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  F1今昔物語 1952年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 8戦中4戦が有効ポイントである。アルファロメオが、資金不足によってF1から撤退した。G.ファリーナはフェラーリに移籍した。J-M.ファンジオはマセラティやBRMから呼び声がかかった。
 アルファロメオ撤退のため参加台数が減り、F2マシンで世界選手権が開かれることになった。それでも、F2に合わせたマシンを既に開発しているフェラーリ勢に敵はなかった。
 F2マシンでの世界選手権は、参加マシンのバラエティを増やすことになった。細かく紹介しきれないほどのチームが参戦し始めたのだ。エントリーしたドライバーは100人を数えた。
 ドライバーのヘルメット着用が義務づけられた。40〜50代だった年齢層にも、大きな低年齢化が見られた。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
フェラーリ フェラーリ(L4) アルベルト・アスカリ
ジュゼッペ・ファリーナ
ピエロ・タルッフィ
他多数
残留
アルファロメオ
残留
 
E、PI
マセラティ マセラティ(L6) フロイラン・ゴンザレス
フェリーチェ・ボネット
フェラーリ
アルファロメオ
PI
ゴルディーニ ゴルディーニ(L4) ロベール・マンヅォン
モーリス・トランティニャン
ジャン・ベーラ
残留
残留
新人
E
HWM アルタ(L4) ポール・フレール
ピーター・コリンズ
他多数
新人
新人
 
 
コンノート リー・フランシス(L4) スターリング・モス
他多数
HWMなど
 
 
他多数        
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
エキュリー・エスパドン フェラーリ ルドルフ・フィッシャー 残留  
個人参加 クーパー・ブリストル(L6) マイク・ホーソーン 新人  
エキュリー・リッチモンド クーパー・ブリストル(L6) アラン・ブラウン 新人  
スクーデリア・フラネーラ フレイザー・ナッシュ・ブリストル(L6) ケン・ホウォートン 新人  
他多数        


 ■ 5月18日 第1戦 スイス
 アルファロメオ撤退、F2マシンへの移行と、1952年の世界選手権は慌ただしく始まった。その第1戦には、ファンジオもA.アスカリもいなかった。前者はマセラティで参戦する手はずが整わなかった。後者は、次戦インディ500の予選に出場するために、アメリカに渡っていた。
 主役不在の開幕戦を制したのは、フェラーリのピエロ・タルッフィであった。唯一の勝利である。銀色の髪から「シルバー・フォックス」と呼ばれたイタリア人。1906年生まれだから、この時点でかなりの年齢であり、世界選手権をフルに戦うのは今季で最後である。
 イギリス勢のケン・ホウォートン(フレイザー・ナッシュ)が、4位でデビュー戦入賞を果たした。フレイザー・ナッシュはクーパーと同じくイギリスF3で活躍していたチーム。ケン・ホウォートンはF1以外にもラリーやヒルクライムでも活躍したが、'57年1月、レース中に事故死した。

 ■ 5月30日 第2戦 インディアナポリス
 これは、毎年5月末に開催されるインディ500マイルレースのことである。
 ☆インディ500マイル…F1よりずっと長い歴史を誇るアメリカのレースイベントで、第1回は1911年開催である。レース専用のトラックとしては世界で一番古い。F1のモナコGP、ル・マン24時間と合わせて、世界三大レースと呼ばれている。2.5マイル(4.023Km)を200周走る。かつて路面は煉瓦であった。優勝者はミルクをイッキ飲みする習慣になっている。乳業メーカーもこの時のために大瓶を用意する。50年代、世界選手権を標榜するF1のカレンダーに、このインディ500マイルが組み込まれていた。チームもドライバーも無関係の、名目上のF1であり、記録の扱いが難しい。

 この年はフェラーリのアルベルト・アスカリが参戦したものの、予選19位、決勝40周リタイヤと振るわなかった。彼以外にもF1ドライバーが参戦し、優勝したこともあるが、それはインディ500がF1扱いされなくなった少し先の未来のことである。

 ■ 6月の非選手権戦
 なかなか身の振り方が決まらないJ-M.ファンジオは、6月1日と6月7日、BRMを駆って、ノンタイトル戦に出場した。そして共にマシントラブルからリタイヤとなった。
 焦り始めたファンジオは、続く6月8日のモンツァGPへの出場(マセラティで)を決意した。この年、まだヨーロッパで1勝もあげていないのだ。しかし悪天候で現地への移動が困難となり、彼はL.ロジェから借りたルノーで、パリからミラノを夜通しでぶっ飛ばした。
 ファンジオがレース会場にたどり着いたとき、一睡もしていない彼の体調を皆が心配した。プラクティスに間に合わなかったので、最後尾からのスタートとなった。ずっと走りっぱなしであった。加えて、48時間前は重いBRM、さっきまでルノーの乗用車、今度ははじめて乗るマセラティという変化もあった。
 結果、ファンジオは2周目に操作を誤った。マシンは横ざまにコースを滑っていき、彼はマシンから投げ出された。自伝では、「地面にぶつかったとき自分の靴が脱げていたことに気づいた」「意識を失いながら、草や土の匂いをかぎ、故郷の田舎を思い出した」などとある。本当ならば、彼の不動の冷静沈着さがうかがえる話しである。
 この事故により、ファンジオはシーズンを棒に振った。首のギプスを取り除き、はじめて頭を動かすとき、大きな深呼吸が必要だったほどの大怪我であった。

