- ■ シーズン前
- 前半7戦中5戦と、後半7戦中5戦が有効得点である。コンストラクターは総得点制が据え置かれた。
- レガッツォーニがウィリアムズを離脱し、空いたシートに座ったロイテマンがチャンピオン獲得に挑む。空いたロータスに2年目のE.デ・アンジェリスが、リジェには3年目のD.ピローニが座った。マクラーレンから新人のA.プロストが登場した。N.マンセルやA.デ・チェザリスのデビューもこの年である。
- リジェの新車は前年のJS11の改良型。サイドポッドが高速コース用と低速コース用とに分別される。
- フィッティパルディは、前年のウルフの設備を引き継いだ。ハーベイ博士も同時に移籍した。アルファロメオはドゥパイエを招いて2カー体制を敷いた。
- F1はビッグビジネス化によって、旧来のプライベーターは事実上参戦不可能になった。よって、F1のチーム体制は、フェラーリやルノーの【チーム=コンストラクター=エンジンメーカー】と、ウィリアムズ・マクラーレンのような【チーム=コンストラクター≠エンジンメーカー】だけになり、チームとコンストラクターはほぼ同義語になった。
- すると、1959年で述べたような「ワークス」の意味合いもとうぜん変化する。それは、前者の"メーカー系コンストラクター"のことを指すようになった。
チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(F12) |
ジョディー・シェクター ジル・ヴィルヌーヴ |
残留 新人 |
MI |
ウィリアムズ |
フォードDFV |
アラン・ジョーンズ カルロス・ロイテマン |
残留 ロータス |
GY |
リジェ |
フォードDFV |
ディディエ・ピローニ ジャック・ラフィー |
ティレル 残留 |
GY |
ロータス |
フォードDFV |
マリオ・アンドレッティ エリオ・デ・アンジェリス |
残留 シャドウ |
GY |
ティレル |
フォードDFV |
J-P.ジャリエ デレック・デイリー |
残留 エンサイン |
GY |
ルノー |
ルノー(V6ターボ) |
J-P.ジャブイユ ルネ・アルヌー |
残留 残留 |
MI |
マクラーレン |
フォードDFV |
ジョン・ワトソン アラン・プロスト |
残留 新人 |
GY |
ブラバム |
フォードDFV |
ネルソン・ピケ リカルド・ズニーノ ヘクトール・レバーク |
残留 新人 ロータス |
GY |
アロウズ |
フォードDFV |
リカルド・パトレーゼ ヨッヘン・マス |
残留 残留 |
GY |
ATS |
フォードDFV |
マルク・スレール ヤン・ラマース |
新人 シャドウ |
GY |
フィッティパルディ |
フォードDFV |
エマーソン・フィッティパルディ ケケ・ロズベルグ |
残留 ウルフ |
GY |
アルファロメオ |
アルファロメオ(V12) |
パトリック・ドゥパイエ ブルーノ・ジャコメリ |
リジェ 残留 |
GY |
エンサイン |
フォードDFV |
クレイ・レガッツォーニ 他多数 |
ウィリアムズ |
GY |
- ■ 1月27日 第2戦 ブラジル
- R.アルヌーの初優勝である。知的な開発者で紳士のジャブイユとは対照的な、陽気な走り屋といったタイプの青年である。速さに関しては、ルノー2年目にして先輩ジャブイユを上回っていた。
- マクラーレンのプロストがデビューから2戦連続の入賞を果たした。次戦南アGPの予選中に腕を骨折するが、復帰後もベテランのジョン・ワトソンと遜色のない走りを見せる。
- ■ 3月30日 第4戦 アメリカ西
- ATSのヤン・ラマースが予選で4位につけた。下位チームでの奮闘といえば、フィッティパルディのほうがすごい。予選でPPから3.6秒落ちのマシンにも関わらず同一周回でレースを終え、3位表彰台に立ったのである。下位からの表彰台部門では、'54年のO.マリモンには敵わないが…。
- レガッツォーニが大クラッシュに遭った。ストレート後の減速地点においてブレーキが壊れたのだ。フルスピードのままリタイヤ車を弾き飛ばし、コンクリートウォールに突っ込んだ。彼は、一命は取り留めたものの、下半身付随になった。
- 前年の勢いを維持するウィリアムズやルノーがここまで好調だったが、ブラバムの2年生N.ピケが初PPを決めると、そのまま優勝をもさらっていった。
- ■ 5月4日 第5戦 ベルギー
- 今度はリジェのD.ピローニが、予選2位から全周回1位で初勝利を遂げた。ここまでの5戦で初勝利が三つ。'80年シーズン前半は、フレッシュな顔ぶれによる優勝争いが繰り広げられた。
