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  F1今昔物語 1980年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 前半7戦中5戦と、後半7戦中5戦が有効得点である。コンストラクターは総得点制が据え置かれた。
 レガッツォーニがウィリアムズを離脱し、空いたシートに座ったロイテマンがチャンピオン獲得に挑む。空いたロータスに2年目のE.デ・アンジェリスが、リジェには3年目のD.ピローニが座った。マクラーレンから新人のA.プロストが登場した。N.マンセルやA.デ・チェザリスのデビューもこの年である。
 リジェの新車は前年のJS11の改良型。サイドポッドが高速コース用と低速コース用とに分別される。
 フィッティパルディは、前年のウルフの設備を引き継いだ。ハーベイ博士も同時に移籍した。アルファロメオはドゥパイエを招いて2カー体制を敷いた。

 F1はビッグビジネス化によって、旧来のプライベーターは事実上参戦不可能になった。よって、F1のチーム体制は、フェラーリやルノーの【チーム=コンストラクター=エンジンメーカー】と、ウィリアムズ・マクラーレンのような【チーム=コンストラクター≠エンジンメーカー】だけになり、チームとコンストラクターはほぼ同義語になった。
 すると、1959年で述べたような「ワークス」の意味合いもとうぜん変化する。それは、前者の"メーカー系コンストラクター"のことを指すようになった。
チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(F12) ジョディー・シェクター
ジル・ヴィルヌーヴ
残留
新人
MI
ウィリアムズ フォードDFV アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
残留
ロータス
GY
リジェ フォードDFV ディディエ・ピローニ
ジャック・ラフィー
ティレル
残留
GY
ロータス フォードDFV マリオ・アンドレッティ
エリオ・デ・アンジェリス
残留
シャドウ
GY
ティレル フォードDFV J-P.ジャリエ
デレック・デイリー
残留
エンサイン
GY
ルノー ルノー(V6ターボ) J-P.ジャブイユ
ルネ・アルヌー
残留
残留
MI
マクラーレン フォードDFV ジョン・ワトソン
アラン・プロスト
残留
新人
GY
ブラバム フォードDFV ネルソン・ピケ
リカルド・ズニーノ
ヘクトール・レバーク
残留
新人
ロータス
GY
アロウズ フォードDFV リカルド・パトレーゼ
ヨッヘン・マス
残留
残留
GY
ATS フォードDFV マルク・スレール
ヤン・ラマース
新人
シャドウ
GY
フィッティパルディ フォードDFV エマーソン・フィッティパルディ
ケケ・ロズベルグ
残留
ウルフ
GY
アルファロメオ アルファロメオ(V12) パトリック・ドゥパイエ
ブルーノ・ジャコメリ
リジェ
残留
GY
エンサイン フォードDFV クレイ・レガッツォーニ
他多数
ウィリアムズ
 
GY

 ■ 1月27日 第2戦 ブラジル
 R.アルヌーの初優勝である。知的な開発者で紳士のジャブイユとは対照的な、陽気な走り屋といったタイプの青年である。速さに関しては、ルノー2年目にして先輩ジャブイユを上回っていた。
 マクラーレンのプロストがデビューから2戦連続の入賞を果たした。次戦南アGPの予選中に腕を骨折するが、復帰後もベテランのジョン・ワトソンと遜色のない走りを見せる。

 ■ 3月30日 第4戦 アメリカ西
 ATSのヤン・ラマースが予選で4位につけた。下位チームでの奮闘といえば、フィッティパルディのほうがすごい。予選でPPから3.6秒落ちのマシンにも関わらず同一周回でレースを終え、3位表彰台に立ったのである。下位からの表彰台部門では、'54年のO.マリモンには敵わないが…。
 レガッツォーニが大クラッシュに遭った。ストレート後の減速地点においてブレーキが壊れたのだ。フルスピードのままリタイヤ車を弾き飛ばし、コンクリートウォールに突っ込んだ。彼は、一命は取り留めたものの、下半身付随になった。
 前年の勢いを維持するウィリアムズやルノーがここまで好調だったが、ブラバムの2年生N.ピケが初PPを決めると、そのまま優勝をもさらっていった。

 ■ 5月4日 第5戦 ベルギー
 今度はリジェのD.ピローニが、予選2位から全周回1位で初勝利を遂げた。ここまでの5戦で初勝利が三つ。'80年シーズン前半は、フレッシュな顔ぶれによる優勝争いが繰り広げられた。
 D.ピローニは、この時期にフェラーリからのヘッドハンティングを受け、翌年の移籍を決めた。オーナーのギ・リジェは、この移籍が明らかになったとき憤激した。彼はピローニを、フランスチームのなかのフランス人エースに育てようと思っていたのだ。

