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  F1今昔物語 1951年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 8戦中、4戦が有効ポイントである。
 アルファロメオと同じ過給器つきエンジンでは勝ち目がないと判断したフェラーリは、非過給V12エンジン(4.5リッター/380馬力)を開発し、これを搭載した「375」でシーズンに臨んだ。設計はアウレリオ・ランプレーディ。対するアルファロメオも、「158」のサスペンションの方式を改良し、エンジンを425馬力までパワーアップさせた「159」でシーズンを戦う。
 以下は主なエントリーである。タイヤは主にピレリが用いられた。Eはベルギーのエングルベール。
ワークス・チーム エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
アルファロメオ アルファロメオ(L8*) ジュゼッペ・ファリーナ
ファン・マヌエル・ファンジオ
フェリーチェ・ボネット
コンサルボ・サネージ
残留
残留
マセラティ
新人
PI
フェラーリ フェラーリ(V12) アルベルト・アスカリ
ルイジ・ヴィッロレージ
ピエロ・タルッフィ
フロイラン・ゴンザレス
残留
残留
新人
新人
E、PI
シムカ・ゴルディーニ ゴルディーニ(L4*) ロベール・マンヅォン
モーリス・トランティニャン
残留
残留
 
プライベーター 車体/エンジン ドライバー 前年は? タイヤ
トニー・ヴァンダーベル フェラーリ(V12) レッジ・パーネル マセラティ  
エキュリー・ロジェ タルボ(L6) ルイ・シロン
ルイ・ロジェ
マセラティ
残留
 
個人参加 タルボ(L6) イブ・ジロー・カバントゥ タルボ  
スクーデリア・ミラノ マセラティ・ミラノ(L4*) オノフレ・マリモン
フランチェスコ・ゴディア
新人
新人
 
HWM アルタ(L4) ジョージ・アベカシス
スターリング・モス
新人
新人
 


 ■ 5月5日 非選手権戦 イギリス
 シーズン前のこの非選手権戦に、G.ファリーナ、J-M.ファンジオらが、アルファロメオの新車159で挑んだ。フェラーリは欠場した。
 レースは洪水のような土砂降りによって、6周しただけで中止となった。レースと呼べるのかわからないが、優勝したのはレッグ・パーネル。マシンは緑色のフェラーリであった。緑色はイギリスのナショナルカラーである。イギリス人のトニー・ヴァンダーベルが、フェラーリを買い取って参戦したものである。しばらくすると、ヴァンダーベルは自チームとして、ヴァンウォールを立ち上げる。
 アルファロメオというチームは、レース草創期から名門チームとして君臨し、1947年からボアチュレットクラス(下位カテゴリーのこと)も含めて26連勝と無敵の強さを誇ったチームである。'50年から始まった世界選手権でも、その力を遺憾なく発揮した。ポールポジションもファステストラップも明渡さないし、前述の通り、他のチームが先頭を走ることも稀にしか許さなかった。
 その連勝が、この一戦で一応止まることになった。たった6周の出来事だったので、この時点では誰もアルファロメオの勢いが翳ったと思わなかったが…。

 ■ 5月27日 第1戦 スイス
 大雨の中、アルファロメオとフェラーリの初顔合わせが行なわれた。しかしA.アスカリは怪我で調子が上がらず、L.ヴィッロレージは序盤でリタイヤした。
 レースはファンジオが独走した。ファリーナは燃料満タンでレースに臨み、それによる操縦性の悪化から、ファンジオのペースについていけなかった。ファンジオの方は燃料補給のピットインが必要だったが、そのロス時間を上回る差を築き上げて、ファリーナを突き放した。
 ファンジオの首位が確定すると、後方で激しい戦いが起こった。フェラーリ唯一の生き残り、P.タルッフィがアルファロメオに真っ向から挑みかかった。終盤にサネージを下し、残り2周というところでファリーナも下して、2位に飛び込んだ。

 ■ 6月17日 第3戦 ベルギー
 ☆スパ・フランコルシャン…全長14kmの旧コースが1970年まで使用され、約7kmの現在の姿で1983年以降、開催され続けている。現在のコースは、ラ・ソース、オー・ルージュ、ケメル・ストレート、スタブロウ、バスストップ・シケインと、名物コーナー名物ストレートの目白押しである。また、予想もつかない天候の変化が頻繁に起きることでも有名で、スパ・ウェザーと呼ばれる。この2点によって、ドライバーからもファンからも人気が高い。F1を代表するサーキットの3本指には入る。

