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  F1今昔物語 1986年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 全16戦中、11戦が有効。
 ガソリンの使用量が220リットルから195リットルに減った。
 N.ピケがウィリアムズに移籍した。かといって、チームメイトのマンセルも侮れない。成長著しいセナ。三度続けて涙を流したプロストの悔しさも、昨年の栄冠だけですすがれるものではないだろう。この4名にK.ロズベルグを加えた5人が、ギャング・オブ・ファイブと呼ばれ、今季のどのレースでも主力となった。
 ピケはブラバムを去る前、きわめて車高の低いマシンを、チームに依頼していた。ピケは去ったが、G.マーレーは開発を進め、エンジンを横置きにした革新的形状のBT55ができあがった。その低さたるや、ドライバーの胴体がどう収まっているのか不可解なほどで、"スケートボード"などとあだ名がついた。
 ハース-ローラの"ローラ"とは、'62年にデビュー戦でポールポジションを飾ったり、'67年にホンダと組んだりした、エリック・ブロードレイの車体専門供給者、LOLAのことである。しかし、同社は今回、名義を貸しただけで、実際の開発には全く携わっていない。一方で、"ハース(HAAS)"とは、アメリカの実業家カール・ハースのことである。マネージャーはテディ・メイヤーで、スポンサーに食品会社ベアトリクスを、ドライバーもA.ジョーンズにP.タンベイと豪華な顔ぶれを揃えたプロジェクトであった…。スポンサー名ベアトリクスで呼ばれることもあり、名前がややこしいチームである。
 フランク・ウィリアムズが開幕前に交通事故に遭い、今シーズンをまるまる療養にあてることになった。イギリスGPのときに現われた彼は、車椅子の姿になっていた。
チーム/マシン名 エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン MP4/2C TAG‐ポルシェ(V6ターボ) 1、アラン・プロスト
2、ケケ・ロズベルグ
残留
ウィリアムズ
GY
ティレル 015 ルノー(V6ターボ) 3、マーティン・ブランドル
4、フィリップ・ストレイフ
残留
リジェ
GY
ウィリアムズ FW11 ホンダ(V6ターボ) 5、ナイジェル・マンセル
6、ネルソン・ピケ
残留
ブラバム
GY
ブラバム BT55 BMW(L4ターボ) 7、リカルド・パトレーゼ
8、エリオ・デ・アンジェリス他
アルファロメオ
ロータス
PI
ロータス 98T ルノー(V6ターボ) 11、ジョニー・ダンフリース
12、アイルトン・セナ
新人
残留
GY
ザクスピード 861 ザクスピード(L4ターボ) 14、ジョナサン・パーマー
29、ヒューブ・ロテンガッター
ザクスピード
オゼッラ
GY
ハース-ローラ THL2 フォード(V6ターボ) 15、アラン・ジョーンズ
16、パトリック・タンベイ
復帰
ルノー
GY
アロウズ A8 BMW(L4ターボ) 17、マルク・スレール他
18、ティエリー・ブーツェン
ブラバム
残留
GY
ベネトン B186 BMW(L4ターボ) 19、テオ・ファビ
20、ゲルハルト・ベルガー
残留
アロウズ
GY
オゼッラ FA1G、FA1H アルファロメオ(V8ターボ) 21、ピエルカルロ・ギンザーニ
22、クリスチャン・ダナー他
トールマン
新人
PI
ミナルディ M185B、M186 モトーリ・モデルニ(V6ターボ) 23、アンドレア・デ・チェザリス
24、アレッサンドロ・ナニーニ
リジェ
新人
PI
リジェ JS27 ルノー(V6ターボ) 25、ルネ・アルヌー
26、ジャック・ラフィー他
フェラーリ
残留
PI
フェラーリ F186 フェラーリ(V6ターボ) 27、ミケーレ・アルボレート
28、ステファン・ヨハンソン
残留
残留
GY
AGS JH21C モトーリ・モデルニ(V6ターボ) 31、イヴァン・カペリ 新人 PI


 ■ 4月13日 第2戦 スペイン
 ☆ヘレス…スペイン南部に位置する。'86年〜'90年にスペインGPとして、'94年・'97年にヨーロッパGPとして、F1が開催された。近年はテストコースとして有名である。
 セナとマンセルが、0.014秒差でゴールするという激闘を演じた。