- D.ピローニは、この時期にフェラーリからのヘッドハンティングを受け、翌年の移籍を決めた。オーナーのギ・リジェは、この移籍が明らかになったとき憤激した。彼はピローニを、フランスチームのなかのフランス人エースに育てようと思っていたのだ。
- ■ 5月18日 第6戦 モナコ
- ルノーのターボエンジンはモナコに弱い。2年連続で下位に沈むことになった。
- これはアロウズの唯一のファステストラップになっている。が、コースコンディションから判断すると、このタイムは疑わしく、ロイテマンが40周目に記録したタイムが本当のFLであると言われている。
- フェラーリがまったくダメ。予選成績は10位前後というところで、ニューマシンは速さで見劣りがした。決勝でも、タイヤのグリップ不足から、フェラーリのみ頻繁なタイヤ交換を強いられた。これでは話しにならない。
- ■ 6月1日 第???戦 スペイン
- この日、スペインGPが開催された。ところが、フェラーリとルノー、アルファロメオの大陸系3チームがサーキットに現れなかった。DFVエンジン車22台でレースが強行され、1位ジョーンズ、2位マス、3位デ・アンジェリスという結果になった。ところが、レースの翌日このGPは違法レースとされ、F1世界選手権から除外されてしまった。
- どうしてこんなことが起こったのだろうか???
- 80年代初頭、F1では不毛な政治問題がことあるごとに勃発した。詳細は割愛するし、いろんな描き方があるとは思うが、要するに、ジャン・マリー・バレストルというフランス人と、イギリス人のバーニー・エクレストンとの、F1の運営を巡る個人的な確執が、双方の組織や属する国々のチームをも巻き込んだものと考えてよい。バレストルはFIAおよびFISAという組織を率い、エクレストンはFOCAを率いた。バレストルと関係が強かったチームは、伊フェラーリ、仏ルノーなどの大陸系および企業系、エクレストンのそれはロータスやブラバム、マクラーレンといった英国の独立系コンストラクターであった。最終的にこの争いは、F1が分裂する寸前にまで至った。
- ■ 7月13日 第8戦 イギリス
- 第4の女性ドライバー、南ア出身のデジレ・ウィルソンが予選不通過を記録している。
- ■ 8月10日 第9戦 ドイツ
- オフのテストでP.ドゥパイエが事故死した。マシンは大破し、目撃者もいなかったので、詳しい原因は明らかになっていない。
- 直後のドイツGPで勝ったJ.ラフィーは、表彰台で悲しげな沈んだ表情を見せた。
- フェラーリチームはこの頃、'80年の新車の熟成をあきらめ、翌年に向けてターボエンジンの開発に力を移したという。こうして予選順位も下降していく。こういう惨めな状況下でも、ジル・ヴィルヌーヴの決して折れることのない闘魂がファンを魅了しつづけた。
- ■ 8月17日 第10戦 オーストリア
- ジャブイユの通算2勝目。今季初入賞である。ジャブイユは、ルノーの開発エンジニアとドライバーを兼任していた。レースではターボエンジンの限界を確かめるため、リタイヤ覚悟で先行策を採り続けた。極端に言うと、リタイヤしておかしい箇所を見つけるためにレースに出場していたのだ。その結果、彼は入賞率が1ケタという、F1ウィナーの中で唯一の記録をつくった。
- ■ 9月14日 第12戦 イタリア
- このイタリアGPは、実はモンツァではなく、イモラで開かれている。F1史で唯一、モンツァでレースが行われなかったのが、'80年のことである。イモラは翌年からサンマリノGPとして毎年開催されるようになる。
- ☆イモラ…正式名称はアウトードロモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ・サーキットという。エンツォと彼の夭逝した息子のことである。このことからわかるとおり、フェラーリのお膝元と言える。高速コーナーのタンブレロが有名だったが、'87年にピケ、'89年にベルガー、'94年にセナが大クラッシュを起こし、特に最後のセナは命を落とした。いずれも、コーナーを直進してコンクリートウォールに直進するという事故だったために、1995年にシケインに改修された。'94年は、トサ・コーナーでもR.ラッツェンバーガーが死去していて、こちらもシケインに改修された。以降、中低速サーキットとして開催が続けられるが、近年は抜き所のないサーキットとして人気がない。
- ピケが終盤の2連勝によって、タイトル争いのトップに立った。フル参戦2年目だが、冷静に確実にポイントを取るやり方を既に心得ていた。ここまで最多の10の入賞をあげていた。この勝利で7連続入賞である。速さでは他チームに一歩劣るが、安定した強さを持つという点で、昨年のシェクターの経過と重なる。そのままチャンピオンの座もさらえるだろうか!?
