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  F1今昔物語 1956年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 8戦中5戦が有効である。
 メルセデスとランチアが去ってしまって、フェラーリが最優位の地位に戻った。ランチア-フェラーリと呼ばれることもある。マシンも前年に譲り受けたランチア「D50」を改良したものだ。ボディ両サイドに燃料タンクが張り出している。ここにファンジオを迎え入れた。メルセデスのもう一方の雄、S.モスはマセラティに移籍した。
 '54年に開発されたマセラティ250Fは、汎用性が高く、数多くのプライベーターがこれを購入して参戦した。
 トニー・ヴァンダーベルのヴァンウォールは、新型マシンで本格参戦を開始した。自製エンジンは他車に先駆けて燃料噴射装置を備え、ドラムブレーキが一般的な時代において、ディスクブレーキを採用していた。丸々とした大柄な外観で目立っている。シャシー設計を担当したのは、数年後にロータスを立ち上げるC.チャップマンである。彼はフランスGPに予選だけ出場したりもした。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(V8) ファン・マヌエル・ファンジオ
ピーター・コリンズ
エウジェニオ・カステロッティ
ルイジ・ムッソ
他多数
メルセデス
スポット参戦
残留
マセラティ
 
E
マセラティ マセラティ(L6) スターリング・モス
ジャン・ベーラ
他多数
メルセデス
残留
 
PI
ヴァンウォール ヴァンウォール(L4) ハリー・シェル
モーリス・トランティニャン
他多数
フェラーリ
フェラーリ
 
PI
コンノート アルタ(L4) ジャック・フェアマン
ロン・フロックハート
他多数
復帰
復帰
 
 
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
エキュリー・ロジェ マセラティ ルイ・ロジェ 残留  
スクデリア・チェントロ・スド マセラティ ルイジ・ヴィッロレージ ランチア  
他多数        


 ■ 1月22日 第1戦 アルゼンチン
 ファンジオのフェラーリ初戦は、燃料パイプのトラブルでリタイヤとなった。序盤は地元でスポット参戦のカルロス・メンディテグイがリードした。
 フェラーリは、L.ムッソにファンジオとの交代を命じた。ファンジオはコースに復帰することができた。先頭のメンディテグイは派手なスピンをして脱落した。続いてトップに立ったS.モスも、やがてオイル漏れによってペースダウンを余儀なくされた。気づいてみると、一時は1周遅れだったファンジオが先頭であった。残り20周というところで、ファンジオもまたスピンし、係員の手を借りて戦列に復帰した。ここで、マセラティのテクニカル・ディレクターになっていたウゴリーニが、"押し掛けではないか"と抗議した。一昨年と同じ構図である。そして同じように、審判はファンジオの押し掛けを認めなかった。
 ファンジオは母国で3連勝を飾った。L.ムッソも分割ながら初優勝を飾った。

 ■ 5月13日 第2戦 モナコ
 ☆モンテカルロ…伝統と格式ある市街地コース、モナコGPは世界の3大レースの一つに位置付けられ、モナコでの勝利は他のGPの3勝にも値すると言われる。前年から2006年現在まで、途切れることなく開催されている。
 モナコ公国は1919年に建国された。それから10年後、タバコ製造業者でモナコ自動車クラブの要職にあったアントニー・ノゲが、国内で国際的レースを開催することを計画した。王室の協力を得て、国全体が一つのサーキットになった。
 コース幅が狭いうえに四六時中ガードレールが視界をさえぎり、直線らしい直線もない、極めてテクニカルなコースである。常にステアリングを細かく動かしてマシンの位置を調整しつつ、平均で3秒に1回のシフトチェンジ、7秒に1回のブレーキングを怠ることも許されない。唯一トンネルがあることでも有名。'73年にスタート地点にプールが出来て、そこがシケインになり、スタート位置も変わった。

