別ウインドウです。読み終わったら閉じてください。


  F1今昔物語 1976年 ダイジェスト

前年へ / シーズン中盤へ  / シーズン後へ / 翌年へ

 ■ シーズン前
 前半8戦中7戦、後半8戦中7戦が有効得点である。
 ブラバムは赤のカラーリングになっただけでなく、エンジンをアルファロメオ製水平12気筒のものに変更した。
 マクラーレンは4年目を迎えたM23でシーズンを戦う。E.フィッティパルディが去り、替わりにJ.ハントが加入した。
 ティレルの有名なP34はまだ開発途上である。
 リジェが参戦を開始した。マシン、エンジン、タイヤ、ドライバー、全てがフランス尽くめである。オーナーであるギ・リジェは、'66年と'67年にF1で走ったことがある。初年度のリジェは巨大なインダクションポッドで有名だった。'72年以降、年々巨大化の一途を辿ったものだが、リジェのそれはF1史上最大であろう。サスペンションとタイヤをつけたら、フロント部分と見間違えそうなほどに大きい。
 E.フィッティパルディが兄の経営するフィッティパルディに移籍した。ブラジル発のF1チームとして、国営砂糖会社のコパーシュカー(またはコペルスカール)をスポンサーとした。そのスポンサー名で呼ばれることもあるチームである。

ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(F12) ニキ・ラウダ
クレイ・レガッツォーニ
残留
残留
GY
ブラバム アルファロメオ(F12) カルロス・ロイテマン
カルロス・パーチェ
他多数
残留
残留
 
GY
マクラーレン フォードDFV(V8) ジェームズ・ハント
ヨッヘン・マス
ヘスケス
残留
GY
ティレル フォードDFV(V8) ジョディー・シェクター
パトリック・ドゥパイエ
残留
残留
GY
シャドウ フォードDFV(V8) トム・プライス
J-P.ジャリエ
残留
残留
GY
ロータス フォードDFV(V8) マリオ・アンドレッティ
グンナー・ニールソン
パーネリ
新人
GY
マーチ フォードDFV(V8) ヴィットリオ・ブランビラ
ロニー・ペテルソン
残留
ロータス
GY
ウルフ−ウィリアムズ フォードDFV(V8) ジャッキー・イクス
他多数
ロータス
 
GY
ペンスキー フォードDFV(V8) ジョン・ワトソン 残留 GY
エンサイン フォードDFV(V8) クリス・エイモン
ジャッキー・イクス
復帰
ウィリアムズ
GY
リジェ マトラ(V12) ジャック・ラフィー ウィリアムズ GY
フィッティパルディ フォードDFV(V8) エマーソン・フィッティパルディ マクラーレン GY
サーティース フォードDFV(V8) アラン・ジョーンズ
ブレット・ランガー
ヒル
ヘスケス
GY


 ■ 3月28日 第3戦 アメリカ西
 ☆ロングビーチ…ロサンジェルス南郊の港湾都市。市街地でのGPというとモナコが有名だが、過去に実績のないところで仮設のサーキットを作って開催されたGPは、ここが最初である。以降、ラスベガス、ダラスやデトロイトと、アメリカばかりになるが、仮設されたサーキットでの市街地レースがしばらく開催されつづける。

 ■ 5月2日 第4戦 スペイン
 前年の中ごろからロータスのシートは不安定なものになっていた。以前から移籍の話があったペテルソンは、今季、第1戦を走っただけでマーチに移籍した。こういうことが起きるとチームの戦績も芳しくないものになる。しかし本戦よりMa.アンドレッティとG.ニールソンという布陣で固まり、チームはマシン熟成の機会を探っていくことになる。
 前年9月に発表されたティレルの6輪マシン、P34がこのレースでデビューした。予選では旧来のマシンを駆るシェクターに対して、ドゥパイエのP34が1秒以上の速さを見せた。
 ところで、このレースでは新レギュレーションが施行された。主にマシンの大きさを定めたもので、これによってこの時期の流行だった巨大なインダクションポッドは姿を消した。
 このハントの優勝が正式に決まるのには、2ヵ月も時間がかかった。マシン幅が新レギュレーションに違反していると判断され、失格、のちに取り消されて復位した。この年はハントを巡る失格騒ぎが多い。ハントの地元イギリスGPでも、チェッカー後の順位が変わった。

