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  F1今昔物語 1990年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 16戦中11戦が有効ポイント。
 セナにスーパーライセンスが下ったのは2月になってからであった。それまで、彼は故郷で寂しく過ごした。自分の信条とするレーススタイルを「危険だ」などと評価されたことで、引退を考えることもあったという。
 前年王者のA.プロストがフェラーリに移籍し、G.ベルガーがフェラーリからマクラーレンへ移籍した。ロータスでいいところがなかったN.ピケはベネトンへ。
 マクラーレンは、バットマン・ディフューザーと呼ばれる空力の技術を新車に導入した。ティレルの有名なアンヘドラル・ウイングは未だ開発中である。
チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ 641/2 フェラーリ(V12) 1、アラン・プロスト
2、ナイジェル・マンセル
マクラーレン
残留
GY
ティレル 019 フォードDFR(V8) 3、中嶋 悟
4、ジャン・アレジ
ロータス
残留
PI
ウィリアムズ FW13B ルノー(V10) 5、ティエリー・ブーツェン
6、リカルド・パトレーゼ
残留
残留
GY
ブラバム BT59 ジャッド(V8) 7、デイビッド・ブラバム他
8、ステファノ・モデナ
新人
残留
PI
アロウズ A11B フォードDFR(V8) 9、ミケーレ・アルボレート
10、アレックス・カフィ
ラルース
スクーデリア・イタリア
GY
ロータス 102 ランボルギーニ(V12) 11、デレック・ワーウィック
12、マーティン・ドネリー他
アロウズ
新人
GY
オゼッラ FA1ME フォードDFR(V8) 14、オリビエ・グルイヤール リジェ PI
レイトンハウス CG901 ジャッド(V8) 15、マウリシオ・グージェルミン
16、イヴァン・カペリ
残留
残留
GY
AGS JH25 フォードDFR(V8) 17、ガブリエル・タルキーニ
18、ヤニック・ダルマス
残留
残留
GY
ベネトン B190 フォードHB(V8) 19、アレッサンドロ・ナニーニ他
20、ネルソン・ピケ
残留
ロータス
GY
スクーデリア・イタリア-ダラーラ BMS190 フォードDFR(V8) 21、エマヌエーレ・ピッロ
22、アンドレア・デ・チェザリス
残留
残留
PI
ミナルディ M190 フォードDFR(V8) 23、ピエルルイジ・マルティニ
24、パオロ・バリラ
残留
新人
PI
リジェ JS33B フォードDFR(V8) 25、ニコラ・ラリーニ
26、フィリップ・アリオー
オゼッラ
ラルース
GY
マクラーレン MP4/5B ホンダ(V10) 27、アイルトン・セナ
28、ゲルハルト・ベルガー
残留
フェラーリ
GY
ラルース-ローラ LC90 ランボルギーニ(V12) 29、エリック・ベルナール
30、鈴木 亜久里
新人
ザクスピード
GY
コローニ C3B、C3C スバル(F12)、他 31、ベルトラン・ガショー オニクス GY
ユーロブルン ER189 ジャッド(V8) 33、ロベルト・モレノ
34、クラウディオ・ランジェス
コローニ
新人
PI
オニクス、モンテベルディ ORE1B フォードDFR(V8) 35、グレガー・フォイテク
36、J-J.レート
ユーロブルン
新人
GY
ライフ L190 ライフ(W12)、ジャッド(V8) 39、ブルーノ・ジャコメリ他 復帰 GY