 レースの模様。またもファンジオにトラブルが起きて、彼はP.コリンズと交代した。それでも終盤に最速ラップを叩き出して、2位につけるあたりは流石というところである。

 ■ 6月3日 第4戦 ベルギー
 2位にポール・フレールが入った。本当はレーサーでなく、モータージャーナリストを職としている人物である。セミプロのプライベーターとしてレース活動をはじめ、ここまで実力をあげてきたのだ。この年をもってF1を去ったが、'60年のル・マンの覇者でもある。
 また、L.ヴィッロレージは最後の入賞である。彼もこの年でF1を去る。"年齢的に世界選手権に間に合わなかった"ドライバーの一人で、表彰台にのぼること8回を数えたが、遂に優勝はならなかった。愛称は"ジージ"。初年度は大半を占めた40代、50代のドライバーだったが、この頃になると数人を数えるだけになった。今季、フル参戦しているのはファンジオのみである。

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 ■ 7月1日 第5戦 フランス
 メルセデスやランチアに続いて、フランスのブガッティもグランプリに登場した。ブガッティとは、1920〜30年代に活躍した老舗のメーカーで、第1回から3年連続でモナコGPを制するという伝説を残した。この一戦に登場したタイプ251は、エンジンが横置きミッドシップという新機軸を打ち出していた。ただし、本番では全く歯が立たなかった。予選ではトップから18秒落ちという有様であった。実際、戦争で工場を破壊され、戦後すぐ創設者を失うなど、メーカーとしても元気のない時期の挑戦であった。
 決勝前日に、E.フェラーリの子息であるディーノ・フェラーリが病死した。エンツォはこの死をひどく悲しんだ。翌々年からしばらく、フェラーリのマシンに息子の名前が刻まれることになる。
 レースでは、P.コリンズが壮絶なデッドヒートの末、E.カステロッティを0.3秒差で下した。初優勝に続く連勝である。ランキングでも堂々の首位を走っている。
 この頃ファンジオは、"自分のマシンにだけトラブルが起きる"と感じ、憂いの渦中にあった。アルゼンチンとモナコでのトラブルは前述した。ミッレ・ミリアでは、雨と通気孔のためにコクピットが水浸しになり、腰まで水につかりながら10時間余も操縦した。ベルギーGPではギアの故障。このフランスGPではチューブの穴から吹き出た燃料を顔に浴びた。レースをするたびにメカニカル・トラブルが起きていた。メカニックに故障を伝えたときの返事も、冷たく突き放すものだったという。彼はチームから冷遇されていると疑った。ノイローゼからノンタイトル戦を休むほどに落ち込んだ。

 ■ 7月14日 第6戦 イギリス
 毎年恒例になっているイギリス勢コンストラクターのスポット参戦に、特筆すべき出来事があった。4年ぶりに復帰したBRMが、序盤、MホーソーンとT.ブルックスのワンツー体制を築いたのだ。BRMはオーナーがアルフレッド・オーウェンに代わっていた。ホーソーンは今季、一戦ごとにチームを変える流浪人として参戦している。
 コンノートからは、アーチー・スコット・ブラウンというドライバーが出走した。片腕の名手として知られ、スポーツカー・レースで活躍していた。F1ではこの一戦のみの出場に終わる。彼はコンノート勢で最高位の10番手からスタートし、17周目にリタイヤするまでメーカー系の上位陣と果敢に戦った。彼のその後は、'58年5月、レース中のクラッシュにより死亡というものである。
 2位にはA.デ・ポルターゴ侯爵が入った(P.コリンズと交代して)。彼はボブスレーの当時の世界記録保持者で、スペインのオリンピック候補にあがっていた。本名が大変に長い。今季、5月に負傷したL.ムッソに替わってフェラーリで戦った。スポーツカーでも好成績を収めるなど、フェラーリの若手のホープであった…。