 ■ 5月25日 第5戦 ベルギー
 レース前、ポールリカールでのテスト中に起こったクラッシュによって、E.デ・アンジェリスが死んだ。救護体制に不備があったための惨事とも言われている。彼の後任はD.ワーウィック。また、ラリーに参戦していたM.スレールも瀕死の重傷を負うクラッシュに遭い、そのまま引退した。アロウズのシートにはC.ダナーが座った。
 通算で表彰台13回を数えるヨハンソンだが、先頭を走ったのは、前年サンマリノでの1周とこのレースでの2周だけである。フェラーリは昨年後半の不振を引きずっている。

 ■ 7月13日 第9戦 イギリス
 再びドライバーがサーキットを去る事態が発生した。ジャック・ラフィーがスタート直後の多重事故に巻き込まれ、両足を複雑骨折したのだ。そのまま彼はF1を引退した。この一戦は、当時の最多参戦記録である176戦に並んだものであったが、この事故により更新はならなかった。
 以後、リジェには代わりにP.アリオーが乗る。リジェは、ここまでラフィーとアルヌーで入賞10回を数えていたが、どこか勢いが翳った。
 一方で、ティレルがダブル入賞を果たした。失格騒ぎの年以降、シングルグリッドが望めない状況が続くものの、今季は要所々々で結果を残し、下位チームの上位という位置づけになった。

 ■ 7月27日 第10戦 ドイツ
 K.ロズベルグが今シーズン限りでの引退を表明した。会見直後の予選でポールポジションを奪ってみせるのが、いかにも彼らしい。
 A.プロストは、2位でゴールする直前にガス欠でマシンが止まった。彼は執念の押しがけを見せた。感動したスタンドから多大なる拍手が送られた。マクラーレンはロズベルグにもガス欠が起こった。

 ■ 8月10日 第11戦 ハンガリー
 ☆ハンガロリンク…東ヨーロッパ初のF1開催地で、現在まで続いている。すべて盛夏の時期の開催である。丘陵地帯にある曲がりくねった低速コース。さらに、F1以外で使われることが少ないため、路面が埃っぽい。そのため極めてオーバーテイクしにくい。「ガードレールのないモナコ」と呼ばれるほどである。路面の埃っぽさも尋常でなく、スタートでは偶数列が不利となる。
 東欧初のF1は、セナとピケの白熱した名戦として、とても名高い。最後にピケが4輪ドリフトを効かせて、セナを強引に外側からオーバーテイクしていった。
 有力者の5人で入賞が占められる趨勢において、J.ダンフリースの入賞は見事である。セナのチームメイトだが、翌年からシートを失う。スコットランドの名門貴族の生まれである。

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 ■ 8月17日 第12戦 オーストリア
 シーズンを通して予選上位を維持していたベネトンが、初のポールポジションをフロントローで飾った。BMWエンジンとしては、ブラバム時代から数えて、5季連続のポールポジションである。翌年からターボエンジンへの規制がいっそう強まる。この年がターボ開発の頂点だった。当時のBMWエンジンは噂では1500馬力あったと言われる。
 決勝ではプロストが勝ったものの、入賞者のなかにいつもの5人が揃わなかった。
 2位3位はフェラーリだった。今季の戦力は前述したとおりで、ベネトンやリジェと共に、中堅の上位という位置に成り下がってしまった。
 4位5位にハース-ローラの二人が入った。彼らは予選でも後方に沈み、今回に続く入賞も翌戦の6位のみである。優勝経験者の二人としては、晩節を汚す結果となった。
 続いてC.ダナーが初の6位入賞を果たした。アロウズの入賞も今季はこれっきりである。

 ■ 9月7日 第13戦 イタリア
 テオ・ファビは通算3度目のポールポジションである。ここモンツァではファステストも記録した。冴えない顔をしているが、やるときはやるドライバーである。
 しかし、彼は3度も先頭からスタートする利を得たものの、一度もレースを先導していないという珍記録を持っている(非ラップリーダーのなかで最多ポールポジションということ)。

 ■ 10月12日 第15戦 メキシコ
 メキシコにて1970年以来のF1である。ベネトンはデビューから15戦目のスピード優勝を果たした。'80年代唯一の新興チームの優勝である。ノンストップ作戦にピレリタイヤが耐えたのだった。ピレリタイヤにとっても初優勝である。
 ドライバーのG.ベルガーも初優勝である。ここまで、ずっと四天王だけが勝利を分け合い、表彰台も(14戦×3の)42のうちの34を彼らが占めていた。ベルガーのこの1勝は高く評価され、シーズン後、彼はフェラーリに抜擢されることとなる。
 ミナルディの二人が15戦目にしてやっと完走を果たした。この年の完走は、二人とも今回だけである。

