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  F1今昔物語 1989年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 全16戦中、11戦が有効得点。
 ロータスのチーム・オーナーであるP.ウォアに過去の贈賄疑惑が持ち上がり、彼はシーズン途中でチームを去った。ラルース-ローラの共同オーナー、D.カルメルは殺人事件を起こし、こちらは文句の出しようもなくレース界を去った。
 ターボエンジンが完全に禁止になり、3.5リッターの自然吸入式(ナチュラル・アスピレーション、NA)エンジンのみが用いられることとなった。その影響からか、参戦チーム数が増え、参加台数が急増した。有力チームでは、ウィリアムズがルノーエンジンと契約を結んだことが特筆される。日本のヤマハもザクスピードにエンジンを供給しはじめた。
 参加台数急増のため、金曜の朝8時から、予備予選が行われるようになった。
 フェラーリのJ.バーナードは、新車640にセミオートマチック・トランスミッションを搭載した。ドライバーは、ステアリングから手を離さずにギアチェンジできるようになった。
 日本のレイトンハウスという会社が、マーチを完全に買い取って、コンストラクター名もレイトンハウスと変わった。
 ピレリタイヤが復活した。主に弱小チームに供給された。
 N.マンセルがフェラーリに移籍した。空いたウィリアムズの席に、昨年ベネトンで5回の表彰台に立ったT.ブーツェンが座ることとなった。
 フジテレビは、古館伊知郎を実況に起用しはじめた。彼は、ヘルメットの奥に隠れて見えない、ドライバーの表情や人間味を、独特な比喩や言い回しで、表現しまくった。当初は、「やかましくてエキゾーストノートが全然聞こえない」といった批判も多かった。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン MP4/5 ホンダV10 1、アイルトン・セナ
2、アラン・プロスト
残留
残留
GY
ティレル 018 フォードDFR(V8) 3、ジョナサン・パーマー
4、ミケーレ・アルボレート他
残留
フェラーリ
GY
ウィリアムズ FW13 ルノーV10 5、ティエリー・ブーツェン
6、リカルド・パトレーゼ
ベネトン
残留
GY
ブラバム BT58 ジャッドV8 7、マーティン・ブランドル
8、ステファノ・モデナ
復帰
ユーロブルン
GY
アロウズ A11 フォードDFR(V8) 9、デレック・ワーウィック
10、エディー・チーバー
残留
残留
GY
ロータス 101 ジャッドV8 11、ネルソン・ピケ
12、中嶋 悟
残留
残留
GY
マーチ CG891 ジャッドV8 15、マウリシオ・グージェルミン
16、イヴァン・カペリ
残留
残留
GY
オゼッラ FA1M フォードDFR(V8) 17、ニコラ・ラリーニ
18、ピエルカルロ・ギンザーニ
残留
ザクスピード
GY
ベネトン B189 フォードDFR(V8)
フォードV8
19、アレッサンドロ・ナニーニ
20、ジョニー・ハーバート他
残留
新人
GY
スクーデリア・イタリア-ダラーラ BMS189 フォードDFR(V8) 21、アレックス・カフィ
22、アンドレア・デ・チェザリス
残留
リアル
PI
ミナルディ M189 フォードDFR(V8) 23、ピエルルイジ・マルティニ
24、ルイス-ペレス・サラ
残留
残留
PI
リジェ JS33 フォードDFR(V8) 25、ルネ・アルヌー
26、オリビエ・グルイヤール
残留
新人
GY
フェラーリ 640 フェラーリV12 27、ナイジェル・マンセル
28、ゲルハルト・ベルガー
ウィリアムズ
残留
GY
ラルース-ローラ LC89 ランボルギーニV12 29、ミケーレ・アルボレート他
30、フィリップ・アリオー
フェラーリ
残留
GY
コローニ FC189 フォードDFR(V8) 31、ロベルト・モレノ
32、ピエール-アンリ・ラファネル他
復帰
新人
GY
ユーロブルン ER189 ジャッドV8 33、グレガー・フォイテク
33、オスカール・ララウリ
新人
残留
PI
ザクスピード ZK891 ヤマハV8 34、ベルント・シュナイダー
35、鈴木 亜久里
残留
新人
PI
オニクス ORE1 フォードDFR(V8) 36、ステファン・ヨハンソン
37、ベルトラン・ガショー
リジェ
新人
GY
リアル ARC2 フォードDFR(V8) 38、クリスチャン・ダナー
39、フォルカー・バイドラー
復帰
新人
GY
AGS JH24 フォードDFR(V8) 40、ガブリエル・タルキーニ
41、ヨアヒム・ビンケルホック
コローニ
新人
GY