 ■ 3月11日 第1戦 アメリカ
 土曜に雨が降ったため、予選結果の上位が、いつもと全く異なる面子になった。まず、PPは移籍して初戦のG.ベルガー。2位はミナルディのP.マルティニで、これはミナルディの長い歴史での予選最上位となる。3位には、スクーデリア・イタリアのA.デ・チェザリス。4位には、ティレルでフル参戦1年目のJ.アレジ。5位にA.セナ、彼のフロントロー脱落は、'88年イギリス以来のことである。A.プロストは7番手。N.マンセルにいたっては17番手である。
 予選8位にはオゼッラのO.グルイヤールがついた。'80年から参戦し続けて入賞3回という、この万年下位チームの、キャリア最高位である。
 P.アリオーが、予選中にコース上でメカニックの助力を受けたため、失格となった。
 決勝は、スタート1コーナーを新鋭のアレジが制し、トップをひた走った。続いてベルガー、セナの順でレースが進む。24周目、ベルガーはウォールに激突してレースを終えた。
 セナが徐々にアレジとの差を詰めていき、34周目に勝負がはじまった。セナが王者のオーバーテイクをアレジにお見舞いすると、次の直角コーナーでアレジがこれを抜き返した。翌周も同じ場所で、セナがオーバーテイク。今度はアレジに隙を与えず、そのまま差を広げていった。意気消沈のセナを目覚めさせるに十分な好ファイトであった。

 ■ 3月25日 第2戦 ブラジル
 ブラジルGPは10年ぶりに、サンパウロのインテルラゴスで開催されることになった。'70年代の7.9kmから4.3kmとレイアウトが短縮されている。

 サンパウロはセナの故郷でもあり、地元ファンは、J-M.バレストルに対して、ここぞとばかりにブーイングを浴びせた。様々なメッセージの書かれた横断幕の中には、A.プロストを中傷するものもあった。
 セナが地元の大声援を受けて独走を続ける。41周目、周回遅れの中嶋悟と接触し、マシンが壊れてピットインを余儀なくされた。中嶋悟も観客に嫌われる組に加わることになった。この事件後、プロストとベルガーが先行し、そのままの順位で決着となった。

 ■ 5月13日 第3戦 サンマリノ
 前GPから1ヵ月半のときを経て、この一戦から、ティレルのアンヘドラル・ウイング(コルセア・ウイングとも言う)が登場した。H.ポスルスウェイト/J-C.ミジョーの開発。ドライバーのアレジの活躍とも相まって、脚光を浴びた。ノーズ先端から「へ」の字に下るこのコンセプトは、翌年にはベネトンの吊り下げ型ウイングに繋がっていく。
 金曜の予選で、ミナルディのマルティニがクラッシュし、足を骨折した。昨年の終盤から、コンスタントに予選で上位を続けての地元でのレースだったが、その勢いも少し傷ついてしまった。
 スタートから4周目、セナの右リアタイヤがパンクし、スピンを演じた。続いてT.ブーツェンがトップに立つも、17周目にマシントラブルでリタイヤした。そして、マンセルがエキサイトをはじめた。目を見張る勢いで先頭のベルガーに迫り、コースオフ。…の瞬間に360度一回転のドリフトターンを見せ、何事もなかったようにレースに復帰していき、最後は白煙をあげてリタイア、というものだった。
 レース終盤、ベルガーの隙を突いて、パトレーゼが勝った。彼は99戦ぶり('83南ア以来)の勝利を地元で飾った。当時の最遅の初優勝記録がブーツェンの95戦目だから、それ以上に長かったということになる。

 ■ 5月27日 第4戦 モナコ
 アレジが予選3番手。スタート直後、プロストとベルガーが接触して、赤旗中断、スタートやり直しとなった。
 セナが2回とも完璧なスタートを見せ、そのまま勝った。全周回1位でFLもPPも彼だった。
 ピケが押し掛けで失格となった。ラルース-ローラのE.ベルナールが入賞したものの、コンストラクターズ・ポイントは翌年になって剥奪されることとなる。
 アレジが再び2位でゴールした。様々な有力チームが、この若者に注目し始めた。

 ■ 6月10日 第5戦 カナダ
 スタートでベルガーがフライングを犯し、決勝タイムに1分加算のペナルティを喰らった。ベルガーは独走で1位チェッカーを受けたが、このペナルティのため4位となった。
 タイヤバリアにぶつかったナニーニのマシンに、アレジのマシンが突っ込んでいった。ベネトンB190は粉々になった。総集編では突撃の様子を「カーリングのストーンのように」と表現している。