 ■ 10月26日 最終の第16戦 オーストラリア
 予選で四天王が上位を占めたのはこの年、5回目になる。
 年配のF1ファンの方々にとって、この'86年が最も面白かったシーズンとして評されることもある。それはこのアデレードでの劇的な締めくくりに拠るところが大きい。最終戦を迎えて、タイトル争いは3人に絞られていた。マンセルが一歩抜け出していて、今回3位以上に入れば自力でチャンピオンであった。ピケとプロストは、優勝する以外にチャンスはなかった。同じチームと言えど、ピケがマンセルに順位を譲ることはない。シーズンが進むにつれて、マンセルが徐々に力を示し始めると、チームはジョイントNo1体制を採るようになったからだった。フランク代表が陣頭指揮をとっていたら、どうだったか分らないが…。
 決勝1周目、マンセルが絶妙なスタートを決めるも、第一シケインでのセナとの攻防に敗れ、ピケとロズベルグにも抜かれてしまった。裏側の長いストレートに入ると、ピケがセナをオーバーテイクした。ピケ、セナ、ロズベルグ、マンセル、プロスト、ベルガーでの順で翌周へ進む。
 これが最後の一戦となるロズベルグが、封印していた全開走行を始めた。すぐにセナを下し、ピケに迫っていく。7周目にトップに踊り出た。この時点で、ロズベルグ、ピケ、マンセル、プロスト、セナ、ベルガーの順。
 11周目、プロストがマンセルを抜いた。セナとベルガーが離されて、上位はマクラーレンとウィリアムズの2台という、分りやすい構図になった。ロズベルグが独走体制に入り、ピケとプロストが僅差、少し後ろにマンセルだった。
 23周目、ピケが周回遅れの処理に失敗し、スピンした。ロズベルグ、プロスト、マンセル、ピケの順になった。
 32周目、プロストは周回遅れのベルガーにわずかに接触し、タイヤがパンクした。ピットインして大きく後退した。このときグッドイヤーは、プロストのタイヤを見て磨耗が少なかったため、各チームに"タイヤ交換の必要なし"の指示を出した。
 44周目、ピケがマンセルを抜いた。しかし未だマンセルは3位。勝つ以外にないプロストは猛追を見せ、2位以下のチャンピオン候補が一つの集団となった。
 63周目、レースは重大な局面を迎えた。全開走行で独走中のロズベルグの右リアタイヤが、バーストしたのだった。コース脇にマシンが止まった。いまキャリアの全てを終えたロズベルグ…、しばらくして2位周団がそばを通過するとき、彼は親指を立ててプロストに、真剣に戦っている者同士にしかわからない何らかのメッセージを送った。
 続く64周目、マンセルの左リヤタイヤがバーストした。トップスピードの状態でバランスが崩れ、下部から猛烈な火花が走るマシン。マンセルは、才能のある者にしかできないコントロールでクラッシュを防ぎ、エスケープゾーンにマシンを止めた。
 ピケはタイヤ交換の必要性を感じ、ピットインした。プロストは既にタイヤ交換を済ませているが、燃費の問題もあり、全力では走れない。ピケは最終周にファステストラップをたたき出す猛追を見せたが、4秒差でプロストがトップチェッカーを受けた。タイトルはプロストのものになった。

