別ウインドウです。読み終わったら閉じてください。


  F1今昔物語 1987年 ダイジェスト

前年へ / シーズン中盤へ  / シーズン後へ / 翌年へ

 ■ シーズン前
 全16戦中、11戦が有効。
 日本人初のフル参戦ドライバーとして、中嶋悟がロータスからデビューした。G.ベルガーがフェラーリに抜擢され、S.ヨハンソンはマクラーレンに移籍した。
 ロータスは黄色いキャメルカラーに変わった。同99Tでは、コンピュータによる制御によって、常に理想的な車高を保とうとする、アクティブ・サスペンションに挑戦した。
 低迷が続くフェラーリのマシンは、J.バーナードが原型を作り、G.ブルナーが設計、H.ポスルスウェイトが改良を加える、という紆余曲折を経て、ようやっと勝利を狙えるマシンに仕上がった。
 ラルース-ローラと前年のハース-ローラには何の関係もない。G.ラルースのチームで、車体がローラ製ということである。監督のジェラール・ラルースは、マトラでル・マンを3連覇したことがある名ドライバー。ディディエ・カルメルという人が共同オーナーだったが…。
 リジェのエンジン選びが難航した。アルファロメオと話を進めていたが、同社の経営不振やドライバーの舌禍事件もあったりして、直前で決裂した。リジェは大急ぎでメガトロンと契約を結んだ。メガトロンとは、イギリスのエンジン・メーカーである。BMWの直4ターボエンジンの全権利を買い取って、独自にエンジンを開発した。
 ターボエンジンのブースト圧が4バールまでとされ、無過給エンジンは排気量が3.5リッターまで拡大された。両者の差は縮まる方向になり、'89年にはターボエンジンは姿を消すことになっている。今季は、資金的にターボエンジンに見切りをつけたチームも多く、NAエンジン勢を対象に、ジム・クラーク・カップ(ドライバー)、コリン・チャップマン・カップ(コンストラクター)という大会が設けられた。彼らが用いたフォード-コスワースDFZとは、往年の名エンジン、フォード-コスワースDFVの排気量を3.5リッターにしたものである。

チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン MP4/3 TAG-ポルシェ(V6ターボ) 1、アラン・プロスト
2、ステファン・ヨハンソン
残留
フェラーリ
GY
ティレル DG016 フォードDFZ(V8) 3、ジョナサン・パーマー
4、フィリップ・ストレイフ
ザクスピード
残留
GY
ウィリアムズ FW11B ホンダ(V6ターボ) 5、ナイジェル・マンセル
6、ネルソン・ピケ
残留
残留
GY
ブラバム BT56 BMW(L4ターボ) 7、リカルド・パトレーゼ
8、アンドレア・デ・チェザリス
残留
ミナルディ
GY
ザクスピード 871 ザクスピード(L4ターボ) 9、マーティン・ブランドル
10、クリスチャン・ダナー
ティレル
アロウズ
GY
ロータス 99T ホンダ(V6ターボ) 11、中嶋 悟
12、アイルトン・セナ
新人
残留
GY
AGS JH22 フォードDFZ(V8) 14、パスカル・ファブル
14、ロベルト・モレノ
新人
新人
GY
マーチ 871 フォードDFZ(V8) 16、イヴァン・カペリ
新人
GY
アロウズ A10 メガトロン(L4ターボ) 17、デレック・ワーウィック
18、エディー・チーバー
ブラバム
復帰
GY
ベネトン B187 フォード(V6ターボ) 19、テオ・ファビ
20、ティエリー・ブーツェン
残留
アロウズ
GY
オゼッラ FA1G アルファロメオ(V8ターボ) 21、アレックス・カフィ 残留 GY
ミナルディ M186 モトーリ・モデルニ(V6ターボ) 23、アドリアン・カンポス
24、アレッサンドロ・ナニーニ
新人
残留
GY
リジェ JS29B メガトロン(L4ターボ) 25、ルネ・アルヌー
26、ピエルカルロ・ギンザーニ
残留
オゼッラ
GY
フェラーリ F187 フェラーリ(V6ターボ) 27、ミケーレ・アルボレート
28、ゲルハルト・ベルガー
残留
ベネトン
GY
ラルース-ローラ LC87 フォードDFZ(V8) 30、フィリップ・アリオー リジェ GY
コローニ FC187 フォードDFZ(V8) 32、ニコラ・ラリーニ 新人 GY
 ■ 4月12日 第1戦 ブラジル
 フジテレビの記念すべき第1回目の放送である。東京のスタジオは大川和彦アナと岡田美里アナ、現地からは実況・野崎昌一アナと解説・今宮純という布陣で放送された。ピットレポーターは、永田康和という人である。テーマソングに T-Square(当時はThe Square) の「Truth」が起用された。これは現在まで続いていて、日本人にとってF1のイメージの代表格になっている。
 ウィリアムズ勢がいきなり予選で下位を2秒近く引き離した。A.カンポスが、フォーメーションラップに遅れて失格となった。マーチのI.カペリはエンジン・トラブルでスタートせず。
 勝者A.プロストのFLは、全体の10番目(資料によっては9番目)である。FL首位のN.ピケとは2秒差だが、レースが終わってみると、40秒の差がついていた。

