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  F1今昔物語 1975年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 前半7戦中6戦、後半7戦中6戦が有効得点である。
 この年からインダクションポッドが巨大化しはじめた。
 ロータスは72シリーズの6年目でシーズンを戦うのだが、最初から旧態化は歴然としていた。やがて、ドライバーの起用も不安定なものになっていく。
 ヒル/ローラとは、序盤の2戦を前年のローラのシャシーで戦い、新車を「ヒル」と命名したことによる。
 パーネリとペンスキーは、共に昨年デビューしたアメリカのコンストラクターである。今季からフルシーズンの参戦となる。マリオ・アンドレッティもはじめてのフル参戦である。

ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マクラーレン フォードDFV(V8) エマーソン・フィッティパルディ
ヨッヘン・マス
残留
サーティース
GY
フェラーリ フェラーリ(F12) クレイ・レガッツォーニ
ニキ・ラウダ
残留
残留
GY
ティレル フォードDFV(V8) ジョディー・シェクター
パトリック・ドゥパイエ
残留
残留
GY
ロータス フォードDFV(V8) ロニー・ペテルソン
他多数
残留
 
GY
ブラバム フォードDFV(V8) カルロス・ロイテマン
カルロス・パーチェ
残留
残留
GY
ヘスケス フォードDFV(V8) ジェームズ・ハント
他多数
残留
 
GY
シャドウ フォードDFV(V8) トム・プライス
J-P.ジャリエ
残留
残留
GY
マーチ フォードDFV(V8) ヴィットリオ・ブランビラ
レッラ・ロンバルディ
残留
新人
GY
ウィリアムズ フォードDFV(V8) ジャック・ラフィー
他多数
残留
 
GY
ヒル/ローラ フォードDFV(V8) グレアム・ヒル
トニー・ブライズ
残留
新人
GY
パーネリ フォードDFV(V8) マリオ・アンドレッティ 残留 FS、GY
ペンスキー フォードDFV(V8) マーク・ダナヒュー 残留 GY
フィッティパルディ フォードDFV(V8) ウィルソン・フィッティパルディ 復帰 GY


 ■ 1月12日 第1戦 アルゼンチン
 シャドウの新型DN5が、突如、予選の最上位を奪った。しかし駆動系のトラブルによって、決勝スタートのグリッドに立つことはできなかった。

 ■ 1月26日 第2戦 ブラジル
 ジャリエは驚きの2戦連続PPを為した。決勝終盤、そのジャリエがトラブルでリタイヤすると、地元出身のパーチェとE.フィッティパルディの一騎打ちとなった。最後は5秒差でパーチェが振り切った。
 カルロス・パーチェは、1944年生まれだから、E.フィッティパルディより年長である。'72年にデビュー。昨年よりトップチームであるブラバムに移籍し、ここまでのし上がってきた。この勝利によって、後にインテルラゴスは、カルロス・パーチェ・サーキットとも呼ばれることになる。

 ■ 4月27日 第4戦 スペイン
 準備不足からレース前、安全面で様々な不備が見られた。チームはボイコット派と開催派に分かれ、開催派の首脳陣がガードレールのネジ締めを行ったりした。E.フィッティパルディは予選をゆっくり走っただけで抗議の意味で撤退した。
 その本番のレースでは、チーム・ヒルのR.シュトメレンのクラッシュによって、カメラマン4人が死亡する(本人も重傷)という事態になった。レースは29周で中止となり、ポイントは半分だけ与えられた。モンジュイックでのF1はこの年が最後になった。
 F1チームには、自ら結束して主催者と交渉する力が足らなかったようだ。この事件を反省したF1チームは、FOCAの会長となったB.エクレストンを中心に結束を固め、以後、安全に対してもFOCAから申し入れるようになった。エクレストンの力が大きくなった原因のひとつである。
 この一戦は、J.マス唯一の勝利としての印象が強いが、レッラ・ロンバルディのポイントが女性初で唯一のもの(2006年現在)という事実も看過できない。彼女は、F1を離れたあともツーリングカーなどで活躍した。'92年に癌のため死去。