 ■ 6月24日 第6戦 メキシコ
 予選3位のセナがスタートでトップに立ち、そのまま快走を続けた。11周目、中嶋悟と鈴木亜久里が接触し、2台ともリタイヤとなった。
 プロストはセッティングが合わず予選13位。しかし決勝ではヒタヒタと順位を上げていく。マンセルも彼に続いた。一方、マクラーレン勢のタイヤがおかしくなってきた。ベルガーはブリスター(熱したタイヤの中の水が沸騰して、気泡ができること)発生で、セナはパンク気味になって、それぞれスピードが落ちた。
 セナは依然先頭を走るものの、フェラーリ勢はとうとう2位3位まできた。「2台のフェラーリが来ている! 2台のフェラーリが来ているー!」とは馬場アナの実況。
 レース終盤の61周目、プロストはセナをジワジワと攻め立て、インから抜いていった。翌周にはマンセルも続いた。64周目、セナのタイヤはバーストした。
 見所はまだ続く。マンセルは67周目にコースアウトして、ベルガーに抜かれるが、翌周、凄まじいオーバーテイクを見せ、再び2位へあがった。こうして、フェラーリが見事なワンツー・フィニッシュを飾ったのだった。

 ■ 7月8日 第7戦 フランス
 前GPでは予選落ちに終わったレイトンハウス、ここでは意表をつくタイヤ無交換作戦に討って出た。他のマシンが続々とピットに入っていくなか、いつまでたってもワンツー体制を崩さない。
 異変に気がついたフェラーリのプロストが猛追をはじめた。真夏の青空の下、マーチ勢はグリップ不足のタイヤで懸命に走行を維持した。58周目、2位のM.グージェルミンが白煙を上げてリタイヤした。残るはI.カペリ。
 カペリは、45周にわたって首位を維持した。しかし、レース終了間近の78周目、ついにプロストに屈した。それでも、この2位という結果は、カペリの評価を上げた。フェラーリは100勝目。
 レース後、A.デ・チェザリスが、重量違反で失格となった。

 ■ 7月15日 第8戦 イギリス
 パトレーゼが記念すべき200戦出走を達成した。
 序盤、マンセルとセナが先頭を争ったが、セナにはタイヤやハンドリングの不調が発生し、マンセルはギヤボックスの故障でリタイヤとなった。勝利はプロストの手に渡った。プロストは3連勝でランキングトップに踊り出た。
 鈴木亜久里が、自身初の予選9位から6位初入賞を果たした。チームメイトのE.ベルナールは4位入賞で、ラルース-ローラは後半戦の予備予選を免れることができた。
 レース後、マンセルが引退騒動を起こした。プロストとの不仲が主な原因とされる。

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 ■ 7月29日 第9戦 ドイツ
 この一戦から、オニクスのチーム名がモンテベルディに変わった。スイス人であるP.モンテベルディに買い取られたのである。
 マンセルは、小さなマシントラブルを契機にピットに向かってレースを終えた。フィオリオ監督は不満を募らせた。
 ここでは、ベネトン勢がタイヤ無交換作戦に出た。セナがピットインした18周目、A.ナニーニがトップに立つ。しかし、やはりタイヤのグリップ不足に苦しみ、34周目にセナに先頭の座を明け渡した。プロストはタイヤ交換に手間取って後退した。
 そのまま、セナ先頭でチェッカーが振られた。ホンダエンジン車が高速のホッケンハイムで5年連続の勝利。
 このときのブーツェンのキャリア初のFLは、115戦目であり、R.バリチェロと並んで最も遅いものである。

