリは3戦連続で異なるドライバーが表彰台に立ったが、これは2台エントリーの時代では珍しい事態と言える。
 レース前、テレビを通じてセナはプロストに、「元気かい? 君がいなくて寂しい」と言葉を送っていた。大きな喪失感がF1界を襲った。5月5日のセナの葬儀には多数のF1関係者が参列した。プロストが棺を担ぐ一員に加わった。国民は50万人も集まった。視聴率も60%になった。
 5月7日にはラッツェンバーガーの葬儀が行われた。こちらにはFIA会長のM.モズレーが参列した。ラッツェンバーガーは、'90年に来日して以後、日本を足掛かりとしてキャリアアップを遂げていた。そのため、日本には彼のファンが多く、彼もまた日本を愛していたという。

 ■ 5月15日 第4戦 モナコ
 ベルガーが記者会見を行ない、引退の噂を一蹴した。ドライバーの組合であるGPDAが12年ぶりに組まれた。FIAも安全対策を始めた。モナコではまずピットレーンの速度制限が設けられた。
 しかしフリー走行でザウバーのK.ベンドリンガーが意識不明になるほどの大クラッシュに遭った。ザウバーは決勝を辞退した。
 "名人"のいないモナコ、、、M.シューマッハが初のPPを決めた。決勝スタートでは、フロントローにブラジルとオーストリアの国旗が飾られ、スタート前にドライバーたちは黙祷した。
 予選2位のハッキネンがスタート1コーナーでD.ヒルのリアに衝突し、両者リタイヤとなった。M.シューマッハが独走で4連勝を遂げた。
 ベンドリンガーの意識が戻ったのは数日後であった。彼は、以後のシーズンを欠場する。のちにF1復帰もあったのだが、往年の走りを失っており、事実上の選手生命を終えてしまったと言える。

 ■ 5月29日 第5戦 スペイン
 まだ事故は続く。ロータスのP.ラミーがテスト中に大クラッシュに遭い、以後のシーズンを欠場した。セナの代役としてD.クルサードが登場した。ニッサンコーナーにタイヤを用いて臨時シケインが設置された。
 ルール変更の波紋が広がる。中堅・下位チームのパフォーマンスが低下した。急なレギュレーション変更は却って危険を増すと言う者もいた。初日のフリー走行を多くのチームがボイコットした。予選2日目、A.モンテルミニもクラッシュに遭い、両足を骨折した。
 レースはD.ヒルが制し、どん底のチームに光明をもたらした。しかし、M.シューマッハがギアのトラブルで5速走行を強いられながら、2位につけた。ピット作業も5足だけで行う難しいレースを終え、涼しい顔で表彰台に上った。
 また、M.ブランデルがヤマハ・エンジンに初の表彰台をもたらした。

 ■ 6月12日 第6戦 カナダ
 A.チェザリスがベンドリンガーの代役としてザウバーのシートに座った。これで200戦出走を達成した。
 フェラーリ勢が予選で2位3位につけた。フリー走行でもアレジが好調で、復活の兆しである。
 しかしレースはM.シューマッハが完勝した。D.ヒルが新人クルサードを抜きあぐねる場面があった。なお、5位フィニッシュのC.フィッティパルディが重量違反で失格になった。
 N.マンセルがウィリアムズのマシンをテストした。8000人もの観客が集まったという。

 ■ 7月3日 第7戦 フランス
 フェラーリが新車を持ち込んだ。J.バーナード製作のものをG.ブルナーが改変した412T1Bである。セナの代役がD.クルサードからマンセルに変わった。そしていきなりD.ヒルとPPを争った。カーナンバーは"レッド2"である。
 PPはD.ヒルで、M.シューマッハは今季初の2列目スタートだったが、スタートでトップに立った。
 以後、ウィリアムズは2回ストップの作戦を、ベネトンのM.シューマッハは3回ストップの作戦を選んだ。勝ったのは後者である。軽いペースでドンドン飛ばして差をつけ、ピット作業分の時間を稼いでしまうのである。こうして一回ピットインが多いにも関わらず勝ってしまう…。こうした戦略を最初に提示したのは、M.シューマッハと作戦担当のR.ブラウンであった。
 マクラーレンのハッキネンがエンジンブローでリタイヤとなった。地元プジョーエンジンが白煙を上げたのは、ルノーの看板の前であった。この年のマクラーレンを象徴するシーンである。夥しい数のエンジンブローのため、R.デニスはプジョーとの関係を一年で終えることになる。