 ■ 6月8日 第7戦 スウェーデン
 ラウダの3連勝である。序盤こそ目立たなかったが、一気にタイトル争いのトップに立ち、ぐんぐんと他との差を広げていく。
 以下は、ジョー・ホンダの書籍からの抜粋である。―この頃になると、ラウダは完全にチームを掌握したと言ってよかった。プラクティスでピットインしてきても、マシンから降りずにメカニックにそれぞれすぐにやるべき作業を指示し、チーム監督のフォーギリと打ち合わせをする。走っているあいだに自分のマシンの状態をつかみ、走り方を組み立て、それに沿ってタイムアップを図る。思ったとおりのタイムが出ると、予選の時間が充分残されていても、さっと切り上げる。ピットに入ってきても、ほっと一息ついたりしない。予選やレース中の眼の輝きが、他のドライバーと違っていた。今やフェラーリはラウダのためにあるといった感じだった。…

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 ■ 6月22日 第8戦 オランダ
 日本人ドライバーがエントリーを果たした。鮒子田 寛、'72年富士GCの覇者である。しかし決勝出走は成らなかった。かつて、生沢徹がロータスでF3やF2を走り、ペテルソンやレガッツォーニと互角に戦ったことがあった。そしてF1での採用を強く志願したが、相手にされなかった。未だ勝者のいない我が国のドライバー事情だけれども、こうした彼らの挑戦がはじめの一歩である。
 ジェームズ・ハントの初優勝であるとともに、チーム・ヘスケスの唯一の優勝である。1位と2位の差が約1秒という接近戦だった。
 ヘスケスとは、イギリスの富豪アレキサンダー・ヘスケス卿の名前である。英国の貴族がF1チームを立ち上げ、優勝まで成し遂げたのだ。デビューは1973年。スポンサーを持たず、資金は全て自分の財力でまかなった。デザイナーに、バーミンガム大学で機械工学の博士号を取得した、ハーベイ・ポスルスウェイトを擁していた。
 デビューから数年が経った頃、ヘスケス卿の財力に限界がやってきたが、このとき、スポンサーを応募しても誰も支援しなかったという。チームは'78年を以って消滅した。

 ■ 7月19日 第10戦 イギリス
 シーズン初期の南米ラウンドで圧倒的な速さを見せたシャドウ。ここではトム・プライスがPPを獲った。決勝では20周目にリタイヤした。
 その後、突然の豪雨と多重事故の発生により、レースは赤旗が振られ、そのまま終了となった。とあるコーナーで、止まりきれぬマシンが連続してガードレールに突っ込み、辺りは廃車置場のようになった。レースの大半を消化していたので、ポイントはそのまま与えられた。

 ■ 8月17日 第12戦 オーストリア
 決勝日午前中のウォームアップで、ペンスキーのマーク・ダナヒューがクラッシュして頭を強打し、2日後に亡くなった。ヘリコプターでの移送中に、気圧の変化から脳溢血を起こし、それが死につながった、と言われている。
 マクラーレンでデビューした'71年カナダGPでは、いきなり3位に入り、周囲を驚かせた。翌年にインディ500を制し、昨年からペンスキーのドライバーとしてF1に戻ってきていた。

 時間は前後するが、決勝レースはまたしても雨のために途中で打ち切られ、ポイントは半分となった。優勝したのは、マーチのヴィットリオ・ブランビラである。マーチは'70年の第2戦、スチュワートがデビュー2戦目で勝利をもたらしたあのとき以来の勝利である。
 ブランビラは初優勝(そして唯一のもの)。ゴツイ風貌に豪放な性格、荒々しい走り方から、「モンツァ・ゴリラ」と呼ばれ、親しまれた。イタリア人が勝つのは、'66年スカルフィオッティ以来のことだから、これも久しぶりのことである。その勝利は、ユニークなエピソードでも知られている。片手を挙げて喜びを示した瞬間、コントロールを失ってクラッシュしてしまい、マシン前部を壊した状態でのウイニングランとなってしまったのだ。