 ■ 6月22日 第3戦 ベルギー
 レースが始まると、ゴルディーニのジャン・ベーラが5番手から飛び出し、1周だけ先頭を走った。1950〜1955年は、メーカー系チームがほとんどすべての周回においてラップリーダーであったが、その数少ない例外のひとつである。
 ゴルディーニは、フランス人アメディ・ゴルディーニによって1930年代に設立されたレーシング・チームである。アメディは1958年にルノーの技術者に登用され、チームは消滅する。クラシックカー好きの人なら、もしかしたらルノー8ゴルディーニという車のことを御存知かもしれない。その製作者アメディのチームである。
 このレースではもう一人、注目を集めた若者がいた。クーパーという草レースのマシンに乗る、マイク・ホーソーンである。雨の難コースを非力なマシンで果敢に攻め、4位に入った。このときからスーツに蝶ネクタイという有名な出で立ちである。以後も予選で上位につけ、入賞を繰り返す。それよりも驚くべきは、まだレースを始めて二年目という事実である。
 レースを制したのはA.アスカリであり、彼の有名な9連勝はここからはじまった。

 ■ 6月29日 非選手権戦 ランス
 ベルギーでいいところを見せたJ.ベーラは、一週間後のノンタイトル戦で大殊勲を挙げた。ワークス・フェラーリ勢を打ち破って、彼のゴルディーニが優勝したのだ。フランス人フランス車が地元でフェラーリを負かしたのだから、大変な騒ぎになった。"エンジンが2リットルを超えていたのだ"と疑う者もいたが、真相は不明である。J.ベーラは開幕戦でも表彰台に立っていて、無名選手の頻繁な好走に注目が集まった。

 ■ 7月6日 第4戦 フランス
 ☆ルーアン…行動を利用したコースで、迫力ある下り坂のコーナーで有名だった。1894年、人類最古のレースと言われるパリ〜ルーアン間トライアル(全長127km)が開かれた。F1の開催は'68年までの5回に留まる。

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 ■ 7月19日 第5戦 イギリス
 イギリスのコンノートが(世界選手権の)デビュー戦で入賞を果たした。'50年発足の新しいチーム。'58年にバーニー・エクレストンが一度だけ出走したことでも知られる。
 他にも、ERAやHWMといったイギリスのチームから多数が参戦したが、歯が立たなかった。
 フェラーリが速い。予選でもアスカリ、ファリーナ、タルッフィの3人は他を数秒引き離している。決勝が始まると、アスカリはその二人をも寄せつけない速さを見せた。

 ■ 8月3日 第6戦 ドイツ
 26万人もの観衆がつめかけたドイツGP、ヴェリタスやAFM、BMWから多数が参戦したが、前GPのイギリス勢と同様、こちらも歯が立たなかった。イタリア勢ばかりが目立つF1マシン事情だが、大物メルセデスがこの年のル・マン24時間を制し、近いうちにF1に参戦するのではないかという噂がもちあがった。
 ルドルフ・フィッシャーがプライベート・フェラーリを駆って4位に入り、フェラーリの上位4台独占となった。フィッシャーは本業はレストランの経営者、趣味でマシンを購入し、レースに参加した。それでも開幕戦での2位と、この表彰台とを合わせて、年間順位で4位につけた。

 ■ 9月7日 最終の第8戦 イタリア
 ここまで、フェラーリ以外で先頭を走ったのは、前述したゴルディーニの1周だけだったが、このレースは違う。マセラティのフロイラン・ゴンザレスが、前半ずっとレースを先導し続けた。この一年、チーム選びに翻弄され続けたゴンザレスは、その鬱憤を晴らすかの如く、マシンに鞭打った。しかしマセラティの燃料タンクは80リットル、フェラーリのそれは160リットルであり、フェラーリは無補給走行が可能だった。これでは勝負にならない。

 ■ シーズン後
 結局、インディアナポリスを除く7戦21の表彰台のうち、フェラーリが17を占めたシーズンとなった。残りの四つは、R.マンヅォンとJ.ベーラのゴルディーニ、M.ホーソーンのクーパー、F.ゴンザレスのマセラティである。A.アスカリは、有効得点で考えられる最大の得点(4戦全勝)で新チャンピオンになった。

 ■ サーキットを去るウィナーたち
ルイジ・ファジオーリ Luigi Fagioli
 前年、1戦だけ出場したフランスGPで、ファンジオと分割ながら勝利を遂げたL.ファジオーリ。彼はこの年、スポーツカーレースによって行なわれたモナコGPにおいて、激しいクラッシュに遭い、数週間後に亡くなった。前年の勝利は、史上最高齢優勝の記録となった。当然、戦前のグランプリを調べると、彼の活躍がそこかしこで見受けられることになる。"世界選手権の開始が遅すぎた"人物のひとりと言える。
生年月日 1898年6月9日
没年月日 1952年6月20日
国籍 イタリア
年次主なチーム順位優勝PPFL出走
1950アルファロメオ36
1951アルファロメオ911
1007

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