 ■ 7月10日 第8戦 イギリス
 フェラーリが新型エンジンを持ち込んだ。
 ここ7戦で6勝2位1回とほぼ無敵の強さを見せたM.シューマッハとベネトン。しかしこのGPから評価の難しい問題に巻き込まれていく。
 PPはD.ヒルが獲った。スタートでチームメイトのクルサードがエンストを起こし、やり直しとなった。ここでのフォーメーションラップでM.シューマッハは派手な追い越しをD.ヒルに行なった。
 2回目スタートではマクラーレンのM.ブランドルのマシンがいきなり火を噴いた。エンジンの故障で0周リタイヤである。続いて、M.シューマッハに対して先ほどの行いのペナルティとして黒旗(失格)が振られた。しかし、ベネトン側はこの指示を延々と無視し続け、ドライバーは2位でチェッカーを受けた。レース後に失格となり、さらに黒旗無視のペナルティとして、2戦の出場停止が言い渡された。
 ハッキネンは最終ラップ最終コーナーでバリチェロと接触した。バリチェロは最終ラップと気づかずピットに向かい、ハッキネンはまっすぐ進んだ。結果、1秒差でハッキネンが3位表彰台をものにした。
 母国初優勝のD.ヒルを故ダイアナ妃が祝福した。

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 ■ 7月31日 第9戦 ドイツ
 ベネトンとM.シューマッハは、前GPの決定を不服として抗議した。審議のため暫定での本戦出走が認められ、多くの地元ファンがホッケンハイムに集まった。確かに、かつて黒旗無視の衝突を起こしたマンセルに科せられた出場停止は1戦であったので、2戦の出場停止はおかしいのかもしれない。
 予選はフェラーリがフロントロー独占で制した。D.ヒル、M.シューマッハと続いて、5位にはなんとティレルの片山右京がつけた。
 スタート直後、片山右京がM.シューマッハとD.ヒルの真ん中を突いて抜き去り、アレジのマシントラブルもあって、2位を走行しはじめた。後方では多重クラッシュが発生し、10台が消えた。いきなり15台で争われるレースとなった。
 2位の座はM.シューマッハに奪われたが、D.ヒルは追いつけない。4周目の接触で後方に追いやった。片山右京のこのキレた走りに、日本のファンは表彰台での君が代を夢見さえした。しかし7周目にスロットルの故障で無念のリタイヤとなった。15周目、ベネトンのJ.フェルスタッペンが大火災を起こした。給油中、ガソリンが吹き出て引火したのである。 。
 ベルガーとM.シューマッハの先頭争いは、20周目、後者のエンジントラブルによって終わった。この時点で10台が争うレースとなっていて、シムテックにも初入賞のチャンスがあった。しかし2台とものちにリタイヤとなった。
 ベルガーの快勝で、フェラーリの長いトンネルは59戦で開けた。ターボ時代からの移り変わりを知る数少ないドライバーの一人である。この一勝で"漢"をあげた。サバイバルを生き残ったリジェにも光があたった。O.パニスとE.ベルナールが2台とも初の表彰台に立ったのである。

 ■ 8月14日 第10戦 ハンガリー
 ドイツでの火災事故から、ベネトンに給油機の違反、さらにトラクション・コントロールの使用疑惑が持ち上がった。FIAの言いがかり、生意気なベネトンに対するいじめだという意見もある。
 イギリス、ドイツとクラッシュの原因となったとして、ハッキネンが出場停止を喰らい、代わりにP.アリオーが出場した。この頃から、中堅・下位チームのドライバーがいちいち説明できないほどに細かく入れ替わった。
 ドイツとは対照的な低速サーキットであるハンガリーでも、片山右京が予選5位につけた。しかしスタートで遅れ、ジョーダン勢と絡んで0周リタイヤに終わった。
 レースはM.シューマッハが危なげなく制した。新人クルサードに早くも表彰台のチャンスが巡ってきたが、55周目にクラッシュを喫した。代わりに初の表彰台に立ったのが、ベネトンのフェルスタッペンであった。この時点でベネトンとウィリアムズのポイント差は最大の32点差になった。

 ■ 8月28日 第11戦 ベルギー
 安全対策のためオールージュに臨時のシケインが設置された。雨の予選の終了間際、スリックで冒険に出たR.バリチェロが初のPPを遂げた。この時点での最年少PPであった。
 スタート1周目で早くもM.シューマッハが先頭に立った。18周目に単独スピンして少しだけコースアウトした。タイトル争いの相手D.ヒルはチームメイトのクルサードを抜けない。ピットとのやり取りもあったようだが、チームは二人を戦わせた。20周目、バリチェロがクラッシュしてリタイヤとなった。
 クルサードとD.ヒルの争いは、クルサードのマシントラブルによるピットインによって終わった。その間逃げることのできたM.シューマッハが1位でチェッカーを受けた。
 ところが、M.シューマッハのマシンのスキッドブロックが3ミリ足りず、失格という裁定が下った。さらに審議中だった2戦の出場停止が確定した。ベネトンは、スキッドブロックが足りないのは18周目のコースアウトの影響と言い訳したが、認められなかった。