 ■ 9月7日 第13戦 イタリア
 かつての優勝車メーカー、マトラがF1に帰ってきた。オーストリアとイタリアのみ、エンジン供給という形で参戦した。供給先にはシャドウに乗るフランス人、J-P.ジャリエが選ばれた。宇宙開発やミサイルの開発に従事し、高度な技術を有するマトラは、翌年に発足するリジェにフルシーズンの供給を開始することになる。
 特等席となったPPの位置から、ラウダが余裕を残して3位に入り、タイトルを決めた。勝者は先輩のレガッツォーニで、コンストラクターズタイトルも決定的なものになった。地元でフェラーリがチャンピオンの座に返り咲いたのだ。ティフォシは嬉しかったことだろう。以前のタイトルとなると、'64年のことになるのだ。どれほど待ち望んでいただろう。今季は、イタリア人の優勝もあったりで、一時期は完全に絶えてしまったかとも思えたイタリアの息吹が蘇ったシーズンであった。

 ■ 10月5日 最終の第14戦 アメリカ
 レースはラウダとE.フィッティパルディの戦いになった。ここにピットインで遅れていたレガッツォーニが割って入り、後者を邪魔する格好になった。ついにレガッツォーニに黒旗が振られ、彼は失格となった。これに怒りを発したのがディレクターのモンテゼモロで、審判に殴りかかっていった、、、という騒ぎがあった。

 ■ シーズン後
 ラウダは、前年、最多の9PPながら完走は7回、終盤の大事なときに5戦連続リタイヤを喫して王者を逃した。迎えた今季は、速さは前年のままに、13戦完走で入賞は12回という、徹底した安定性を見せて、王者の座についた。
 昨年から約20チームに増えたF1は、今季、勝ったチームがとうとう六つ(フェラーリ、マクラーレン、ブラバム、ティレル、ヘスケス、マーチ)を数えた。表彰台に立ったチーム、入賞したチームも、これまでにない数量になった。最後はフェラーリが他を圧倒した形になったけれども…。第11戦ではこんなことも起きた。上位10位までチームが異なるドライバーが名を連ねたのである。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
グレアム・ヒル Graham Hill
 シーズン終了後の11月29日、自チームのメンバーやスタッフを乗せて、G.ヒル自身が操縦する小型飛行機が墜落し、ヒルやブライズを含むチーム関係者の6名が死亡した。
 グレアム・ヒルは、F1はもちろんのこと、'66年にインディ500、'72年にル・マンを制した三冠王である。精悍な顔立ちと、5度モナコを制した初代モナコマイスターということもあって、現在でも人気が高い。'58年のデビューから、46歳となるこの年まで、ほとんど休むことなくF1を走った。18年という参戦年数は、これまでのところ史上最多の不動のものである。
 息子のデイモン・ヒルは、このとき15歳。保険をかけていなかったことで、ヒル家は多額の補償に追われた。デイモンはバイク便のアルバイトをして家計を助けた。若くして天国と地獄を体験した、、、のかどうかは本人にしかわからないが、この息子のデイモンも後にF1ドライバーとして大成するのは、ファンならば誰でも知っている話である。
生年月日 1929年2月15日
没年月日 1975年11月29日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1958ロータス-8
1959ロータス-7
1960BRM1318
1961BRM138
1962BRM覇者4139
1963BRM22210
1964BRM221110
1965BRM224310
1966BRM59
1967ロータス63211
1968ロータス覇者3212
1969ロータス7110
1970ロータスpvt1311
1971ブラバム2111
1972ブラバム1212
1973シャドー-12
1974ローラpvt1815
1975ヒル/ローラ-2
141310175

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