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  F1今昔物語 1961年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 8戦中5戦が有効ポイントである。勝者のポイントが8点から9点に変わった。しかしコンストラクターの一等賞は8点のままなので、ややこしい。
 競技規定の大きな変更があった。死亡事故の多発を防ぐために、エンジン排気量の上限が2.5リッターから1.5リッターへと引き下げられた。フェラーリは、旧F2用のと新型のV6エンジンで準備万端であり、対応の遅れたイギリスのチームにたいして、シーズン開始から有利な立場にあった。
 またこの年から、全車ミッドシップ・レイアウトを取った。ポルシェが、独特な空冷水平対向の4気筒エンジンを引っさげて、本格的に参戦してきた。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は?
クーパー クライマックス(L4) ジャック・ブラバム
ブルース・マクラーレン
残留
残留
ロータス クライマックス(L4) イネス・アイルランド
ジム・クラーク
残留
残留
フェラーリ フェラーリ(V6) フィル・ヒル
ウォルフガング・フォン・トリップス
リッチー・ギンサー
残留
残留
残留
BRM クライマックス(L4) グレアム・ヒル
トニー・ブルックス
残留
クーパー
ポルシェ ポルシェ(F4) ヨアキム・ボニエ
ダン・ガーニー
BRM
BRM
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は?
ロブ・ウォーカー・レーシング ロータス・クライマックス(L4) スターリング・モス 残留
ヨーマン・クレジット・レーシング クーパー・クライマックス(L4) ジョン・サーティース
ロイ・サルバドーリ
ロータス
フェラーリ
スクーデリア・チェントロ-スド クーパー・クライマックス(L4) ロレンツォ・バンディーニ 新人


 ■ 5月14日 第1戦 モナコ
 スピードを抑える政策がとられたのだが、開幕戦ではいきなり優勝タイムが前年より8分も縮められた。PPタイムは3秒遅いにも関わらず、である。それだけの好ファイトがあった。
 最高齢完走者ルイ・シロンの振る旗でレースが始まった。中盤、S.モスがトップを守り、R.ギンサーが数秒後方から追いかける展開になった。ハードブレーキングのために、ヘアピンを曲がるモスのマシンからは毎周白煙があがった。84周目にギンサーが予選タイムを3秒上回るファステストラップをたたき出すと、翌周には旧型マシンを駆る反骨戦士のモスも同タイムで逃げた。この辺りがこのレースの白眉であろう。
 「最後の数周は見るのをやめた。あれ以上もう見ていられなかった」とは、モスの親友でもあるロブ・ウォーカーの言葉である。モスのマシンは、軽量化のために側面のパーツが外され、足があらわになっていた。

 ■ 5月22日 第2戦 オランダ
 リタイヤが一つもなしの、全車完走のレースとなった。2005年イタリアGPと共に、F1で2度しかない出来事である。この1961年のときはピットストップもない、全車2時間走りっぱなしのレースであった。

 ■ 7月2日 第4戦 フランス
 D.ガーニーとの激しいデッドヒートを制して、ジャンカルロ・バゲッティが1/10秒差で優勝した。フェラーリからのデビュー戦での勝利である。数え方にも拠るが、そんなことはこの一例しかない。
 フェラーリで活躍したのは翌年までで、'63年、同チームから造反独立したATSに引き抜かれた。しかし、これが惨憺たる結果に終わった。以後、プライベーターからのスポット参戦に移った。引退後はスポーツフォトグラファーに。'95年にガンで他界した。

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 ■ 7月15日 第5戦 イギリス
 本戦では、F1史上初の4輪駆動車が走った。ロブ・ウォーカーからのファーガソン製マシンであるが、予選20位、決勝は押しがけによる失格という成績だった。非選手権戦では、S.モスの手によって優勝を収めたこともある。しかし、他のチームはこの技術に関心を抱かなかった。

 ■ 9月10日 第7戦 イタリア
 予選で、これまたデビュー戦のリカルド・ロドリゲスがポイントリーダーに0.1秒差の2位につけた。未だ19歳というメキシコの少年は、「神童」という名で呼ばれるようになった。
 予選は地元フェラーリ勢の上位独占となった。フェラーリはこれまでの6戦で、13/18の表彰台を占めていた。当然チャンピオン争いもフェラーリ勢同士の対決で、本戦で決着がつくかどうか、注目が集まっていた…。
 決勝の2周目、ポイントリーダーのドイツ人、W.フォン・トリップス伯爵と、トップ集団で唯一フェラーリ勢に喰らいつくクラークとが接触した。高速部分であったため、トリップス伯爵のマシンは激しくスピンした。防護柵に衝突してから宙を舞い、彼は路上に投げ出されて即死した。観客14人も犠牲になり、F1史上最悪の事故とされる。昨年、モンツァではバンク部分の使用を危険視したイギリス勢のボイコット騒ぎがあった。しかし、今季は1.5リッター規定によって死亡事故多発への対策は取ったことになっていた。そういう状況での惨事であった。
 レースはフェラーリ勢の脱落が相次ぎ、唯一完走したフィル・ヒルが優勝した。タイトルは逆転で彼のものになった。この年のル・マンも制覇していたが、二重の歓びとはならない。'58年、フェラーリのエースが相次いで死亡したとき、"助っ人"としてスポーツカー・カテゴリーから召集を受けたのが、P.ヒルと伯爵であった。以後、ミッドシップの新技術に慣れぬトップチームを、二人でここまで引っ張ってきたのだ。レース後に、P.ヒルは伯爵の死と自身のタイトル決定を知らされ、男泣きに泣いた。

 ■ 10月8日 最終の第8戦 アメリカ
 ☆ワトキンズ・グレン…ニューヨーク州に位置する。インディに代わるアメリカでの本格的なF1サーキットとして長らく使用されていた。'71年に大改修があった。

 覇者フェラーリは、トリップス伯爵への哀悼の意から本戦を欠場した。フェラーリの赤鬼の居ぬ間に勝利を挙げたのが、ロータスのイネス・アイルランドであった。記念すべきワークスとしてのロータスの初優勝であるとともに、彼の唯一の勝利でもある。しかし、J.クラークを優遇するチームから追い出されるような形で、翌年、プライベーターに移籍した。
 8位に後のチームオーナー、ロジャー・ペンスキーの名前が見える。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ウォルフガング・フォン・トリップス Wolfgang von Trips
生年月日 1928年5月4日
没年月日 1961年9月10日
国籍 ドイツ
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1956フェラーリ--
1957フェラーリ123
1958フェラーリ106
1959フェラーリ-2
1960フェラーリ79
1961フェラーリ2217
21027


トニー・ブルックス Tony Brooks
 '50年代後半からのブリティッシュ・インベイションの一役を担ってきたトニー・ブルックスも、29歳という若さで引退した。引退するファンジオが、「次にF1を引っ張るのは誰か」という問いに彼の名前を挙げたという。しかし'60年からの移籍が上手くいかなかった。元々は歯科医生で、引退後レース業界からきっぱり足を洗った。
生年月日 1932年2月25日
国籍 イギリス
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1956BRM-1
1957バンウォール5115
1958バンウォール3319
1959フェラーリ22218
1960クーパーpvt107
1961BRM1018
63338

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