 ■ 3月26日 第1戦 ブラジル
 PPはNAエンジンになってもA.セナであった。チャンピオンとしての凱旋でもある。2番手は意外にも、R.パトレーゼ。177戦目となる最多出走回数の記録更新を、フロントローで飾った。
 決勝スタート直後、セナはベルガーらと交錯し、ピットへ駆け込むことになった。結局11位に終わった。勝者は、フェラーリでの初陣となるN.マンセルであった。セミ・オートマ640に初戦で勝利をもたらしたのであった。余談になるが、彼は、表彰台でトロフィーを受け取る際に指を切る、というハプニングを起こした。
 4位のJ.ハーバートは、前年のレース事故により、大怪我が完治していない状態での、驚きの入賞であった。松葉杖をつき、移動には自転車を使った。
 また、アロウズのD.ワーウィックは、ピットで2度のもたつきがあった。このもたつきがなかったら、レースペース的には優勝していたと言われる(ピット作業の時間を差し引くと、マンセルのタイムを上回るということ)。

 ■ 4月23日 第2戦 サンマリノ
 4周目、ベルガーのマシンがタンブレロでトラブルを起こし、クラッシュして炎上した。手際のよい消火活動なければ命が危うかったと言われている。レースは2ヒート制となった。
 セナとプロストは、"1周目1コーナーまで追い越しを禁止する"という紳士協定をレース前に交わしていた。レース再開後、この約束が際どいことになってしまい、セナがそのままトップでゴールしたので、これにより二人の仲は険悪になっていった。1コーナーの解釈(タンブレロかヴィルヌーヴ・コーナーか)に相違があった模様である。
 O.グルイヤールが、レース中断時にアンダートレイ修理を行なったため、黒旗が出て失格となった。

 ■ 5月7日 第3戦 モナコ
 セナとプロストがテール・トゥー・ノーズの争いを演じた。15周目、とある周回遅れの処理のタイミングになった。セナは問題なくこれを抜いた。続くプロストは抜けない。相手があからさまに抜かせないのである。譲ってもらわないと抜きどころのないモナコである。セナとプロストの差がみるみる開いていった。この周回遅れはR.アルヌー、'82年のプロストのチームメイトである。アルヌーには「妖怪通せんぼ爺い」というあだ名がついた。
 セナは終盤、1、2速が壊れた。しかし、プロストに知られるのを嫌い、ピットにそのことを伝えなかったらしい。
 ほんの5、6年前まではトップチームだったブラバムは、この年は予備予選を争う下位に甘んじている。しかし、S.モデナは、予備予選1位、予選8位、決勝3位という結果を残した。もう一人のM.ブランドルは予備予選を通過後、本予選で4位のタイムを残した。決勝ではトラブルでマシンを降り、インタビューも受けた。しかし、後に出走し、ポイントも獲るという珍しい結果を残した。
 ちなみに4位のA.カフィも予備予選組の一人である。

 ■ 5月28日 第4戦 メキシコ
 予備予選でP.ギンザーニがウェイト・チェックを無視したとして、失格となった。レース2周目、多くのマシンがスピンし、スタートやり直しとなった。セナが3連勝。
 G.タルキーニ唯一のポイント獲得である。この後、各年の下位チームを満遍なく渡り歩いた。そして、どのチームでもそこそこのタイムを出していたので、「一度でいいからちゃんとしたチームで走るのを見てみたかった」というファンもいる。'95年片山右京の負傷欠場の代役で急遽ティレルから出場したりもした。

 ■ 6月4日 第5戦 アメリカ
 ☆フェニックス…アリゾナ州フェニックスの市街地コース。直角コーナーが連続するため、ドライバーには不評であった。1990年の、A.セナとJ.アレジのバトルが有名である。3回のみの開催に終わった。