 ■ 6月13日 第7戦 スウェーデン
 この年は、ペテルソンよりもニールソンの方が地元のファンに人気が高かったようだ。
 前GPでは2位3位を占めたティレルの6輪車P34。設計者のデレック・ガードナーは、前輪の空気抵抗を減らすためにタイヤを小型化することを考えた。それに伴う接地面積の低下を防ぐために、タイヤの数を増やしたのだという。儲けものだったのは、前輪の増加はブレーキングとハンドリングにも効果を及ぼし、コーナリング性能が飛躍的にあがったことだった。
 決勝は、ロータスのアンドレッティが久しぶりに先頭に立ち中盤まで引っ張ったが、フライングで1分のペナルティが科され、さらにエンジンが壊れた。替わってトップに立ったのが6輪車に乗るシェクターで、そのまま優勝した。この時点では第4戦の結果がハッキリしていないので、フェラーリが昨年から8連勝を続けていたことになる。その間ラップリーダーもずっとフェラーリだったが、この快進撃に待ったをかけたのがティレルの6輪車であった。
 現在ではタイヤは4輪と定められているので、このスウェーデンGPは6輪タイヤのマシンが優勝した唯一のグランプリとして、永遠に歴史のなかで異彩を放ち続けることだろう。

ページ先頭へ

 ■ 7月18日 第9戦 イギリス
 スタート後の1コーナーでの事故により赤旗中断となった。ハントはこの時間にマシンを修復し、ファステストを記録して優勝した。が、2ヶ月後に不適格車として失格、以下順位繰上げとなった。
 この第9戦までラウダはリタイヤ1回で、それ以外の全てのレースで表彰台に立った。前述のように、フェラーリはほとんどのレースでラップリーダーの地位を他に譲らなかった。何者もこの形勢を覆すことはできない、という勢いだったが…。

 ■ 8月1日 第10戦 ドイツ
 レースは雨上がりの天候のなか行われた。1周目、予選上位が軒並みピットインしたため、予選11位のペテルソンが先頭に立った。このあと再レースになることを考慮しなければ、下位グリッドからの1周目1位通過の大記録である。
 2周目、ベルクベルクというコーナーでラウダはコントロールを失い、クラッシュした。マシンは火炎を上げながら止まった。A.メルヅァリオ、H.アーテル、B.ランガー、G.エドワーズらが、勇敢にも救出のために大火災に飛び込んだ。ラウダは顔面に酷い火傷を負い、炎を吸い込んだため肺がかなりやられていた。その晩は重症扱いだったのが月曜に重体に、火曜日にはいよいよ危篤状態に陥り、牧師が最後の祈りを奉げる事態にまで立ち至った。
 しかし奇跡が起こった。ラウダは水曜日に自力で呼吸をはじめるようになり、金曜日には歩き始め、今後のレース計画を論じることさえした。
 歯に衣着せぬ言動で有名なハントは、この事故を喜び、闘志を新たにしたようである。最も開いたときのポイント差は35点、これを覆すとなると史上最大の逆転劇となるのだが…。

 ■ 8月15日 第11戦 オーストリア
 J.ワトソンの初優勝であるとともに、チーム・ペンスキーの唯一の勝利でもある。
 アメリカのレースで成功を収めていたオーナーのロジャー・ペンスキーと、お抱えのドライバー、マーク・ダナヒューは、1971年、世界選手権に飛び出した。デビュー戦ではいきなり3位に飛び込んだ。'74年に自製マシンでの参戦にこぎつけたが、翌年タッグを組んでいたダナヒューが事故でこの世を去った。
 プライベーターで善戦していたJ.ワトソンを迎えて臨んだのが今季で、これまでで一番の好成績を収めた。これで満足してしまったのか、ペンスキーは翌年からアメリカでの活動に戻ってしまう。
 髭面で知られたワトソンは、オーナーとの約束どおり、次戦からは髭をそり落としての登場となった。

