- ■ シーズン前
- 8戦中5戦が有効得点である。
- ファンジオがマセラティに、S.モスがヴァンウォールに移籍した。M.ホーソーンは、一旦離れたフェラーリからフル参戦を再開することになった。
- ランチア−フェラーリは新車801を開発した。ボディ両脇の燃料タンクは廃された。シャシーは鋼管スペースフレームに変わった。マセラティは、'54年産の「250F」を隅々まで改良して、今季を戦う。
ワークス・チーム |
エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
フェラーリ |
フェラーリ(V8) |
マイク・ホーソーン ピーター・コリンズ ルイジ・ムッソ 他多数 |
マセラティなど 残留 残留 |
E |
マセラティ |
マセラティ(L6) |
ファン・マヌエル・ファンジオ ジャン・ベーラ ハリー・シェル 他多数 |
フェラーリ 残留 ヴァンウォール |
PI |
ヴァンウォール |
ヴァンウォール(L4) |
スターリング・モス トニー・ブルックス S.ルイス・エバンス |
マセラティ BRM 新人 |
PI |
BRM |
BRM(L4) |
ジャック・フェアマン ロン・フロックハート 他多数 |
コンノート コンノート |
DL |
クーパー |
クライマックス(L4) |
ロイ・サルバドーリ ジャック・ブラバム |
復帰 復帰 |
DL |
プライベーター |
車体/エンジン |
ドライバー |
前年は? |
タイヤ |
スクデリア・チェントロ・スド |
マセラティ |
マステン・グレゴリー ヨアキム・ボニエ |
新人 新人 |
|
- ■ 1月13日 第1戦 アルゼンチン
- 独立系イギリスチームは準備不足で参加せず、グリッドには7台ずつのメーカー系、すなわちフェラーリとマセラティが並んだ。マセラティ「250F」は軽量化に成功していて、まず開幕戦を制した。
- S.モスは序盤のピットインに13分もかかったものの、その後最速ラップを記録する速さで、サーキット上ではファンジオと競り合った。
- 3位には地元のC.メンディテグイが入った。本当はポロのプロ選手で、地元でGPが開かれるとドライバーに変身した。昨年はトップを快走するなど、意外な活躍を見せた。
- ■ 5月19日 第2戦 モナコ
- 第2戦まで4ヶ月のインターバルがある。このあいだにテストやノンタイトル戦が盛んに行なわれ、ヨーロッパラウンドに向けたマシンの熟成が図られる。ここでフェラーリが、いやレース界が悲劇に襲われた。3月半ば、モデナでのテスト中、E.カステロッティが事故死した。ランチアの最終戦PPを皮切りに、優勝まであと一歩という走りを何度も見せていたホープであった。14戦という出走ながら、PP1回、表彰台に3回ものぼったのだ。26歳の早すぎる死であった。
- 話しはこれで終わらない。本戦モナコの一週間前になると、ミッレ・ミリアにおいてA.デ・ポルターゴ侯爵が事故死した。28歳という、こちらも若手のホープであった。レースも残り20kmという地点での事故で、観客10名も犠牲になった。イタリア政府はこれを重く見て、以後の同レースを中止した。
- ☆ミッレ・ミリア…1927年〜1957年開催された、イタリア北部の街ブレッシアとローマの間1000km(Mille Miglia)を走るレース・イベントである。侯爵の事故から20年後、クラシックカーのお祭りレースとして復活した。ミカ・ハッキネンが参戦したこともある。
- ここモナコでも"危うく"というクラッシュが発生した。4周目、激しい戦いを演じていた先頭のS.モスが、シケインのバリアに突っ込んで砂袋を蹴散らした。砂塵のなかで後続のP.コリンズが木製バリケードに突っ込み、杭がコースに撒き散らされた。あと2mで彼は海に飛び込むところであった。ホーソーンは線路の遮断機のようになった杭に突っ込み、マシン前輪が海に飛んでいった。
- ファンジオはこの局面を"歩くような"スピードまで減速して唯一切り抜けた。後続は開かずの踏み切り前の通行者と同じになった。勝者はもちろんファンジオとなった。この構図は'51年と同じである。
- ■ 7月7日 第4戦 フランス
- モスは病気によって、ブルックスはル・マンでの事故の影響によって、本戦を欠場した。こうなるとファンジオに敵はいない。
- ファンジオは開幕3連勝を遂げ、ポイントランキングでも他を大きく引き離した。彼の円熟、これまでレース人生の集大成と言える強さであった。
- 資料によっては、本戦のJ.ベーラとH.シェルの順位が逆になっているものもある。ベーラは最終周の走行時間がペナルティによって7分かかったという。その事実を認めるか否かで、1周遅れの6位、同一周回の5位と分かれるようだ。当サイトでは前者を採っている。
- ■ 7月20日 第5戦 イギリス
- 序盤をリードしたS.モスは、イグニッション・トラブルでピットインを余儀なくされた。J.ベーラのマセラティが独走態勢を築く。しかし、T.ブルックス車と換わったモスは9位から猛追を開始した。追い抜きに次ぐ追い抜きで2位まであがると、首位ベーラにクラッチ破損が起きた。ヴァンウォールのモスが勝利を収めた。