 ■ 8月12日 第10戦 ハンガリー
 マクラーレンは、バットマン・ディフューザーの継続を断念した。サーキットによって、ダウンフォースが不安定であったためという。
 ブーツェンのポールポジションは116戦目で、これは2004年まで最遅の記録であった。つまり、初勝利・初PP・初FLの最遅記録の三冠を、しばらくのあいだ彼が独占していた時期があったことになる。
 序盤は、ウィリアムズ勢がレースをリードする。セナがパンクによって後退し、中盤、ブーツェン、ナニーニ、パトレーゼ、セナ、マンセル、ベルガーのトップ争いとなった。トップ争いというからには、全車が接近していたのである。抜きどころのないハンガロリンクの特徴が明らかになった。
 64周目、セナがナニーニのインに突っ込んで接触が起きた。セナは無事だった一方、ナニーニはサスを痛めてリタイアとなった。71周目、同じコーナーで、ベルガーがマンセルのインに突っ込んで接触、今度は両者共リタイアとなった。
 そのままブーツェンが首位を守りきり、通算3勝目をあげた。しかし、移籍の決まっていたブーツェンは、レース後ピットクルーらに冷たい扱いを受けたと言う。
 FLはパトレーゼであったが、チームメイトのブーツェンのそれは、2秒近い遅いもの(102.3%)だった。FLの順位は10番目で、最低位FLによる勝利の一つに数えられる。そんな者が全周回を1位で走りきったので、稀に見る数珠つなぎレースとなったのである。
 本戦を15位で完走したパオロ・バリラとは、パスタで有名なバリラ社の御曹司である。ミナルディにおいて今季を中心に活動した。親の会社を頼らず、スポンサーは自分で用意したという。

 ■ 8月26日 第11戦 ベルギー
 三宅アナウンサーがF1デビューを飾った。
 スタートで2度の赤旗中断があった。レースはセナとプロストの一騎打ちとなり、22周目に同時ピットインとなった。後方からタイヤ無交換作戦のナニーニが迫ってくる。セナは間一髪ナニーニの前でレースに復帰した。プロストはタイヤ交換に手間取り、ナニーニの後塵を拝した。これが両者の明暗を分けた。プロストはナニーニを追い抜くのに4周かかり、その間、セナは差を広げた。セナはスパで3年連続4回目の勝利を遂げた。
 昨年以来、セナとプロストは犬猿の仲のわけだが、本戦を1位2位でゴールしたことで、レース後の記者会見で両者が初めて両隣に座ることになる。ところが、表彰台の3人はベルガーを真ん中にして(他の二人が距離を置いて)席につく方法を選んだ。セナはそっぽを向き、気まずい雰囲気のままインタビューが行なわれた。

 ■ 9月9日 第12戦 イタリア
 土曜の予選、セナはトラブルを抱えてピットにこもったままになった。しかし、終了直前にコースに現れ、敵であるティフォシさえもが喝采を送るほどのアタックを見せて、PPを奪った。
 決勝1周目、ロータスのD.ワーウィックが大クラッシュを起こした。前車のスリップストリームに入りつつパラボリカに進入、曲がりきれず、壁に激突、逆さまになってすっ飛んでいくマシンの両脇を、高速のマシンがすり抜けてゆくという危険なものだった。
 再スタート後はマクラーレン勢の独走となった。プロストは20周目にベルガーを追い抜くのがやっとだった。
 今回の記者会見では、記者側がプロストとセナに握手を勧め、二人はこれに応えた。両者が過去のわだかまりを捨てたひと時か、と思われたが…。

 ■ 9月23日 第13戦 ポルトガル
 アレジ争奪戦はフェラーリに軍配が上がった。翌年からのフェラーリ入りが発表された。
 スタートで、PPのマンセルがプロストに対して悪意が垣間見える幅寄せを行った。その結果、マクラーレンのワンツー体制が築かれた。タイヤ交換後、セナ、マンセル、ベルガー、プロストという順位になった。
 50周目、マンセルがセナを抜いた。58周目、プロストもベルガーを抜いた。続いてセナに迫っていく。
 しかし、先頭が63周目を走行中、A.カフィと鈴木亜久里の衝突事故が発生し、赤旗中断となった。規定周回の75%を過ぎていたので、61周終了時点の順位のままレース終了となった。「一体マンセルは、どこに向かって大砲をぶっ放しているんだ!」とは、当時のフェラーリ監督、C.フィオリオの談。マンセルの、大事なシーズン終盤に見せた不義であった。ポルトガルGPにおける、2年連続での、波紋を及ぼす行動となった。彼は翌年のウィリアムズへの加入が決まっている。

