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  F1今昔物語 1970年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 マーチというチームが参戦してきた。創設者の一人は現FIA会長のM.モズレーである。新興でありながら、いきなりF1・F2・F3・スポーツカーに討って出るという、良くも悪くも無謀なチームであった。さらに驚くべきことに、F1においてマーチのマシンは常に5、6台がエントリーした。ワークス・チームからエイモンとシフェール、ケン・ティレルのチームからスチュワートとギャバンの2台、STPチームからマリオ・アンドレッティ、ワークス予備軍のアンティークからロニー・ペテルソンである。
 前年アメリカGPで両足骨折の重傷を負ったG.ヒルはロータスを離れ、プライベーターのロブ・ウォーカーから参戦することになった。
 ロータスは、楔形のサイドラジエターで空力を重視したマシン、ロータス72を開発した。それまでの葉巻型のマシンからの変化に先鞭をつけた。'62年のモノコック化、'68年のウイング装着に続く、"ロータスの革新的新技術導入"の第3弾と言えよう。一方で、堅実で新技術導入に慎重なブラバムは、この年になってようやくモノコック化に踏み切った。
 BRMが英国の化粧品メーカーのヤードレイをスポンサーにつけた。マーチは米オイル添加剤メーカーSTPを、マトラとティレルは仏エルフ石油をスポンサーにした。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
マトラ マトラ(V12) J-P.ベルトワーズ
アンリ・ペスカローロ
マトラpvt
復帰
GY
GY
ブラバム フォードDFV(V8) ジャック・ブラバム
ロルフ・シュトメレン
残留
新人
GY
GY
ロータス フォードDFV(V8) ヨッヘン・リント
ジョン・マイルズ
残留
ロータス
FS
FS
マクラーレン フォードDFV(V8) デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ピーター・ゲシン
残留
残留
新人
GY
GY
GY
フェラーリ フェラーリ(F12) ジャッキー・イクス
クレイ・レガッツォーニ
イグナツィオ・ジュンティ
残留
新人
新人
FS
FS
BRM BRM(V12) ペドロ・ロドリゲス
ジャッキー・オリバー
フェラーリ
残留
DL
DL
マーチ フォードDFV(V8) クリス・エイモン
ジョセフ・シフェール
フェラーリ
ロータスpvt
FS
FS
サーティース フォードDFV(V8) ジョン・サーティース BRM FS
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
ティレル・レーシング マーチ・フォードDFV(V8) ジャッキー・スチュワート
J.セルボ・ギャバン
フランソワ・セベール
BRM
マトラpvt
新人
DL
DL
DL
フランク・ウィリアムズ デ・トマゾ・フォードDFV(V8) ピアース・カレッジ 残留 DL
ロブ・ウォーカー ロータス・フォードDFV(V8) グレアム・ヒル ロータス FS


 ■ 3月7日 第1戦 南アフリカ
 話題のマーチがデビュー戦できちんとPPを奪い、戦闘力を示した。デビュー戦PPのマシンは、ランチア、メルセデス、ローラに続いて4台目である。
 しかし勝ったのはJ.ブラバムであった。'67年カナダ以来、3年ぶりの勝利である。43歳とかなりの年齢になっており、この年の終わりに引退を表明する。

 ■ 5月10日 第3戦 モナコ
 モナコで一番のレースと言われる。リントの追い上げが凄まじかったのだ。フラッグ係は'50年代にセミプロ・ドライバーだったポール・フレール。
 レース中盤までスチュワートが先頭を走ったが、エンジンの不調でリタイヤした。このとき、ブラバム、エイモン、リント、シフェール、ハルムの順。残り20周の辺りで、エイモンとシフェールのマーチ勢にマシントラブルが起きて後退した。ブラバムとリントの差は13秒。残り10周のとき約10秒。
 リントが本気になって追い上げているのが、次第に明らかになっていく。老練なブラバムも懸命に逃げるが、周回遅れに何度か引っかかった。最終ラップ前、その差は1.5秒。しかしモンテカルロで追い抜けるのか!?
 リントの最終ラップは、自分の予選タイムより2秒以上速く、PPタイムより1秒近く速いという途方もないものだった。天気の影響で遅かったというのではない。焦ったブラバムは、最終コーナーでブレーキングに失敗し、その脇をリントがすり抜けて1着でゴールした。P.フレールはブラバムのマシンが先頭で来るものとばかり思っていたため、旗を振り忘れた。若武者リントによる"ブラック・ジャック"の旗倒しと言ったところか。現地で観戦していたジョー・ホンダによれば、ここ2戦の勝者であるJ.ブラバムとJ.スチュワートは、このリントの鬼のような勝利のあと、どこか勢いを失ってしまったのだという。