- 連続入賞といえば、カルロス・ロイテマンも第5戦から入賞を続けている…。
- ■ 9月28日 第13戦 カナダ
- 低迷するフェラーリ、ここカナダではJ.シェクターがとうとう予選落ちを喫した。フェラーリの予選落ちは、'60年モナコのC.アリソン(予選で事故)、'71年モナコのM.アンドレッティと今回と、これまで3例しかない(昔のプライベーターを除く)。
- R.ロドリゲスの最年少出走の記録が更新された。19歳182日という年齢で、ティレルからマイク・サックウェルという若者が出走した。しかし、多重事故後にマシンを譲ったので、0周で終わっている。彼はその後、F1で大成することはなかった。
- この多重事故は、なんとタイトルを争うピケとジョーンズの接触によるものだった。ピケはスペアカーに乗り換えた。それでも再開後の3周目に首位に立ち、ジョーンズとの差を広げはじめた。しかし24周目に突如、エンジンがブローした。
- ジョーンズが2位以下なら、僅かながらピケにもチャンスは残っていた。しかし、先頭を走るピローニにスタート時のフライングによって、1分のペナルティが科され、ジョーンズの首位が確定、チャンピオンも決定した。
- ピケのブローの直後、ジャブイユがサスペンションの破損から大クラッシュを演じ、両足骨折の重傷を負った。
- ■ 10月5日 最終の第14戦 アメリカ
- アルファロメオのB.ジャコメリがPPから首位を快走した。結局は今季チーム22回目のリタイヤに終わったものの、翌年への望みにつながる走りであった。テスト中に死んだ異国のベテランに対する、ささやかな弔いにもなっただろう。
- ■ シーズン後
- 80年末、マクラーレンはプロジェクト4というチームと合併した。代表はロン・デニス、設計者はジョン・バーナードという体制になった。
- ■ サーキットを去るウィナーたち
- クレイ・レガッツォーニ Clay Regazzoni>
- ロングビーチでのクラッシュによって下半身付随になったレガッツォーニ。以降は、車椅子の生活を続けながら、パリダカールラリーに出場したこともあった。2000年のホンダのCMに登場し、老獪なドライビングを見せた。ところが、2006年冬に交通事故で亡くなった。年1回の優勝が5度。'74年は最終戦までタイトルを争った。スイス人のチャンピオンが現れるのはいつの日のことだろう。
生年月日 1939年9月5日
没年月日 2006年12月15日
国籍 スイス
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1970 | フェラーリ | 3 | 1 | 1 | 3 | 8 |
1971 | フェラーリ | 7 | | 1 | | 11 |
1972 | フェラーリ | 6 | | | | 10 |
1973 | BRM | 17 | | 1 | | 14 |
1974 | フェラーリ | 2 | 1 | 1 | 3 | 15 |
1975 | フェラーリ | 5 | 1 | | 4 | 14 |
1976 | フェラーリ | 5 | 1 | 1 | 3 | 15 |
1977 | エンサイン | 17 | | | | 15 |
1978 | シャドウ | - | | | | 11 |
1979 | ウィリアムズ | 5 | 1 | | 2 | 15 |
1980 | エンサイン | - | | | | 4 |
計 | | | 5 | 5 | 15 | 132 |
- ジョディー・シェクター Jody Scheckter
- 前年のチャンピオンであるJ.シェクターは、今季の低迷を潮時と判断したのか、F1を引退し、レース業界から去った。その後はビジネスマンとして成功を収めている。湾岸戦争時に軍事評論家としてテレビに登場したという。
生年月日 1950年1月29日
国籍 南アフリカ
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1972 | マクラーレン | - | | | | 1 |
1973 | マクラーレン | - | | | | 5 |
1974 | ティレル | 3 | 2 | | 2 | 15 |
1975 | ティレル | 7 | 1 | | | 14 |
1976 | ティレル | 3 | 1 | 1 | 1 | 16 |
1977 | ウルフ | 2 | 3 | 1 | 2 | 17 |