- 2年前はイギリス人であるモスの初優勝の舞台となったエイントリー。今回はイギリス車と、そのチームであるヴァンウォール初優勝の舞台となった。F1は今後、独立系英国コンストラクター勢が、徐々につけてきた力で'60年代以後を席巻することになる。ヴァンウォールはその先駆けとなった。
- ■ 8月4日 第6戦 ドイツ
- ファンジオの最後の、そして伝説的な逆転の勝利である。1957年シーズンは歴史的な勝利が続いた。まず、路面の舗装工事によって前年より大幅に縮められた予選最速ラップが9分25秒6である。しかし、ファンジオ/マセラティにはタイヤ交換が必要であり、決勝を半分過ぎた辺りでピットインした。フェラーリの2台がトップに立った。
- 先頭を油断させるためのスロー走行の後、ファンジオの追撃が始まった。16周目−9分25秒5、18周目−9分25秒3、19周目−9分23秒4、20周目−9分17秒4(FL)というようにコースレコードを更新し続け、最終周に突入するまでに先頭に立って勝ったというものである。ファンジオは決して情熱的な全力疾走をするタイプではなかったのだが、この日は違ったので、人々の印象に強く残ったのだろう。
- 「今でもあのレースのことを思うと怖くなる。確かにニュルブルクリンクはずっと私の好きなコースだった。しかし、あの日、私は自分自身とマシンを限界、いやそれ以上のところへまで鞭打って走った。あれ以前にそんな走り方をしたことはなかったし、その後二度と試みようとも思わなかった。どんなに素晴らしいタイトルがかかっていたとしてもだ」(『劇走! F1』よりファンジオの言葉)
- ■ 8月18日 第7戦 ペスカーラ
- ☆ペスカーラ…イタリアの都市ぺスカーラの名を冠して、'57年のみ開催された。このとき以外はコッパ・アチェルボと呼ばれたレースである。地中海沿岸をストレートで駆け抜けた後、曲がりくねった山道を突き進む。1周が25キロ半もあり、F1史上最長のコースである。
- ヴァンウォールは、直線と山道の入り混じるこの難しいコースに対して、技術的に完成されたマシンを送りこんだ。S.モスは後続に3分の差をつけて勝った。
- S.モスは初開催のサーキットに滅法強い。'55年以降、エイントリー、ペスカーラ、ポルト、アイン・ディアブ、モンサント、リバーサイドの6ヶ所を制した。逃したのはAVUS、セブリング、ワトキンズ・グレンの三つ。合計で九つ、これは、この時期グランプリが開催される国土やサーキットの増加を意味している。当初、"世界"とは名ばかりで、実質的に欧州選手権だったF1は、こうして名前負けしない立派な競技になっていった。
- ■ 9月8日 第8戦 イタリア
- バンク部分が3年ぶりに使用されなかった。
- S.モスのヴァンウォールが2連勝を遂げた。まさに新時代の幕開けといった感がある。これまでのGP優勝チームは、アルファロメオ、フェラーリ、マセラティ、メルセデスの戦前から活躍したメーカー系チームのみであった。この年のヴァンウォールの活躍が、ロータスやマクラーレンやウィリアムズといったすべての独立系チームの道を切り開いたのだ。
- ■ シーズン後
- ファンジオは5度目のチャンピオンに輝いた。歴史上最高のドライバーの一人になった。20年前、アルゼンチンの片田舎において、彼は腕利きの整備工としてならしながら、年数回のレース出場を夢見る一青年にすぎなかった。それから10年後にはアルゼンチンで三本指には入るドライバーになった。しかし、この10年の半分は、戦争の影響でレースが開催されない、無為の日々であった。これだけだったら、世界各国に同じような人が何人もいただろう。そして、その後の10年で、彼は渡欧して世界一のドライバーにもなった。しかし世界一のドライバーも歴史上数十人はいる。
- ところが、5度のチャンピオンとなると、もう歴史上一人か二人しかいない。20年前は本当にただの田舎者だった青年に、どうしてこんなことが為しえたのだろうか。当に立志伝中の立志伝である。
- ファンジオ立志伝の立役者となったマセラティは、念願のドライバーズチャンピオン輩出を達成したことになる。11月、マセラティのオルシー代表はすべてのレース活動からの撤退を表明した。フェラーリのように、連続してタイトルに挑戦し続けるには、資金も闘争心も尽きていた。
- マシン販売で資金を調達し、F1レースにワークス体制で臨むという活動は、いつの時代のどのメーカーにとっても大変なものだ。アルファロメオもメルセデスもランチアも、後のポルシェやホンダ、ルノーも、幾ばかりかの栄光を掴んだあと、サーキットを去る道を選んだ。フェラーリ1チームだけが、この夢を追い続けている。失敗したチームも多いし、エンジンのみの供給で満足するチームもまた多い。現在参戦しているトヨタやBMW、第3期ホンダの面々も、同じ困難と戦っているのではないだろうか。
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