 ■ シーズン後
 今季のPP王はA.セナ、FL王はN.ピケ、最多勝はN.マンセル、そしてタイトルはA.プロストというように分かれた。四天王が持てる力を出し切って、収まるところに収まった結果と言える。
 連続チャンピオンというと、現在は珍しいという気はしないが、当時はJ.ブラバム以来26年ぶり4人目の快挙であった。A.プロストは通算勝利数でも最多を狙える位置に立ち、名実共に偉大なドライバーの一人となった。
 ホンダは、初のチャンピオンカーのエンジンとして、歴史にその名を残すこととなった。そのホンダエンジンが翌年ロータスにも供給されること、また日本人ドライバーの中島悟がセナのチームメイトとなることが、夏のうちに発表されていた。加えて、翌年から鈴鹿サーキットで日本GPが開催されることが決まった。同国では一気にF1ブームが巻き起こった。
 BT55のブラバムはトラブル多発で、入賞は序盤の2回に留まった。メインスポンサーが変わるなど兆候はあったものの、大きな転落であった。意欲作が大失敗だったことから、ゴードン・マーレイはブラバムを去った。来季はマクラーレンに移籍し、今一度、大仕事を成し遂げることになる。
 ピレリタイヤが撤退を表明した。ルノーはエンジン供給者としても撤退した。そのために来季からリジェの戦力も落ちる。ハース-ローラも撤退した。
 事故が相次いだことから、FIAはさらなるターボエンジン規制を敷いた。今や予選用エンジンは1400馬力を超えていた。翌年から漸次ブースト圧を下げていき、同時に非過給エンジンを有利にし、'89年からは全車非過給にするという計画が発表された。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ケケ・ロズベルグ Keke Rosberg
 本名を、ケイヨ・エリク・ロスベルイという。常にアクセル全開、暴れるマシンを腕力でねじ伏せ、コーナーではカウンターステアいっぱいにあてる、、、という荒々しいドライビングが持ち味。それは、燃料やタイヤを気にしながら頭脳的に走る'80年代後半のF1とは、相容れないスタイルであった。喫煙者というのも珍しい。引退後は、スポーツカーで走ったり、ハッキネンやJ.J.レートなど、母国の若手ドライバーのマネージメントを勤めた。息子のニコ・ロズベルグも現在F1を走っている。
生年月日 1948年12月6日
国籍 フィンランド
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1978セオドール
ATS
ウルフ
-9
1979ウルフ-7
1980フィッティパルディ1011
1981フィッティパルディ-9
1982ウィリアムズ覇者1115
1983ウィリアムズ51115
1984ウィリアムズ8116
1985ウィリアムズ322316
1986マクラーレン6116
553114


ジャック・ラフィー Jacques Laffite
 ジャック・ラフィットと表記されることもある。メカニックからの転向組で、デビューが31歳と遅かった。にも関わらずの最多参戦記録であった。しかも最後の2年で表彰台に5回立っている。ゴルフも相当な腕前らしい。プロストと仲がよい。J-P.ジャブイユとは義理の兄弟になる(二人の奥さんが姉妹)。2005年のGPマスターズに最年長で参戦した。
生年月日 1943年11月21日
国籍 フランス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1974イゾ・ウィリアムズ-5
1975ウィリアムズ1210
1976リジェ71116
1977リジェ101117
1978リジェ816
1979リジェ424215
1980リジェ411114
1981リジェ421115
1982リジェ1715
1983ウィリアムズ1113
1984ウィリアムズ1416
1985リジェ9115
1986リジェ89
677176


アラン・ジョーンズ Alan Jones
 大抵のチャンピオンは、実績のあるチームで初勝利をあげ、その勢いのまま或いはさらに強いチームに移籍したりなどして、チャンピオンへの道を進む。だから、ジョーンズのように、初勝利も初のチャンピオンも、それまで実績のないチームにおいて成し遂げるというのは、極めて稀な例になる。その人となりは、礼儀正しい紳士の面もあったり、人を食ったような発言もあったりで、捉えどころがない。引退後は、母国で農場を経営しているという。
生年月日 1946年11月2日
国籍 オーストラリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1977シャドウ7114
1978ウィリアムズ11216
1979ウィリアムズ343115
1980ウィリアムズ覇者53514
1981ウィリアムズ32515
1983アロウズ-1
1985ハース-ローラ-3
1986ハース-ローラ1216
1261394


パトリック・タンベイ Patrick Tambay
生年月日 1949年6月25日
国籍 フランス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1977エンサイン177
1978マクラーレン1315
1979マクラーレン-13
1981セオドール
リジェ
1814
1982フェラーリ716
1983フェラーリ414115
1984ルノー111115
1985ルノー1115
1986ハース・ローラ1514
252114


エリオ・デ・アンジェリス Elio de Angelis
 ピアノを趣味とする物静かなイタリアン。「デ」と冠されていることから、貴族の家系の出身であることがわかる。ピアノはプロ並みの腕前で、1982年南アGPでのボイコット騒動のとき、彼の演奏によって、その場の空気が和んだと言われている。彼の事故死をきっかけとして、テストにおいてもレース中と同じような救護体制がとられるようになった。
生年月日 1958年3月26日
没年月日 1986年5月15日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1979シャドウ1514
1980ロータス714
1981ロータス814
1982ロータス9115
1983ロータス17115
1984ロータス3116
1985ロータス51116
1986ブラバム-4
230108

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