 ■ 8月29日 第12戦 オランダ
 上位3台が2秒差でゴールした。接戦に敗れたレガッツォーニ、同僚ラウダのレース復帰が近いことが知らされていたものの、連続タイトルへの援護に失敗した。現時点ではイギリスGPでのハントの失格が明らかになっていないので、61点と56点の5点差である。
 アンドレッティが表彰台に上がり、ロータスは少しずつ復活への手ごたえを掴んでいく。
 一方で、一昨年から優勝戦線に復帰したブラバムは、新しく選んだアルファロメオのエンジンが不調で一転して低迷した。エースのロイテマンはこの一戦を最後にチームを飛び出してしまう。

 ■ 9月12日 第13戦 イタリア
 モンツァに雨が降って路面がウェットになったのは、F1の全史のなかでこの年だけなのだという。
 そのグランプリにラウダが帰ってきた。ジョー・ホンダ氏の目にその姿はこう映った。―顔は凄まじい火傷の痕跡を残し、性格が変わったようにあたりに注意を払わず、ただただレースのみに集中しようとしていた。近寄りにくく、距離をおいて見る目には、ラウダは死神のようにさえ見えた。―
 ハントは燃料の抜き打ち検査で違反が見つかり、最後尾近くでのスタートとなった。11周目にリタイヤ。
 開幕戦後に移籍したペテルソンは、2年ぶりの勝利を古巣のマーチで遂げた。予選ではトップテンの常連で、前GPではPPを獲得した。二流のマシンで心配もあったろうけれど、こうして決勝結果にもやっと結びついた。
 前GPではマーチ、本戦ではリジェがPPを獲得した。表彰台に立ち続けるティレル、初優勝したペンスキー、復調著しいロータス、何よりも、タイトルへの執念を燃やして喰らいつくハントのマクラーレン…、中盤までフェラーリの圧倒的な優位が続いたシーズンは、後半になると群雄割拠の様相を呈した。

 ■ 10月10日 第15戦 アメリカ
 イタリアGPののち、イギリスでのハントの失格・優勝取り消しが確定した。しかし、そんなことでハントの勢いは止まったりはせず、北米の2戦を共にポール・トゥ・ウィンで制した。これでラウダ68点、ハント65点で最終戦を迎えることになった。
 ただしコンストラクターズ・タイトルは、レガッツォーニの活躍もあって、最終戦を待たずにフェラーリのものとなった。

 ■ 10月24日 最終の第16戦 日本
 ☆富士…富士スピードウェイ。FSWとかFISCOと呼ばれることもある。1966年開設。約1.5kmもあるホームストレートが特徴。開設当時は、30度の角度を持つバンクコーナーも特徴の一つであったが、1974年に痛ましい死亡事故が発生したために、その部分は閉鎖された。F1は'76年と'77年に開催された。その後、コース閉鎖の危機もあったものの、2000年にトヨタが買収し、2005年に改修されて生まれ変わった。2007年から再びF1が開催される運びとなっている。