 セナのPP通算回数が、クラークを超えて単独1位の34回となった。
 2時間ルール適用。M.グージェルミンがレース中の給油で失格となった。セナのリタイヤは、街中を飛び交う電波に拠るものと言われている。
 80年代をずっとF1で走ってきたE.チーバーの最後の表彰台である。実は、'78年のデビューは年齢が10本指に入る若さであった。よってまだ31歳なのだが、今季を以ってF1を去る。
 C.ダナーは予選26位からの4位入賞(1周遅れ)である。22人を抜いたことになるので、たいへんな記録である。この入賞でリアルは予備予選を免れることとなった。

 ■ 6月18日 第6戦 カナダ
 セナの連続PPが止まった。これまでの8連続PPは、現在でも破られていない最多連続記録である。
 決勝は雨で荒れた。プロストは2周目でサスペンションが壊れてリタイヤした。久しぶりに上位を走るワーウィックやセナがトップに立ったが、共にエンジンが壊れた。
 ラスト2周でT.ブーツェンがトップに立ち、当時の最遅初優勝の記録を更新した。2位にはR.パトレーゼが入り、ウィリアムズのワンツーフィニッシュとなった。元々、荒れる要素の多いカナダに雨ということで、以下の面々も珍しい顔ぶれとなった。
 3位表彰台には、参戦2年目のスクーデリア・イタリアが上った。イタリアの鉄鋼業者、G.ルッキーニが設立したチームだが、名前の意味は"イタリアを代表するチーム"ということであるから、大胆なものである。'92年まではダラーラ、'93年はローラからシャシーの供給を受けたので、コンストラクター名がややこしい。当初はラリーを中心とした活動だった。
 表彰台に導いたのはA.デ・チェザリスであった。一昨年ブラバムで3位(ベルギーGP)、昨年リアルで4位(アメリカGP)、そして今回と、3年間チームを変えながら年に1回の入賞を果たした。そんなことができるあたり、この男は只者ではない気がする。
 それから、J.パーマーが唯一のファステストを記録した。本格的にレースを始める前には医師をしており、「フライングドクター」と称される人物である。翌年からシートを失う。
 R.アルヌーは、これが最後の入賞となる。'83年に最速王だったこともあるが、今季は予選不通過を7回数えた。
 失格が3件あった。マンセルとナニーニは、レース開始前にピットスタートを行い、失格となった。S.ヨハンソンは、ピット機材を引きずったまま走行して、失格となった。

 ■ 7月9日 第7戦 フランス
 マクラーレンのお世話になって6年目のプロストが、離脱を発表した。
 ジャン・アレジがティレルからデビューし、決勝を4位で終えた。
 スタートでいきなり多重クラッシュが発生し、マーチのM.グージェルミンが回転しながら宙を舞った。これにより赤旗中断でスタートはやり直しとなった。
 セナは再スタート後、数100m走ってリタイヤした。生涯で一番短いレースだ、と語った。
 圧巻なのは、大クラッシュのグージェルミンが再スタート後に激走をみせ、順位こそつかなかったが、ファステストラップを記録してしまったことだ。初戦で表彰台にもあがっており、この年は当たり年だった。ブラジルの富農出身で、体が大きいドライバーであった。大きすぎて、30歳を前にF1を去ることになった。
 O.グルイヤールは、デビュー年にしてキャリア唯一のポイント獲得である。フランス人。'92年を最後にF1を去った。
 

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 ■ 7月16日 第8戦 イギリス
 先週の会見に続いて、ベルガーのマクラーレン移籍の発表があった。
 セナはギヤのトラブルから、12周目にスピンしてレースを終えた。3連勝のあと4連続ノーポイント。プロストとの差が苦しくなった。
 2シーズンのみの参戦のL-P.サラの唯一のポイントである。ミナルディが2台揃ってポイントをあげたのは、2005年アメリカGPとこのときだけである。

 ■ 7月30日 第9戦 ドイツ
 スタートでベルガーがトップに立つも、1コーナーでセナに抜かれた。
 またもやセナとプロストの先頭争いになった。セナはタイヤ交換で遅れ、その結果先頭に立ったプロストには、残り3周でマシントラブルが発生した。