 ■ 9月11日 第12戦 イタリア
 今季のフェラーリはエンジンが調子よく、高速コースに強い。地元でフロントローの独占を成し遂げた。アレジは81戦目のPPである。ロータス・無限はスペシャルエンジンを一台分だけ用意し、J.ハーバートが予選4位につけた。
 スタート1コーナーで多重事故が発生し赤旗中断となった。この影響でハーバートは虎の子のエンジンを失い、スペアカーでのピットスタートに変わった。彼に追突したアーバインは日本のファンに恨まれたようだ。2回目のスタートでもモルビデリらが0周リタイヤを喫した。片山右京が14番手から5位まで浮上し、先頭集団より速いペースで差を詰めていく。
 14周目、先頭を行くアレジがピットでリタイヤとなった。彼はブチキレてすぐにサーキットを後にした。ピット作業中、出発するベルガーと到着したパニスが危うく接触しそうになった。タイヤ交換が済むと、クルサード、D.ヒル、ベルガーの順になった。
 クルサードはD.ヒルに先頭を譲り、上位3台は落ち着いた。片山右京はハッキネンを抜いて一時、4位に浮上した。
 レース終盤、ティレル勢を悪夢が襲う。ブランデルはエンジントラブルでリタイヤし、片山右京はブレーキのトラブルでクラッシュを喫した。最終ラップでは2位クルサードがスローダウンし、6位にまで後退した。D.ヒルが連勝して差を詰めていく。

 ■ 9月25日 第13戦 ポルトガル
 片山右京が予選で6位につけた。しかしフォーメーションラップでマシントラブルに見舞われ、スタートできず…。結局27周目にリタイヤした。
 PPのベルガーが独走するが、8周目にマシントラブルでリタイヤした。38周目、アレジはガス欠でリタイヤを喫する。
 D.ヒルが3連勝。M.シューマッハに1点差に迫った。クルサードも初の2位で続いた。こうしてコンストラクターズポイントではウィリアムズが逆転した。
 パニスのマシンのスキッドブロックが削れ過ぎていたため失格となった。次戦からM.シューマッハが復帰する。その間、J-J.レートが代役で走っていたが、目立つところが全くなかった。開幕前のテストで事故の影響かもしれない。

 ■ 10月16日 第14戦 ヨーロッパ
 ヘレスでのF1は'90年以来のことである。クルサードに代わってマンセルが再登場した。資金繰りの悪化が極まり、ロータスが破産管財人の管理下に置かれることになった。ハーバートがリジェに売りに出された。
 スタートでD.ヒルが先頭に立った。後方ではマンセルがホイールスピンして後退した。片山右京はまたもやエンストを起こした。
 M.シューがピットインを増やしてスプリンターに変身し、レース半ばに先頭に立った。48周目、マンセルがスピンしてリタイヤした。片山右京は猛烈な追い上げで、6位フレンツェンの真後ろまで来た。最終ラップ最終コーナーでこれを抜いたが、膨らみすぎて再度交わされ、7位でレースを終えた。
 復帰したばかりのM.シューマッハが作戦勝ちで王手をかけた。ハッキネンが4戦連続で表彰台に立った。

 ■ 11月6日 第15戦 日本
 ハーバートがすぐにベネトンに引き抜かれた。M.サロがロータスから、井上隆智穂がシムテックから、それぞれシートを買ってデビューを果たした。ベンドリンガーがザウバーをテストしたが、とても実戦を戦える状態でないため、巡り巡って元ベネトンのJ-J.レートに出番が回ってきた。
 決勝は雨。セーフティーカーが出動する場面もあった。14周目、モルビデリがアクシデントでリタイヤし、マーシャルが事故処理にあたった。続いてブランドルがコースアウトし、このマーシャルを跳ねてしまった。赤旗中断となり、レースは2ヒート制に変わった。
 25分後、SC先導でレースが始まった。M.シューマッハが2回ストップを選んだ。D.ヒルは今回、逃げに逃げた。後方では、マンセルとアレジが激しく順位を争った。最終シケインでマンセルが強引に抜いて3番手でゴールするが、タイム差で3位はアレジのものであった。
 D.ヒルが見えないデッドヒートを制した。M.シューマッハはレース後に彼の勝利を称えた。出場停止中、苛立ちからかD.ヒルの名誉を傷つけるような発言をマスコミに吐いていたりしたのだった。両者1点差のまま決着は最終戦に持ち込まれた。
 怪我をしたマーシャルは、どの程度かは分からないが、後遺症が残ってしまったという。