 ■ 6月7日 第4戦 ベルギー
 このレースにはブルース・マクラーレンの姿がない。テスト中に事故死したのである。ジョー・ホンダ氏の書籍から、その人となりを見てみよう。
 ―機械が好きで、絶えずマシンをいじっていないと気がすまないようだった。アメリカのCan-Amレースに進出し、D.ハルムやD.ガーニーを勝たせるために、自らはマシンセッティングに情熱をささげていた。開発テスト中の事故死だったから、ある意味では本望だったかもしれない。
 小柄でがっしりしていて、機械好きの少年がそのまま大人になったような印象があった。小児マヒの後遺症がわずかに残っていて、右足を軽く引きずる歩き方をしていた。はにかみ屋でとてもやさしく、いつも愛想よかった。レースの前には、ハッとするほど激しい表情になったのを思い出す。―

 新エンジン規定になかなか馴染めず低迷していたBRMの、4年ぶりの勝利である。スチュワートやブラバムやリントがリタイヤする中、P.ロドリゲスはチャンスを逃さなかった。C.エイモンは最終ラップにFLを記録して追い上げたが、2秒届かなかった。このときのロドリゲスの優勝者平均時速241km/hは、史上2番目の速さとなっている。
 シーズン当初、フェラーリはイクス1台の参戦だったが、本戦から新人2人が交互に走ることになる。まずイグナツィオ・ジュンティが入賞を果たした。

 ■ 6月21日 第5戦 オランダ
 ロータスは本戦より、楔形マシンの72を投入した。ここからリントは4連勝を果たす。
 フランク・ウィリアムズ・チームのピアース・カレッジが、事故に遭って焼死した。前述したようにカレッジ・ビールの御曹司で、昨年の2度の表彰台が光る。前GPで4位デビューを飾ったジュンティも、翌年1月に事故死する運命にある。大成することはなかったものの、若くして端倪すべからざる才能を示した二人であった。
 リントは真っ青な顔をして表彰台にあがってきたらしい。大人しい性格のリントは、寡黙で人付き合いも乏しかったが、カレッジとは親友だったのだ。

 ■ 7月19日 第7戦 イギリス
 リントが再び、ガス欠でスローペースになったブラバムを、最終ラップで追い抜いていった。

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 ■ 8月2日 第8戦 ドイツ
 ☆ホッケンハイム…ハイデルベルグの森の中にある超高速コース。開設されたのは1932年だが、アウトバーンの建設に伴って1966年に改修された。.2年前クラークが命を落としたのはここである。これまでドイツGPと言ったらずっとニュルブルクリンクだったが、'76年のラウダの事故の後、ホッケンハイムで開催されるようになった。2002年に大改修を受け、中高速サーキットに生まれ変わった。

 決勝はリントとイクスの一騎打ちになり、両者がトップを数周で分け合っていたが、最後はリントが0.7秒差で逃げ切った。

 ■ 8月16日 第9戦 オーストリア
 ☆エステルライヒリンク…オーストリアの東南、シュタイアーマルク州に位置する緑の美しいサーキット。'64年開催のツェルトベグ飛行場のすぐ近くでもある。ヨッヘン・リント人気の影響で'69年に開設され、グランプリの開催となった。景観だけでなくコースとしても、起伏に富み、高速コーナーあり、追い抜きしやすいとのことで、ドライバーにも人気があった。毎年開催されたが、'87年にスタート多重事故が3度続き、安全性の問題から使用されなくなった。'97年にこれを改善し、A1リンクと名を変えて復活した。

 4連勝し、ポイントでも下位を大きく引き離して地元にやって来たJ.リント。しかし、レース開始からフェラーリにリードを許しつつ、序盤でエンジンを壊した。そのままフェラーリがワンツーフィニッシュで勝った。
 ここで2位になったクレイ・レガッツォーニは、前述したフェラーリの新人のもう一人である。既に入賞3度を数え、予選でも上位に顔を出している。

 ■ 9月6日 第10戦 イタリア
 圧倒的にポイントをリードするヨッヘン・リント、ここで勝利すればチャンピオン決定もあり得た。しかし、予選で激しくクラッシュし、ベルトが体を圧迫して死んだ。ロータスは以後2戦の出場を辞退した。
 レガッツォーニの初優勝は5戦目での達成である。数え方にも拠るが、5本指には入るスピード優勝である。
 だが、そんなことを祝うことはできない勝利となってしまった。リントのクラッシュは、ドライビングミスに拠るものではなく、マシンの故障から生じたものと言われている。'68年のクラークの死も不可解な原因からであり、ロータスには安全性軽視の疑いが生じたりもした。