1978 | ウルフ | 7 | | | | 16 |
1979 | フェラーリ | 覇者 | 3 | 1 | | 15 |
1980 | フェラーリ | 19 | | | | 13 |
計 | | | 10 | 3 | 5 | 112 |
- エマーソン・フィッティパルディ Emerson Fittipaldi
- 母国のチームで5年間戦ったE.フィッティパルディも引退した。引退後、1984年からアメリカのCARTに参戦し、1989年にはタイトルに輝いた。その1989年と1993年とには、インディ500も制した。1993年のミルク一気呑みのとき、自製のオレンジジュースを一気呑みしたため、物議を醸し出したこともあった。
生年月日 1946年12月12日
国籍 ブラジル
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1970 | ロータス | 10 | 1 | | | 5 |
1971 | ロータス | 6 | | | | 10 |
1972 | ロータス | 覇者 | 5 | 3 | | 12 |
1973 | ロータス | 2 | 3 | 1 | 5 | 15 |
1974 | ロータス | 覇者 | 3 | 2 | | 15 |
1975 | ロータス | 2 | 2 | | 1 | 13 |
1976 | フィッティパルディ | 16 | | | | 15 |
1977 | フィッティパルディ | 12 | | | | 14 |
1978 | フィッティパルディ | 9 | | | | 16 |
1979 | フィッティパルディ | 21 | | | | 15 |
1980 | フィッティパルディ | 15 | | | | 14 |
計 | | | 14 | 6 | 6 | 144 |
- パトリック・ドゥパイエ Patrick Depailler
- ドゥパイエは2輪レースからの転向生であった。'71年フランスF3チャンピオン、'74年ヨーロッパF2チャンピオン、'78年に69戦目のF1初勝利というように、ゆっくりと確実な歩みでここまでやってきた。煙草をくわえる姿が渋い。ドライバーからの評価が高く、玄人受けする走りを見せた。今季は復帰したばかりの古豪に招かれ、復帰後初勝利の大きな期待が懸けられていたと思われる。惜しまれる死である…。
生年月日 1944年8月9日
没年月日 1980年8月1日
国籍 フランス
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1972 | ティレル | - | | | | 2 |
1974 | ティレル | 9 | | 1 | 1 | 15 |
1975 | ティレル | 9 | | | 1 | 14 |
1976 | ティレル | 4 | | | 1 | 16 |
1977 | ティレル | 8 | | | | 17 |
1978 | ティレル | 5 | 1 | | | 16 |
1979 | リジェ | 6 | 1 | | 1 | 7 |
1980 | アルファロメオ | - | | | | 8 |
計 | | | 2 | 1 | 4 | 95 |
- ヴィットリオ・ブランビラ Vittorio Brambilla
- ブランビラも、実は2輪からの転向生であった。あだ名が「モンツァ・ゴリラ」。'75年の唯一の勝利のときのエピソードが面白く、'76年富士での元気いっぱいの走りが光る。2001年に心臓発作で死去。
生年月日 1937年11月11日
没年月日 2001年5月26日
国籍 イタリア
年次 | 主なチーム | 順位 | 優勝 | PP | FL | 出走 |
1974 | マーチ | 18 | | | | 11 |
1975 | マーチ | 11 | 1 | 1 | 1 | 14 |
1976 | マーチ | 19 | | | | 16 |
1977 | サーティース | 15 | | | | 17 |
1978 | サーティース | 19 | | | | 14 |
1979 | アルファロメオ | - | | | | 2 |
1980 | アルファロメオ | - | | | | 2 |
計 | | | 1 | 1 | 1 | 74 |
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