 ■ 11月13日 最終の第16戦 オーストラリア
 最終戦まで決着がもつれたのは8年ぶりのことになる。ラルースからジャン・ドゥニ・ドゥレトラーズがデビューした。この年46人目のエントリーである。
 予選は意外にもマンセルが制した。スタートでM.シューマッハ、D.ヒルが前に出た。マンセルは一回ストップ作戦だったため、二者が後続を引き離していく。レースに勝った方がチャンピオンという分かりやすい構図になった。
 18周目、両者ピットインしたが、順位は変わらず。再びコース上のバトルに移る。マンセルとハッキネンも激しく順位を争った。
 36周目のことだった。両者の差は1秒余り、ここでM.シューマッハは直角のコーナーを通過後にコースアウトを喫した。軽くウォールにぶつかってもいる。フラフラしながらペースを戻そうとするが、当然D.ヒルが大接近してきた。左右にマシンを振る両者。そして次のコーナーの曲がり角で両者は接触した。ベネトンのマシンは吹っ飛び、タイヤバリアに激突し動かなくなった。ウィリアムズのマシンはピットに駆け込み、クルーがフロント・サスペンションの具合をしきりに確かめた。
 ウィリアムズのクルーたちはD.ヒルのリタイヤを決めた。M.シューマッハはコース脇でこのチャンピオン決定の一報を聞いた。自然に笑みがこぼれた。しかしこのときの接触には、ミハエルが故意に行ったのではないかという疑惑が絶えない。混乱続きのシーズンは、後味の悪い形でチャンピオンが決まったのであった。
 レースはその後、マンセルとフェラーリ勢の争いになった。しかしアレジはピット作業に手間取った。表彰台には、マンセル、ベルガー、ブランドルというかつての時代を彩った役者たちが並んだ。

 ■ シーズン後
 この年は14チームから46人のエントリーがあった。'89年も47人と多数のエントリーがあったが、この年は20チーム参戦で予備予選があった。今季は予備予選もなく、ドライバーが入れ替わり続けた結果である。負傷して交代、急なルール変更で資金がなくなり、ペイドライバーに頼るなどがその理由で、シーズンの混乱を物語る。トップ4全てにもドライバーの交代があった。
 名門ロータスがチーム消滅の憂き目に遭った。1958年から延べ1231台が決勝を走り、優勝79回、タイトルを7回もぎ取った大チームである。最後の優勝は1987年アメリカ東GP、最後の表彰台は1988年オーストラリア、最後の入賞は昨年のベルギーであった。
 片山右京には夏の活躍によって、さまざまな有力チームとの交渉の機会があったらしい。しかし彼はティレルとの関係にこだわった。
 セナの死について、イタリア検察がF.ウィリアムズらを告訴した。彼らの無罪が決まるまで11年の歳月を要した。
 '87年から本格的なTV放送が始まった日本のファンにとっては、F1の安全さへの信頼が瓦解したシーズンであった。シーズン中にF1を見るのをやめた人もいたようである。レースの戦い方も、コース上のオーバーテイクでなく、ピット戦略の方が重要になってきた。名物実況の古館伊知郎もこの年限りで契約を終えた。大きく変わってゆくF1…。以後のシーズンにおいて、ほぼ毎年にわたってタイトル争いの中心となるのが、M.シューマッハであった。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ミケーレ・アルボレート Michele Alboreto
 尊敬していたR.ペテルソンのものとよく似たヘルメット(青地に黄色の輪)で知られる。F1を去った後もレースは続け、1997年のル・マン24時間で優勝した。その後、2001年の4月、ル・マンのテスト中に事故死した。
生年月日 1956年12月23日
没年月日 2001年4月25日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1981ティレル-10
1982ティレル81116
1983ティレル12115
1984フェラーリ41116
1985フェラーリ221216
1986フェラーリ816
1987フェラーリ716
1988フェラーリ5116
1989ティレル他1110
1990アロウズ-13
1991フットワーク-9
1992フットワーク1016
1993スクーデリア・イタリア-9
1994ミナルディ2416
524194


アイルトン・セナ Ayrton Senna
 サンパウロの裕福な家庭に生まれ、小さい頃から乗り物を走らせることに夢中であった。20歳のときに一度結婚したが、レースの活動の場を海外に移すときに離婚した。日本では「音速の貴公子」と呼ばれた。多数のバラエティ番組にも出演した。コーナーの立ち上がりで「セナ足」という技を持っていた。1秒間に6回も細かくアクセルを踏んで、加速を助けるものである。F1の中で彼の不滅の記録といったら、モナコの5連勝を含む6勝や8連続PPが挙げられるだろう。甥のブルーノ・セナが現在、F1へのステップアップを目指して励んでいるところである。
生年月日 1960年3月21日
没年月日 1994年5月1日
国籍 ブラジル
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1984トールマン114
1985ロータス27316
1986ロータス2816
1987ロータス21316
1988マクラーレン覇者813316
1989マクラーレン613316
1990マクラーレン覇者610216
1991マクラーレン覇者78216
1992マクラーレン31116
1993マクラーレン51116
1994ウィリアムズ33
416519161

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