 ■ 9月20日 第11戦 カナダ
 マーチの用意したマシンに我慢がならなかったケン・ティレルが、極秘裏に製造していた自車をここに持ち込んだ。そしてスチュワートは、初戦でティレルチームにポールポジションを与えた。3戦とも決勝はリタイヤに終わったが、トップ独走を繰り返すなど、翌年からの勇躍を感じさせた。
 勝ったのフェラーリ。イクスはポイントを28に伸ばし、リントを上回る可能性を持つ唯一の存在になった。しかし「死者からチャンピオンを奪うことは出来ない…」と消極的であったという。

 ■ 10月4日 第12戦 アメリカ
 まだグランプリ4戦目のロータスの新人フィッティパルディは、とつぜん予選3位という速さを見せた。決勝では、ティレルのスチュワート、BRMのロドリゲスの脱落によって終盤にトップに立ち、そのまま優勝した。この勝利によって、ロータスはリントの王座を守った。リントは死後にチャンピオンとなった唯一の男である。コンストラクターもロータスがチャンピオンとなった。
 ロータスのトップドライバーは、J.クラーク、G.ヒル、J.リント、E.フィッティパルディと数年の間に目まぐるしく変わっていく。
 この年デビューした者は、C.レガッツォーニとE.フィッティパルディの他に、R.ペテルソン、F.セベール、P.ゲシンがいる。新人の当たり年であった。

 ■ シーズン後
 タイヤ戦争は、グッドイヤー1勝、ダンロップ2勝、ファイアストン10勝という結果になった。ダンロップは撤退を発表した。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ヨッヘン・リント Jochen Rindt
 年間表彰式には、悲しみをこらえたリント夫人が姿を見せた。ジョー・ホンダ氏のリントについての言葉を聞こう。
 ―彼は速さではきわだったドライバーだった。何かにつかれたように走り、前に誰かがいるのがガマンできないようだった。'67年、初めてヨーロッパに行った時には、リントはクーパーに乗っていた。あまり速くないマシンで常軌を逸しているように速く走ろうとしていたのが印象に残っている。ぶっこわすか勝つかという感じだったが、たいていはマシンをぶっこわしてリタイヤしていた。
 '67年にフィンランド人女性と結婚、いつも一緒にレース場にきており、トランスポーターの影で二人で仲よくしている姿を見かけることがよくあった。
 ボクサー崩れのようなごつい外見だったが、内面は静かでおとなしい人であったと思う。レース前はジャーナリストをさけ、ひとりでレースに神経を集中していたのだろう。何かきいてもいつも上の空のようだった。―
 彼の好きな歌に、Earl Grantの「The End」というものがある。そのまま「リントの歌」としてもいいくらい、物寂しい雰囲気の歌である。
生年月日 1942年4月18日
没年月日 1970年9月5日
国籍 オーストリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1964ブラバムpvt-1
1965クーパー139
1966クーパー39
1967クーパー1110
1968ブラバム12212
1969ロータス415210
1970ロータス覇者5319
610360


ジャック・ブラバム Jack Brabham
 シーズン後にJ.ブラバムは引退を表明した。僚友のロン・トーラナックにチームの一切を任せ、故郷オーストラリアへと帰っていった。ただし、エンジンビルダーのジャッド(JUDD)の設立に携わるなど、レース界との関係を断ってしまったのではない。
生年月日 1926年4月2日
国籍 オーストラリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1955クーパー-1
1956マセラティpvt-1
1957クーパー-4
1958クーパー157
1959クーパー覇者2118
1960クーパー覇者5338
1961クーパー11118
1962ロータス
ブラバム
98
1963ブラバム710
1964ブラバム8110
1965ブラバム106
1966ブラバム覇者4319
1967ブラバム22211
1968ブラバム2311
1969ブラバム1028
1970ブラバム511413
141311123


ブルース・マクラーレン Bruce Mclaren
生年月日 1937年8月30日
没年月日 1970年6月2日
国籍 ニュージーランド
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1959クーパー6117
1960クーパー2118
1961クーパー78
1962クーパー3119
1963クーパー610
1964クーパー710
1965クーパー810
1966マクラーレン144
1967マクラーレン
イーグル
149
1968マクラーレン5111
1969マクラーレン310
1970マクラーレン143
40399


ダン・ガーニー Dan Gurney
生年月日 1931年4月13日
国籍 アメリカ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1959フェラーリ74
1960BRM-7
1961ポルシェ38
1962ポルシェ5117
1963ブラバム5110
1964ブラバム622210
1965ブラバム419
1966イーグル128
1967イーグル81211
1968イーグル
マクラーレン
219
1969---
1970マクラーレン223
43686

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