 ■ 8月13日 第10戦 ハンガリー
 パトレーゼが好調で、予選で6年ぶりのPPを決め、そのままレース中盤まで首位を譲らなかった。しかし、エンジンに若干の異常が発生しはじめた。53周目、セナがパトレーゼを抜いた。直後、パトレーゼがリタイアした。セナの後方にマンセルが迫った。
 マンセルは予選12番手からのスタートで、ここまで調子を上げてきた。セナは、周回遅れのヨハンソンを抜くのに手間取った。その隙にマンセルがトップへ踊り出て、予選下位からの快勝を成し遂げた。

 ■ 8月27日 第11戦 ベルギー
 シーズンを通して調子の上がらないピケは、ここで予選落ちを喫した。ターボ導入直後の'82年に続いて、キャリア2度目である。中嶋悟も予選落ちし、ロータスは2台とも決勝にあがれなかった。
 雨のレースとなった。セナが磐石の勝利。プロストとマンセルが0.5秒差でゴールするような激闘を演じた。

 ■ 9月10日 第12戦 イタリア
 レース前、プロストが翌年のフェラーリ加入を発表した。年俸14億円と言われる。この発表で、ティフォシの人気を集めた。
 モデナが予選でのウエイト・チェックを無視したとして失格となった。
 セナが後続を1秒以上離して予選を通過し、決勝でもトップを快走した。マンセルは、来季のチームメイトに道を譲るシーンもあった。
 ところが、セナは残り9周でラジエターの故障でリタイアとなった。モンツァの観客は大歓声をあげた。
 優勝はプロストのものとなった。彼は、表彰台でトロフィーを観客に投げ与えた。瞬間、ロン・デニスは怪訝な表情を見せた。プロストは、セナとだけでなくチームとの軋轢を公に表したのだった。

 ■ 9月24日 第13戦 ポルトガル
 ベルガーは今季、サンマリノで事故に遭い、モナコを休んだ。そして、休んだモナコ以外、延々とリタイヤを繰り返した。彼は、前GPでようやっと表彰台に立った。本戦も好調で、ベルガー、マンセル、セナの順でレースが進む。
 28周目、マンセルが首位に立った。タイヤ交換の時間が迫った。先頭争いの者らが皆ピットに向かったことで、ミナルディのP.マルティニが1周だけ、キャリア唯一のトップランを果たした。ミナルディの長い歴史の中でも唯一のトップランである。
 マンセルのタイヤ交換のとき、事件が起きた。ピットで上手く止まれず、リバース・ギヤを使ったのである。これはレギュレーション違反で、失格の印である黒旗が、マンセルに向かって振られた。しかしマンセルは止まろうとしない。セナと激しい2位争いを続け、そのままセナと衝突し、両者リタイヤとなってしまった。
 このマンセルの行動に、「翌年チームメイトになるプロストのために、黒旗を無視してセナに激突した」という疑いを持つ者もいる。マンセルは「(日の光に隠れていたため)神に誓って、黒旗は見えていなかった」と語った。
 優勝はベルガーで今季初、2位はプロストでセナとのポイント差をさらに広げた。
 3位は新興オニクスのS.ヨハンソンであった。彼は今季、予備予選の不通過を8回喰らった。かつてヨハンソンは、フェラーリ、マクラーレンと有力チームを渡り歩き、この間、高位置での走りが頻繁だった。しかし、首位走行はたったの3周で、四天王に挑む・優勝争いに加わるといった力は見せられなかった。だが、決勝走行もままならない新興チームでも表彰台に立つとは、この男もやはり只者ではない気がする。これで表彰台12回となり、現在でも非・優勝経験者のなかで最多の回数となっている。
 それから、ダルマスとラリーニも予備予選のとき失格となった。

 ■ 10月1日 第14戦 スペイン
 P.マルティニが予選で4番手につけた。ラルース-ローラのP.アリオーが5番手につけた。これがラルースの8年の活動における予選最高位となる。マンセルは出場停止を喰らった。
 一週間前、やるせない理由でリタイヤを喫したセナだったが、すぐに気持を切り替え、本戦では完全勝利を果たした。プロストは、チーム批判を繰り返し、当に四面楚歌の状態となっていた。それでもしぶとく3位に入り、タイトル争いでの断然有利な位置を離れない。