 ■ 5月3日 第2戦 サンマリノ
 予選でピケが大クラッシュを起こした。あのタンブレロコーナーである。ピケは脳震盪でレースを欠場し、以後、シーズン中盤まで頭痛に悩まされることになる。
 タンブレロコーナーは'89年にベルガー、'92年にパトレーゼがクラッシュ。何の対策も取られぬまま、'94年にセナが事故死することになる。

 ■ 5月17日 第3戦 ベルギー
 セナ、マンセルが激しいバトルを演じたあと衝突し、共にリタイアとなった。その後、ピットでひと悶着があったらしい。
 上位陣がことごとくリタイヤし、完走した者はプロスト以外みな予選10位以下となった。
 そんなわけで、A.デ・チェザリスが3位表彰台に立った。今季の入賞は本戦のみとなる。というよりも、完走ですら最終戦しかなく、他はことごとくリタイヤで終えた。結果、12連続リタイヤという、'80年代最高の記録をつくった。'85年にマシンを壊しすぎてリジェを解雇されたあと、昨季のミナルディ、今季のブラバムと、32戦でリタイヤの回数は28回に及んだ。すっかり壊し屋のイメージが定着してしまった。

 ■ 6月21日 第5戦 アメリカ東
 昨年、セナは予選でチームメイト(J.ダンフリース)に常に2秒以上の差をつけた。今季も、中嶋悟を相手に同様の速さを見せた。モナコ、デトロイトというテクニカルな市街地コースにおいて、二人のタイム差は大きく開いた。特に、本予選では8秒以上の差になった。
 セナはその勢いのまま、決勝でも公道コースを連勝し、ポイントランキングでトップに踊り出た。

 ■ 7月5日 第6戦 フランス
 ポイントの上位に四天王がきれいに並んだ。予選でも、本戦では4人が下位を1秒近く離した。昨年の再来かと思われたが、もっと詳細を見ると、ウィリアムズの二人が他の二人から速さで抜きん出ていた。

 ■ 7月12日 第7戦 イギリス
 猛暑で多くのマシンがリタイヤするなか、中嶋悟が2周遅れながらも4位に浮上した。結果、ホンダ・エンジンが1位から4位までを独占するという快挙が達成された。
 また、マンセルが二度のフェイントのあと、ピケをハンガーストレートでオーバーテイクした。このシーンは当時のモービルのCMに使われた。

 ■ 7月26日 第8戦 ドイツ
 地元でポルシェ・エンジンが速かった。しかし、トップをひた走るプロスト、最後の4周でそのエンジンがブローした。
 エンジン関係のリタイヤは14台に及んだ。マンセルのリタイアで、ピケが今シーズン初優勝をあげ、ランキングトップに踊り出た。
 また、パスカル・ファブルというAGSのドライバーの完走が途絶えた。これまで、テールエンダーとして7戦連続で完走を続けていた。

ページ先頭へ

 ■ 8月16日 第10戦 オーストリア
 予選で、S.ヨハンソンが哀れな鹿をひき殺し、クラッシュするというハプニングがあった。
 決勝スタートでも多重事故が連続して発生し、赤旗中断が2回あった。エステルライヒリンクはコース幅が狭くて危険だということで、この年が最後になった。1997年に改修されてA1リンクとして復活する。
 ハプニングはレース後も続いた。勝者マンセルが、表彰台に向かう車で立ち上がって観客に手を振ろうとしたところ、頭を橋げたに強くぶつけてしまった。痛み(&恥ずかしさ?)のために顔面蒼白になって彼は表彰台に立った。
 セナの予選7位決勝5位という成績は、ピットスタートから入賞圏内への追い上げ、追突で9位まで落ちてさらに追い上げた末のものである。