 レースの模様。またもやフェラーリはアルフェッタについていけない。J-M.ファンジオはピットインのとき燃料補給だけでなく、修理とタイヤ交換も強いられ、14分もコースに戻れなかった。そうしてG.ファリーナの独走を許した。ファリーナは2位に3分近い差をつけて勝った。

 ■ 7月1日 第4戦 フランス
 ☆ランス…周囲に畑が広がるシャンパンの産地にある、公道を利用した高速コースである。1950年〜1966年のあいだに11回開催された。50年代は多周回で、走行距離が500kmを超えた。特に1951年は、7.8kmを77周で600kmを超えた。F1全戦中最長距離で(インディ500を除く)、ちょうど東京〜大阪間である。競技時間は3時間半近くになった。夏の盛りを3時間走るということで、多くのドライバーが半そで姿で戦った。

 当代特有の選手交代制によって、目まぐるしく首位が入れ替わる混戦となった。序盤はアスカリとファンジオがコースレコードを更新し合った。しかし、10周前後に両者ともリタイヤした。トップはファリーナに変わった。ゴンザレスとヴィッロレージのフェラーリ勢が続く。
 24周目、ファジオーリがピットインすると、チームはファンジオとの交代を命じた。ヴィッロレージが煙を吐き始めて後退した。34周目、ゴンザレスがピットインすると、フェラーリ陣営もアスカリとの交代を命じた。ファリーナ、アスカリ、ファンジオの順でレースが進む。ファリーナはピットインしても順位が変わらないほどの独走を見せた。
 45周目、ファリーナ2度目のピットイン、しかしタイヤの不調で余計な時間を食った。首位はアスカリに変わった。
 だが、フェラーリ初優勝の夢はたった5周で途絶えた。アスカリにもマシンの不調が起こり、ピットインを強いられたのだ。ファンジオが首位に立ち、そのまま優勝した。こうして分割によって勝利したL.ファジオーリは、53歳22日での優勝という最高齢記録を樹立した。
 ここまで3戦ともアルファロメオがぶっち切るが、そのいずれにもフェラーリ375が2位に食い込んでいる。アルファ159の過給器つきエンジンは、パワーはあるものの燃費が悪く、レース中のピットインを多く必要とした。また、燃費悪化に伴うタンク容量の増大によって、操縦性に難があった…。

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 ■ 7月14日 第5戦 イギリス
 ☆シルバーストン…第二次大戦時の軍用飛行場が、1948年、サーキットに生まれ変わった。飛行場であったため、路面が広く極めて平坦である。1950年、F1世界選手権はここからはじまった。初年度はイギリス王室の貴賓が招かれた。'62までエイントリーと、'63〜'86はブランズハッチと交互にイギリスGPが開催された。以降は独占開催。歴史が長いため何度かレイアウトの変更があったが、高速レイアウトである点は守られている。

 フェラーリは、前GPで好走したフロイラン・ゴンザレスに昨年型のマシンを与え、本戦も引き続き出場させた。すると、故郷アルゼンチンでも無名のこの若者は、なんと予選でPPの位置につけてみせた。決勝スタートは7番手のF.ボネットが制したが、以降ゴンザレスとファンジオの激しい戦いになった。13周目、ファンジオが1'45.2というコースレコードを叩きだす。ゴンザレスは20周目に1'45.0でこれを上回った。
 ゴンザレスは、"パンパス・ブル(草原の牡牛)"というあだ名を持つ、大柄な体格の男である。図太い腕に力を込めて跳ね馬をねじ伏せる。ファンジオは冷静沈着なドリフト走法を見せる。サーキットに歓声が沸いた。
 49周目、ファンジオがピットインすると、燃料補給とタイヤ交換で作業に1分を費やした。ゴンザレスがはるか前を走ることになった。61周目、ゴンザレスがピットインした。リタイヤしていたアスカリにマシンを譲ろうとするが、アスカリは「このまま行け。今日はお前の日だよ」と答えた。
 ファンジオは全開の走りに移り、差を縮めはじめた。大舞台で初めて首位を走るゴンザレスも懸命に逃げる。結果、51秒差でフェラーリとゴンザレスの勝ちとなった。F1開闢以来ずっと続いてきたアルファロメオの連勝が止まり、現在200勝目前のフェラーリの1勝目が、ここに達成された。
 かつてアルファロメオを追われた男、エンツォ・フェラーリは、この勝利に罪深さを感じて、「母を殺してしまった…」という有名な言葉を残した。この言葉どおり、以後GPの主役はフェラーリに移る。
 また、BRMが、16気筒という驚きのエンジンを搭載したマシンで、この一戦に参戦した。今度は決勝完走を果たした。それだけでなく5位と7位で入賞も達成した。一戦目で入賞を果たしたのは、F1史において2006年現在14チームおり、それほど珍しいものではない。本格的な参戦は'58年まで待たれる。