 ■ 10月22日 第15戦 日本
 タイトル防衛のためには連勝しなければならないセナは、予選で下位を1.7秒も突き放した。
 しかし決勝は、スタートからプロストが先行した。セッティングの作戦で、プロストはストレートが速く、セナはコーナーが速い。背後で隙をうかがっていたセナは、47周目、130Rで前方を完全に捕らえ、シケインでしかけた。プロストはインを閉め、両者が接触、プロストはリタイアした。
 セナの方は、エンジンが生きていたのでマーシャルにコースまで戻してもらい、レースに復帰した。ピットインしてフロントウイングを交換し、やっと本来のペースを取り戻した。その間にベネトンのA.ナニーニが先頭に立っている。
 セナは、もはや残り2周というところで、同じようにナニーニのイン側に突き刺さるように襲い掛かり、首位に立った。そして、そのままトップでチェッカーを受けた。しかし押しがけとシケイン・ショートカットにより失格となった。マクラーレンは、FIAのこの裁定に異を唱え、レース結果は保留となった。タイトル争いも同様である。

 ■ 11月5日 最終の第16戦 オーストラリア
 フランス人のJ-M.バレストル率いるFIAは、セナに対して、危険なドライバーだという理由で6ヶ月の出場停止処分(執行猶予つき)を下した。マクラーレンはこの裁定にも異を唱えた。注目のタイトル争いは、大詰めの段階で、保留の上に保留が重なる、訳の分らない状態になった。我慢できなくなったセナは、レース前に90分もの記者会見を行なった。そして、意を決してレースに出場した。
 決勝の日は大雨であった。プロストは、天候を理由にレース中止を訴えた。ポイントで絶対的有利な位置にいる者のこの発言は、ファンの心境をさらに複雑なものにした。
 レースは開始され、プロストは1周でマシンから降りた。水しぶきで前が見えない。レースは一時中断となった。視界不良状態のままレースは再開され、セナは周回遅れとの接触で、リタイアとなった。この瞬間、いろいろな意味で息詰まるチャンピオン争いに幕が下りた。
 中嶋悟は23位からのスタートだったが、10周目12位、18周目5位と、目覚しい勢いで順位を上げていった。24周目には4位へ、そしてファステストラップを連発するペースで、3位パトレーゼを追い詰め続けた。結果はこの順位のままで惜しくも表彰台を逃したが、本戦以降、"雨の中嶋"と称されるようになる。

 ■ シーズン後
 エンジン規定の改定およびエンジンに関する新技術の登場は、これまで有力チームの勢力図を大きく変化させてきた。1961年、1966年、'70年代後半とである。しかし、今回の完全NA化は、それほど大きな変化をもたらさなかったと言える。
 セナは精神的に疲れ、オフシーズンを故郷でひっそりと過ごした。レースに出られるかどうかさえ、まだハッキリしていないのだ。
 今季、日本の鈴木亜久里とヤマハエンジンは、全戦予備予選落ちという屈辱を味わった(ただし、チームメイトのB.シュナイダーは2回通過し、決勝リタイヤという成績)。
 入賞者が29名とは歴代最多である。また失格を受けた者が7名というのも歴代最多である。
 入賞したコンストラクターが16というのも歴代最多、表彰台に立ったコンストラクターが10というのも('78年と並んで)歴代最多、失格を受けたものが7も同様である。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ルネ・アルヌー Rene Arnoux
 1980年、'81年、'83年と、低率で他者と並んでではあったが、3回PP王になった。通算PP18回とは、非・チャンピオンのなかで最多である。キャリア後半、青旗に従わずに通せんぼをすることで、日本のファンに有名になった。レース後に、執拗なブロックのことを抗議してきた若手に対し、「悔しかったら、7勝してみな!」と言って、追い返したこともあったという。'82年のチームオーダー無視、'85年のフェラーリからの突然解雇、'87年のアルファロメオ・エンジンへの悪態など、他にもいくつかの問題を起こした。そんなアルヌーだが、1979年フランスGPでのG.ヴィルヌーヴとの白熱した2位争いは、F1史の名場面の一つとなっている。
生年月日 1948年7月4日
国籍 フランス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1978マルティニ-6
1979ルノー82214
1980ルノー623414
1981ルノー94114
1982ルノー625116
1983フェラーリ334215
1984フェラーリ6216
1985フェラーリ171
1986リジェ816
1987リジェ1914
1988リジェ-14
1989リジェ239
71812149

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