 ■ 9月20日 第12戦 ポルトガル
 プロストが、J.スチュワートが持っていた通算最多勝利の記録を塗り替える、28勝目をあげた。
 一方で、ピケが9戦連続で表彰台に立ち、当時の最多連続記録に並んだ。異様な安定性を示しつつ、ポイントランキングでも独走を見せている。

 ■ 10月18日 第14戦 メキシコ
 ピケが勝利したならば、チャンピオン決定となるレース。しかし、彼はプロストと接触して最下位へ落ちた。プロストは、後にリタイアし、チャンプ争いから脱落した。
 32周目、D.ワーウィックの大事故で赤旗中断となり、初のツーヒート制が実施された。それまでの31周と、以後の32周のタイムを合計してレース結果とするものである。当初は68周する予定だったが、中断時間の影響で短縮された。
 55周目、セナはリタイヤした。このときマーシャルに押し掛けを要求するも断られ、ひと悶着を起こしたという。
 マンセルがシーズン終盤の連勝で、ピケを追うタイトル争いにただ一人踏みとどまった。ここまでシーズン6勝で最多勝が確定した。さらにここまで全戦をフロントローからスタートしている。つまり予選が1位か2位かであり、速さは抜群であった。

 ■ 11月1日 第15戦 日本
 ☆鈴鹿…'76、'77年の富士から10年の歳月を経て、再び日本でF1が開催されることになった。三重県鈴鹿市に位置するこのサーキットは、珍しく立体交差を持ち、テクニカル部分と高速部分がバランス良く配置されている。ドライバーからの評価も高く、F1を代表するサーキットの5本指には入る。毎年シーズン終盤に開催されるため、チャンピオン決定の場となることが多い。故に、これまで数々の名勝負・名場面が演じられた。
 金曜日の予選のS字コーナーで、マンセルが派手なクラッシュを演じ、背骨を痛めて以後を欠場することになった。チャンピオン争いはあっけない形で決着を迎えた。
 中嶋悟は、予選で自己最高の11位につけた。セナとのタイム差も1秒を切っている。地元で勝ちたいホンダ勢だったが、セナが7位、ピケが5位と、いつもの冴えが見られなかった。
 決勝は、PPのベルガーの独走となった。フェラーリの1985年からの未勝利は、38戦で幕を閉じた。セナが最終ラップでS.ヨハンソンを下して2位となり、何とかホンダの面目を保った。中嶋悟も母国の期待に応えて6位入賞を果たした。

 ■ 11月15日 最終の第16戦 オーストラリア
 マンセルの代役として、ブラバムのR.パトレーゼがウィリアムズに移籍してきた。マンセルと言えばレッドファイブ(赤いカーナンバーのこと)が有名だが、別人が乗った一例である。パトレーゼとウィリアムズの関係は翌年以降もずっと続き、彼は再びトップドライバーの一員に返り咲く。
 5位のY.ダルマスは生涯唯一の入賞である。ただし、チームが選手権に1台しか登録していないため、コンストラクターの得点には加算されない。セナは2位でチェッカーを受けたものの、レース後の車検でブレーキ・ダクトのサイズに違反があったため失格となった。

 ■ シーズン後
 ジム・クラーク・カップは、ティレルのJ.パーマーが制した。コリン・チャップマン・カップはティレルが大差で制した。
 ロータスのアクティブ・サスペンションは、結局、暗中模索のまま真価を発揮せずに終わった。往年の名チーム・ロータスは苦しい低迷期間に入った。
 一時代を築いたBMWエンジンが、この年かぎりでF1から撤退した。13年後の2000年に復活し、現在のワークス体制での参戦へと続く。同様に一時代を築き、今季も3勝したTAG-ポルシェエンジンも撤退した。
 また、'85年から今季まで主にミナルディにエンジンを供給していたモトーリ・モデルニも撤退を表明した。こちらは一時代を築くどころか、多くのリタイヤによって廃品の山を築いた。通算完走率10.5%という記録が残った。監督は、かつてフェラーリ(F1)やアウトデルタ(GT、スポーツカー)で活躍したC.キティである。
 チームでも、ブラバムがいったん活動を休止した。

前年へ / シーズン前へ  / シーズン中盤へ / 翌年へ




別ウインドウです。読み終わったら閉じてください。


inserted by FC2 system