 ■ 5月18日 第6戦 モナコ
 ルノーのターボエンジンはモナコに弱い。2年連続で下位に沈むことになった。
 これはアロウズの唯一のファステストラップになっている。が、コースコンディションから判断すると、このタイムは疑わしく、ロイテマンが40周目に記録したタイムが本当のFLであると言われている。
 フェラーリがまったくダメ。予選成績は10位前後というところで、ニューマシンは速さで見劣りがした。決勝でも、タイヤのグリップ不足から、フェラーリのみ頻繁なタイヤ交換を強いられた。これでは話しにならない。

 ■ 6月1日 第???戦 スペイン
 この日、スペインGPが開催された。ところが、フェラーリとルノー、アルファロメオの大陸系3チームがサーキットに現れなかった。DFVエンジン車22台でレースが強行され、1位ジョーンズ、2位マス、3位デ・アンジェリスという結果になった。ところが、レースの翌日このGPは違法レースとされ、F1世界選手権から除外されてしまった。
 どうしてこんなことが起こったのだろうか???
 80年代初頭、F1では不毛な政治問題がことあるごとに勃発した。詳細は割愛するし、いろんな描き方があるとは思うが、要するに、ジャン・マリー・バレストルというフランス人と、イギリス人のバーニー・エクレストンとの、F1の運営を巡る個人的な確執が、双方の組織や属する国々のチームをも巻き込んだものと考えてよい。バレストルはFIAおよびFISAという組織を率い、エクレストンはFOCAを率いた。バレストルと関係が強かったチームは、伊フェラーリ、仏ルノーなどの大陸系および企業系、エクレストンのそれはロータスやブラバム、マクラーレンといった英国の独立系コンストラクターであった。最終的にこの争いは、F1が分裂する寸前にまで至った。

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 ■ 7月13日 第8戦 イギリス
 第4の女性ドライバー、南ア出身のデジレ・ウィルソンが予選不通過を記録している。

 ■ 8月10日 第9戦 ドイツ
 オフのテストでP.ドゥパイエが事故死した。マシンは大破し、目撃者もいなかったので、詳しい原因は明らかになっていない。
 直後のドイツGPで勝ったJ.ラフィーは、表彰台で悲しげな沈んだ表情を見せた。
 フェラーリチームはこの頃、'80年の新車の熟成をあきらめ、翌年に向けてターボエンジンの開発に力を移したという。こうして予選順位も下降していく。こういう惨めな状況下でも、ジル・ヴィルヌーヴの決して折れることのない闘魂がファンを魅了しつづけた。

 ■ 8月17日 第10戦 オーストリア
 ジャブイユの通算2勝目。今季初入賞である。ジャブイユは、ルノーの開発エンジニアとドライバーを兼任していた。レースではターボエンジンの限界を確かめるため、リタイヤ覚悟で先行策を採り続けた。極端に言うと、リタイヤしておかしい箇所を見つけるためにレースに出場していたのだ。その結果、彼は入賞率が1ケタという、F1ウィナーの中で唯一の記録をつくった。

 ■ 9月14日 第12戦 イタリア
 このイタリアGPは、実はモンツァではなく、イモラで開かれている。F1史で唯一、モンツァでレースが行われなかったのが、'80年のことである。イモラは翌年からサンマリノGPとして毎年開催されるようになる。
 ☆イモラ…正式名称はアウトードロモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ・サーキットという。エンツォと彼の夭逝した息子のことである。このことからわかるとおり、フェラーリのお膝元と言える。高速コーナーのタンブレロが有名だったが、'87年にピケ、'89年にベルガー、'94年にセナが大クラッシュを起こし、特に最後のセナは命を落とした。いずれも、コーナーを直進してコンクリートウォールに直進するという事故だったために、1995年にシケインに改修された。'94年は、トサ・コーナーでもR.ラッツェンバーガーが死去していて、こちらもシケインに改修された。以降、中低速サーキットとして開催が続けられるが、近年は抜き所のないサーキットとして人気がない。

 ピケが終盤の2連勝によって、タイトル争いのトップに立った。フル参戦2年目だが、冷静に確実にポイントを取るやり方を既に心得ていた。ここまで最多の10の入賞をあげていた。この勝利で7連続入賞である。速さでは他チームに一歩劣るが、安定した強さを持つという点で、昨年のシェクターの経過と重なる。そのままチャンピオンの座もさらえるだろうか!?
 連続入賞といえば、カルロス・ロイテマンも第5戦から入賞を続けている…。