 F1がついに日本にやってきた! それも、3点差で二人が争うチャンピオン決定の最終戦として! 日本人選手も4人参戦している。サーキットには7万2千人のファンが詰めかけたと言う。鈴鹿でのF2レースが"日本グランプリ"と呼ばれるので、富士でのF1の正式名称は「F1世界選手権・イン・ジャパン」である。
 予選。ロータスが久方ぶりのPPを奪った。'74年開幕戦以来。ハントとラウダがそれに続いた。日本人ドライバーは、長谷見昌弘が10位、星野一義が21位、高原敬武が24位につけた。予選の長谷見は周囲の度肝を抜いた。京都の中小企業コジマが、この一戦のためだけに独自の「コジマKE007」を作り上げた。漆黒のボディにDFVエンジンを搭載、ダンロップのタイヤを装着している。このマシンを与えられた長谷見は、金曜のセッションでは4番手のタイムをたたき出したのだ。しかし、直後クラッシュでマシンが大破してしまった。スペアカーを持たないコジマのスタッフは、残った部品を集めて二晩で2号車を組み立てた。こんな前置きで決勝がはじまる…。
 その決勝は大雨で開催が危ぶまれた。スタート予定時刻になっても、雨足は弱まらず、水溜りが深く大きくなる一方であった。ドライバー数名が見回ったが、開催の決断には至らなかった。2時半頃に小降りになり、「3時スタート」のアナウンスが発せられた。その3時になると、今度は濃霧がサーキットを包んだ。
 3時9分にレースははじまった。ハントがオープニングラップを制した。旧型ティレルを駆る星野がいきなり9位でホームストレートに帰ってきた。大雨ならばマシン性能の差は帳消しになる。勝手知ったる母国の地を、星野は韋駄天のごとく駆け抜けた。10周目にはシェクターの6輪ティレルを交わして3位にあがった。
 タイトル争いは予期せぬ展開を見せた。2周目にラウダがレースを辞めたのだ。「(雨がひどすぎて)これはレースではない云々」とインタビューに答えた。他にも数名がレースを辞退した。ラウダがタイトルを連取するには、ハントが5位以下でゴールするのを期待するしかなくなった。
 序盤では、星野のほかに8位スタートのブランビラも元気いっぱいの走りを見せた。5周目に2位にあがり、タイヤ交換のためピットインして後退。しかし16周目には再度2位に返り咲き、22周目、ヘアピンで先頭ハントのインを突いて、これを下した。ところが、次の瞬間にスピンしてまた後退。最後はエンジントラブルでリタイヤとなった。星野も交換用のタイヤを充分に用意しなかったために、27周目に残念なリタイヤとなった。
 雨は20周頃に止んだ。ハント、ドゥパイエ、アンドレッティの順でレースが進む。J.マスやT.プライスがここに割り込んだ場面もあったが、共にリタイヤした。レースが後半に差し掛かると、雲間から太陽が輝き始め、紅葉に赤く染まる箱根の峰々を鮮やかに照らし出した。このままの順位ならハントがチャンピオンだが、レインタイヤはもう役目を終えつつある。各車、タイヤはこのままで大丈夫なのだろうか…。
 62周目、ペースの落ちたハントを、ドゥパイエとアンドレッティが一気に交わした。しかしドゥパイエはそこから2周を走っただけでタイヤが剥離した。ドゥパイエはピットに駆け込んだ。これで、雨の前半、地味なタイヤ温存の走りに留まっていたアンドレッティが首位の座を確かなものにした。ハントは依然チャンピオン決定の2位である。
 しかし、ハントのタイヤは持たなかった。残り5周となったときにハントはピットインし、5位に落ちた。これではラウダのポイントを逆転できない。絶望と怒りとで胸いっぱいになり、ガムシャラに疾駆するハント。しかし前を行く全車がタイヤに問題を抱え、ペースが定まらない。アンドレッティは下位に1周以上のリードを築いたあとペースを落とした。
 チェッカーフラッグは、アンドレッティとその1周遅れの下位が一団となって受けた。ハントはレースが終わっても自分の順位を知らず、不機嫌なままだったが、監督に正しい順位を教えてもらい、新チャンピオンとして夕闇の表彰台に向かった。
 このレースでのファステストラップには説明が必要である。当初は長谷見が25周目に記録した1分18秒23がFLとなっているのだが、数日後に計時ミスが判明した。それでJ.ラフィーの70周目の1分19秒97に訂正とのリリースがあった。確かに雨が続いてた25周の時点で、終盤より2秒近く速いペースはおかしい。F1の公式サイトでは現在も長谷見のままなのだが、当サイトではJ.ラフィーの方を採ることにする。

前年へ / シーズン前へ  / シーズン中盤へ / 翌年へ




別ウインドウです。読み終わったら閉じてください。


inserted by FC2 system