 ■ 9月30日 第14戦 スペイン
 ドネリーの有名な事故が予選で発生した。マシンが大破し、彼は足が折れ曲がった姿で道路に投げ出されたのだ。両足だけでなく、頬骨、鎖骨も骨折していた。幸いにも一命は取り留めたが、ドライバー(レーサー)としての再起は成らなかった。ロータスはイタリアGPでのワーウィックに続いての大クラッシュであった。
 また、表彰台のナニーニも、3週間後の日本GPには参加できない。自家用ヘリの墜落事故によって、右腕を失うのである。
 レースの方は、セナがラジエターに入ったゴミでリタイヤとなり、プロストはきっちり勝利を収めて、連覇への望みをつないだ。
 それから、ベネトンのN.ピケが一時先頭を走った。これは1987年イタリアGP以来3年ぶりのこととなる。

 ■ 10月21日 第15戦 日本
 ベネトンは、ナニーニの代役としてブラジル人のロベルト・モレノを起用した。ピケの後輩である。今季は、ユーロブルンから予備予選の通過が自身の課題という、日の目を見ない状況にあった。
 予選終了後、PPのスタート位置を巡って、セナが"イン側はスリッピーなので、アウト側に変更してもらいたい"とオフィシャルに要求し、FISAのバレストル会長がこれを拒絶するという場面があった。
 チャンピオン同士の直接対決を目前に控え、鈴鹿は燃えていた。しかし、レースは、セナとプロストの、戦慄の衝突で始まった。二台のマシンが砂煙を巻き上げて、サンドトラップ内に止まった。注目のタイトル争いは、またしても両者の衝突によって、今度は10秒もしないうちに、決定の運びとなった。二人は顔を合わせることなくマシンを降り、サーキットは殺伐とした雰囲気に包まれた。後に、セナはこのときの接触を故意によるものと告白した。バレストルが要求を蹴ったことも、彼の心理に大きく影響したと思われる。
 翌周、先頭だったベルガーが同じ1コーナーで砂に乗ってリタイヤした。続く先頭はマンセル。しかし、26周目のピットインでドライブシャフトを壊し、ピットロードの出口でマシンを止めた。コンストラクターズ・タイトルもマクラーレン・ホンダに決まった。観客はレースに失望し、席を立つ者すら現れた。
 マンセルの脱落で、レース中盤に首位に立ったのが、ピケだった。彼にとって、勝ちを意識できるレースは、前述の通り3年ぶりとなる。これに続いたのは、不遇の男、R.モレノであった。
 日本の鈴木亜久里は予選9位スタート。チームメイトにも差をつけた。1周目で7位になり、7周目の1コーナーでワーウィックを抜いて6位、20周目、ブーツェンが脱落して5位、続いてマンセルのリタイヤで4位と、着実に順位をあげてきた。彼もまた、前年、全戦で予備予選落ちという屈辱を味わっていた。朝5時半に起きて予備予選に挑み、連戦連敗のままシーズンを終えたのである。
 終盤、ベネトン勢は依然、独走を続けた。鈴木亜久里はFLを連発して、前を追いかけた。37周目、パトレーゼのピットインで彼はとうとう3位にあがった。そして、そのままの順位でチェッカーのときを迎えた。
 ウイニングランが終わると、モレノが、クシャクシャの顔になってピケに抱きついていった。モレノはこのとき30歳、ピケは37歳で、いい年こいた親父に差し掛かっている二人だが、このシーンを忘れられないファンは現在でも大勢いる。古館伊知郎は、二人を「ランバダ・ブラザーズ」と呼んだ。
 そして、表彰台で初めて日本人がシャンパンファイトを行なった。それも地元においてである。鈴木亜久里もまた、観客の旗のおかげで、レースの終わる前から、涙が止まらなかった一人であった。中嶋悟も健闘して6位入賞を果たした。鈴鹿は、またしても興奮の一戦として、歴史のひと時を刻んだのであった。