 ■ 9月28日 第13戦 カナダ
 低迷するフェラーリ、ここカナダではJ.シェクターがとうとう予選落ちを喫した。フェラーリの予選落ちは、'60年モナコのC.アリソン(予選で事故)、'71年モナコのM.アンドレッティと今回と、これまで3例しかない(昔のプライベーターを除く)。
 R.ロドリゲスの最年少出走の記録が更新された。19歳182日という年齢で、ティレルからマイク・サックウェルという若者が出走した。しかし、多重事故後にマシンを譲ったので、0周で終わっている。彼はその後、F1で大成することはなかった。
 この多重事故は、なんとタイトルを争うピケとジョーンズの接触によるものだった。ピケはスペアカーに乗り換えた。それでも再開後の3周目に首位に立ち、ジョーンズとの差を広げはじめた。しかし24周目に突如、エンジンがブローした。
 ジョーンズが2位以下なら、僅かながらピケにもチャンスは残っていた。しかし、先頭を走るピローニにスタート時のフライングによって、1分のペナルティが科され、ジョーンズの首位が確定、チャンピオンも決定した。
 ピケのブローの直後、ジャブイユがサスペンションの破損から大クラッシュを演じ、両足骨折の重傷を負った。

 ■ 10月5日 最終の第14戦 アメリカ
 アルファロメオのB.ジャコメリがPPから首位を快走した。結局は今季チーム22回目のリタイヤに終わったものの、翌年への望みにつながる走りであった。テスト中に死んだ異国のベテランに対する、ささやかな弔いにもなっただろう。

 ■ シーズン後
 80年末、マクラーレンはプロジェクト4というチームと合併した。代表はロン・デニス、設計者はジョン・バーナードという体制になった。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
クレイ・レガッツォーニ Clay Regazzoni>
 ロングビーチでのクラッシュによって下半身付随になったレガッツォーニ。以降は、車椅子の生活を続けながら、パリダカールラリーに出場したこともあった。2000年のホンダのCMに登場し、老獪なドライビングを見せた。ところが、2006年冬に交通事故で亡くなった。年1回の優勝が5度。'74年は最終戦までタイトルを争った。スイス人のチャンピオンが現れるのはいつの日のことだろう。
生年月日 1939年9月5日
没年月日 2006年12月15日
国籍 スイス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1970フェラーリ31138
1971フェラーリ7111
1972フェラーリ610
1973BRM17114
1974フェラーリ211315
1975フェラーリ51414
1976フェラーリ511315
1977エンサイン1715
1978シャドウ-11
1979ウィリアムズ51215
1980エンサイン-4
5515132


ジョディー・シェクター Jody Scheckter
 前年のチャンピオンであるJ.シェクターは、今季の低迷を潮時と判断したのか、F1を引退し、レース業界から去った。その後はビジネスマンとして成功を収めている。湾岸戦争時に軍事評論家としてテレビに登場したという。
生年月日 1950年1月29日
国籍 南アフリカ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1972マクラーレン-1
1973マクラーレン-5
1974ティレル32215
1975ティレル7114
1976ティレル311116
1977ウルフ231217
1978ウルフ716
1979フェラーリ覇者3115
1980フェラーリ1913
1035112


エマーソン・フィッティパルディ Emerson Fittipaldi
 母国のチームで5年間戦ったE.フィッティパルディも引退した。引退後、1984年からアメリカのCARTに参戦し、1989年にはタイトルに輝いた。その1989年と1993年とには、インディ500も制した。1993年のミルク一気呑みのとき、自製のオレンジジュースを一気呑みしたため、物議を醸し出したこともあった。
生年月日 1946年12月12日
国籍 ブラジル
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1970ロータス1015
1971ロータス610
1972ロータス覇者5312
1973ロータス231515
1974ロータス覇者3215
1975ロータス22113
1976フィッティパルディ1615
1977フィッティパルディ1214
1978フィッティパルディ916
1979フィッティパルディ2115
1980フィッティパルディ1514
1466144


パトリック・ドゥパイエ Patrick Depailler
 ドゥパイエは2輪レースからの転向生であった。'71年フランスF3チャンピオン、'74年ヨーロッパF2チャンピオン、'78年に69戦目のF1初勝利というように、ゆっくりと確実な歩みでここまでやってきた。煙草をくわえる姿が渋い。ドライバーからの評価が高く、玄人受けする走りを見せた。今季は復帰したばかりの古豪に招かれ、復帰後初勝利の大きな期待が懸けられていたと思われる。惜しまれる死である…。
生年月日 1944年8月9日
没年月日 1980年8月1日
国籍 フランス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1972ティレル-2
1974ティレル91115
1975ティレル9114
1976ティレル4116
1977ティレル817
1978ティレル5116
1979リジェ6117
1980アルファロメオ-8
21495


ヴィットリオ・ブランビラ Vittorio Brambilla
 ブランビラも、実は2輪からの転向生であった。あだ名が「モンツァ・ゴリラ」。'75年の唯一の勝利のときのエピソードが面白く、'76年富士での元気いっぱいの走りが光る。2001年に心臓発作で死去。
生年月日 1937年11月11日
没年月日 2001年5月26日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1974マーチ1811
1975マーチ1111114
1976マーチ1916
1977サーティース1517
1978サーティース1914
1979アルファロメオ-2
1980アルファロメオ-2
11174

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