 ■ 9月2日 最終の第8戦 イタリア
 最終戦。チャンピオンシップの行方は、ファンジオとコリンズに絞られた。ファンジオはここ2戦を連勝して調子を取り戻した。ティフォシにとっては、地元のL.ムッソとE.カステロッティの活躍にも期待がかかった。皆フェラーリ勢というのは少し寂しい。PPはファンジオが獲った。決勝スタートで飛び出したのは、ムッソとカステロッティだった。しかし全力走行が祟り、すぐにタイヤを傷めて後退した。
 19周目、ファンジオはステアリングを壊してピットに戻った。ドライバー交代がなければリタイヤである。30周目、ムッソがピットインして来たが、交代を拒否した。2位まで挽回していたからである。36周目、コリンズがピットインして来た。このとき24歳、フルシーズン参戦1年目。優勝でのみ可能なチャンピオン候補で現在3位走行。ここで彼は、「…若い僕には何度でもチャンスはある。 チャンピオンはまだ早いサ」と、マシンを降りはじめた! 無言で彼の背中を叩く45歳のファンジオ。
 モス、ムッソ、ファンジオの順でレースが進む。残り5周でモスがガス欠を起こし、他車から押してもらってピットインしてきた。ムッソが勝利の栄冠を掴むのか!? しかし残り3周でステアリングを壊した。白熱の決勝結果はご覧のとおりである。
 コンノートが表彰台に立った。これが唯一のものとなる。アルファロメオ、フェラーリ、メルセデス…と資金力で群を抜く大企業チームが、1チームずつ数年で覇権を交代させていくのが'50年代前半の特徴である。各強豪は1レースに何台ものマシンをエントリーさせるので、独立系チームのマシンが表彰台に立つのは非情に稀有なことである。
 ロン・フロックハートもこのとき以外に目立った活躍のないドライバーである。'56、'57年のル・マンの覇者としての方が有名であろう。'60年をもってF1を去った。そして'62年にシドニー〜ロンドン間の飛行時間短縮の記録に挑み、墜落死した。

 ■ シーズン後
 ファンジオは、シーズン前半の戦いで不調をきたしながら、4度目のチャンピオンになった。G.ファリーナやA.アスカリがいない今、彼だけがタイトル保持者で、通算の勝ち星でも群を抜いている。それも40代半ばという高齢で、依然、最前線で戦っているのだ。
 なぜ彼はこんなにも強いのだろうか。他のドライバーと何が違うのだろうか。マネージャーのジャンベルトーネは、彼と初めて出会ったとき、こんな点に注目した。
 曰く、「いつもまったく同じところを、同じように正確に走り抜けた。まるでレールの上を走っているかのようだった」という。別の人もこう言っている、「あいつは頭脳を使ってレースをしている…」と。これらの言葉からわかるとおり、ファンジオは、冷静沈着に明晰な判断力を用いながらマシンを操作する点で、他のドライバーを凌駕していた。判断力が曇る全力疾走を控えめにして、7、8分のスピードで、常に最適なラインを採りながらサーキットを駆け抜けるのだ。
 また、アルゼンチン時代に自動車整備工として長く働いた経験から、メカニカルな知識も豊富であった。'51年のところでも述べたように、自分で修理して何日も走り続けるラリーの方が、キャリアとしては長いのである。ヨーロッパのドライバーはマシンの欠陥をメカニックに指摘するだけだったが、ファンジオは不調の原因を適確に見抜き、適確な修理の方法を即座に考えつくことができた。すぐに数式を持ち出す技術者にも一歩も引けを取らずに話した。
 しかし、当時のヨーロッパの自動車産業は、彼の目にこんなふうに映った。「バルカルセ(出身地)では友達と一緒にエンジンを改造し、勝利は組織のものでなく個人のものであった。このことを、どうしたらヨーロッパの技術者たちに説明できるであろうか? ヨーロッパでは、新しい技術を開発すると、全力をあげて報告書を作り、技術部門にまわす。私の修理工場で新技術を見つけると、アコーディオンを弾いてお祝いするのだと、どうしたら分かってもらえるだろうか? (自伝より)」
 とはいえ、この組織化された体質のおかげで、アルファロメオやメルセデスといった、当代最高のマシンを操ることができたのである。彼にとって7、8分のスピードでも、先頭集団を走るのに充分であった。磨かれた判断力のおかげで、アクシデントを回避することもできた。
 このように、速いマシンを丁寧に扱い、低いリタイヤ率と高い入賞率とでシーズンを戦い抜ける点が、彼の強さの秘密ではないだろうか!?

 ■ サーキットを去るウィナーたち 
ピエロ・タルッフィ Piero Taruffi
生年月日 1906年10月12日
没年月日 1988年1月12日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1950アルファロメオ-1
1951フェラーリ65
1952フェラーリ3116
1953-
1954フェラーリ-1
1955メルセデス63
1956マセラティ
ヴァンウォール
-2
10118

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