 ■ 11月4日 最終の第16戦 オーストラリア
 レース前、A.セナとJ.スチュワートが王者のドライビングの在り方について、激論を交わした。
 F1は500戦目を迎えた。現地では、J.ブラバムを始めとした過去のチャンピオンと、アルファロメオ158など過去の名車がパレードを行なった。
 レースは独走のセナが61周目にリタイヤ、ピケが先頭に立った。マンセルは中盤まで目立たなかったものの、いつの間にかエキサイトをはじめて、一人だけ異なるペースで走り続け、ピケに迫った。
 残り5周というところで、ピケがスピン! マンセルが背後についた。最終ラップ、マンセルがコーナーで強引にインを刺していく。ピケはいったん前へ出す手もあったが、こちらも強引にマンセルを抑えた。この、1年の締め括りでもあるメモリアルレースは、ピケのものとなった。最終的にランキングでも3位に浮上、シーズン12回の入賞で復活を印象づけた。

 ■ シーズン後
 パトレーゼは、シーズン終盤に3戦連続ファステストラップを記録して、この年のFL王に輝いた。これは以下の理由で特筆すべきことである。1985〜1993年の間、シーズンの勝利数・PP数・FL数、それから年間タイトルと、皆、四天王が占めていて、そのなかで唯一、四天王以外で名を残したのが、今季のFL王R.パトレーゼだったのである。
 1980年から参戦を続けてきたオゼッラが、スポンサーであるフォンドメタルに買収されることになった。
 翌年のことになるが、ラルース-ローラのエントリー名に不備があったとして、今季のコンストラクターズ・ポイント11点が剥奪された。これは、ややこしい話しで詳細を述べると、ラルース・チームがローラに制作を依頼した車体を、「ラルース」という単独の名前で登録していたことが槍玉にあげられたのであった。この裁定のために、ラルース-ローラは、翌シーズン開幕の1ヶ月前という時期になって、FCCA便のチャーターを受けられないといった、唐突な問題に振り回されることになった。同じフランス・チームのリジェによる、自分のコンストラクター順位を10位以内(FCCA便のチャーターを受けられる)に押し上げるための謀略、という噂もある。
 他に下位チームの情報として、ライフがW型12気筒という奇妙な形のエンジンを用いて、シーズンを通して参戦したが、一度も予備予選を通過できなかった。ドライバーは、懐かしのブルーノ・ジャコメリ。メカニックよりもジャコメリの方がマシンの知識に豊富だった、という逸話が残っている。J.ブラバムの息子であるゲイリー・ブラバムも2戦だけ走った。
 コローニは、日本のスバルのエンジンを用いてシーズンに臨んだが、こちらも一度も予備予選を通過できないまま、夏場にジャッド・エンジンに変更された。
 1988年から参戦を続けてきたユーロブルンの撤退が決まった。共にS.モデナによる予選15位、決勝11位が最高の成績である。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
アレッサンドロ・ナニーニ Alessandro Nannini
 "ナンニーニ"の方が母国語の読みに近い。今季は、翌年のフェラーリ加入の話しもあった。ヘリコプターの事故は10月12日、命に別状はなく、後に右手の縫合手術にも成功した。ハコ車のレースや、フェラーリF92Aのテストに参加したこともあったが、F1への復帰は成らなかった。老舗菓子店の息子で、大のコーヒー好きで知られる。姉は歌手として有名なジャンナ・ナニーニ。現在は家業を継いでいて、日本にもお台場や名古屋などに彼の名がついた飲食店がある。
生年月日 1959年7月7日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1986ミナルディ-15
1987ミナルディ-16
1988ベネトン9116
1989ベネトン6116
1990ベネトン8114
1277

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