 ■ 7月29日 第6戦 ドイツ
 ☆ニュルブルクリンク…アイフェル山にあるニュルブルク城を囲んだ山岳コース。第一次大戦後の失業者対策のために、当時の政府が建設を企図したとされる。1周22.800キロメートルと他のサーキットよりはるかに長く、コーナー数は170以上に及ぶ。数箇所でマシンが跳ねるなど道の起伏が激しく、路面も良好と言うには程遠かった。マシンの性能が上がるに連れて危険が増すわけであり、1976年のニキ・ラウダの事故によって以後開催が途絶えた。1984年になると、全長4.5kmの新コースが南側に建設され、再びF1の開催がはじまった。

 ■ 9月16日 第7戦 イタリア
 ☆モンツァ…ミラノ市郊外にある、F1において最も歴史ある高速サーキット。世界選手権が行なわれなかったのは、唯一80年のみである。名バトルや悲劇も多く、モンツァの歴史を振り返ることは、そのままF1の歴史を振り返ることだと言えなくもない。50年代はバンクのついたオーバルも使用されていたが、危険が増したため使用されなくなった。最終コーナー・パラボリカは、気持ちよく曲がれるコーナーとして誰もが一番と認めている。また、雨が全く降らない。F1史において路面がウェットになったのは'76年の一度きりである。

 レースはフェラーリ余裕の3連勝で終わった。ゴンザレスが連続で表彰台に立ち続けている。

 ■ 10月28日 最終の第8戦 スペイン
 ☆ペドラルベス…バルセロナ郊外にある高速市街地コースである。鋭角コーナーが3つ、鈍角コーナーが3つ、あとは直線だけの単調なレイアウト。ペンヤリンGPという名前で1920年代からレースが行なわれていたが、F1は、'51年と'54年の2度の開催のみである。しかしF1の人気は高く、人びとは建物の屋根にのぼってまでレースに見入った。

 この一戦を、フェラーリはタイヤサイズを小さめにして臨んだ。これが大失敗で、決勝を6〜7周するだけで、タイヤ交換を迫られた。これまでの勢いを維持できれば、逆転王座は充分に可能であったろう。しかし戦略ミスに泣くこととなった。
 ゴンザレスはこの逆境に屈せず、独りアルファロメオ勢に戦いを挑み、2位に飛び込んだ。勝者はファンジオであった。アルゼンチンの2人が表彰台に並ぶことになった。

 当時のF1は、世界選手権とは言っても、実質は欧州選手権であり、開催国も欧州のみ、ドライバーも主に欧州人であった。そのなかで目立つ異邦人は立った3人きりだった。前述したタイのビラホンス王子、そしてこのアルゼンティニアン2名である。
 ここでアルゼンチンの歴史を紐解くと、当時の大統領をファン・ペロンといった。私生児の境遇から軍人として出世を続け、大統領になった。今現在でも毀誉褒貶の激しい、評価の難しい人物である。彼は、大戦前後を通じてファシズムとのつながりが強く、政策も社会主義的であった。当然、欧米の国とは仲良くしてもらえない。そこでレースを通じて交流を深めようと思い、国内のトップドライバーの幾人かをヨーロッパに修行に出させた。
 その一人としてJ-M.ファンジオがいた。ファンジオは、アルゼンチンにおいてロードレースで活躍した。山を越え谷を越え、マシンが壊れれば自分で直して何日も走り続けるといったレースに勤しんだ。崖下に転落して、友人であるメカニックを失ったこともあった。'49年にヨーロッパに渡ると、慣れないサーキット・レースではあったが、すぐに頭角をあらわした。F1初年度は最終戦までタイトルを争った。
 ファンジオは、今季3勝してチャンピオンとなった。大洋を隔てた遠い異国の地ではあったが、人びとは自分の国と同じ言葉を話すし、隣には同胞がいたので、喜びはひとしおであったろう。ゴンザレスも新人ながら5連続表彰台でランキング3位になった。この二人の活躍によって、F1の2年目は"世界選手権"らしい戦いとなった。

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