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  F1今昔物語 1950年 ダイジェスト

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 ■ シーズン前
 第二次大戦が終わると、ヨーロッパではすぐに自動車レースが復活した。フランスでは終戦後の9月9日にもうレースが開催された。人々は戦争下の鬱憤を晴らすべく、平和と自由と娯楽の象徴として自動車レースに熱狂した。
 1947年にパリを拠点とするFIAが組織され、正式にF1規定が誕生した。1950年には各国のグランプリを統一し、世界選手権として発足した。F1は名実ともにモータースポーツの最高峰として位置付けられることになった。戦前から当時まで、モータースポーツの統括はフランスの主導によって行われていた。「グランプリ」とはフランス語での「大賞」のことである。
 順位に与えられるポイントは初戦のとおりである。7戦中4戦で挙げたポイントが有効なポイントとして計算される。つまり5回入賞しても5回ともポイントが加算されはせず、高いものから四つを足し、その合計でチャンピオンシップが争われるのだ。
 ファステストラップを記録したドライバーに1ポイント与えられるという点が現代のF1とは異なる。またドライバーの交代も可能であった。同じマシンを二人がドライブしてもOKで、その場合はポイントが等分された。
 初年度はイタリアからアルファロメオ、フェラーリ、マセラティ、フランスからゴルディーニ、タルボ(オーナーはイタリア人)、イギリスからERAの6チームが参戦し、ヨーロッパ各国を回った。以下は主なエントリーである。エンジンの「*」は、スーパーチャージャー(過給器)つきの意である。
 レギュレーションによって過給器つきエンジンの排気量が1.5リッター以下、非過給のエンジンは4.5リッター以下と定められている。
ワークス・チーム エンジン ドライバー
アルファロメオ アルファロメオ(L8*) ジュゼッペ・ファリーナ
ファン・マヌエル・ファンジオ
ルイジ・ファジオーリ
フェラーリ フェラーリ(V12*、V12) アルベルト・アスカリ
ルイジ・ヴィッロレージ
マセラティ マセラティ(L4*) ルイ・シロン
フランコ・ロル
シムカ・ゴルディーニ ゴルディーニ(L4*) ロベール・マンヅォン
モーリス・トランティニャン
タルボ・ラーゴ タルボ(L6) レイモン・ソマー
他多数
ERA ERA(L6*) ボブ・ジェラード
ガス・ハリソン
プライベーター 車体/エンジン ドライバー
個人参加 アルファロメオ ピーター・ホワイトヘッド
エンリコ・プラーテ マセラティ B.ビラ
E.デ・グラッフェンリード
スクーデリア・アキッレ・バルツィ マセラティ フロイラン・ゴンザレス
スクーデリア・ミラノ マセラティ・ミラノ(L4*) フェリーチェ・ボネット
他多数    


 ■ 5月13日 第1戦 イギリス
 記念すべき世界選手権第1戦を制したのは、アルファロメオ・ティーポ158・直列8気筒スーパーチャージャーつき(1.5リッター)に乗るイタリア人、ジュゼッペ・ファリーナであった。
 この年はG.ファリーナ、J-M.ファンジオ、L.ファジオーリの3人が滅法に速く、「アルファの3F」と呼ばれた。予選でもこの3人が上位を占め、ラップリーダーもこの3人であった。
 フェラーリは金銭問題のために出場を辞退した。
 この一戦には英国王室の面々が観戦に訪れた。国王がスタート前にドライバー全員と会話した。厳かな催し物なのだ。観客もスーツを着ている人が大半である。現代のグランドスタンドなどはなく、地面に座ったり立ったりして観戦している。野原での観戦風景などは管理人が小さい頃の運動会を思い起こさせる。
 当時のF1でシートベルトやヘルメットが義務づけられていなかったというのは、現代の感覚からすると異様な気がする。

 ■ 5月21日 第2戦 モナコ
 市街地コース、モナコでの第2戦ではスタート直後に波乱が起きた。予選2番手のファリーナが高波で濡れた路面で滑り一回転、後続車をさえぎった。次々に衝突が起こり、9台がリタイヤとなった。
 順調にレースをスタートしたのはアルファロメオのファンジオとフェラーリのヴィッロレージだけだった。ファンジオが事故現場を通過するとき、係員の指示が間違っていて彼は行き止まりの方に向かわされた。困惑した彼は、手で後輪のタイヤを回し3mほどバックさせた。このとき、タイヤの熱が手袋を通して掌を痛めつけたという。この当時から既にタイヤは1周目の時点で高温だったという証拠である(『ファンジオ自伝』より)。
 ファンジオはそのまま独走して勝った。このときの優勝スピード98.701km/hは、史上最も「遅い」速度として、現在まで記録になっている。よほどのことがない限り更新されないだろう。

 ■ 6月4日 第4戦 スイス
 ここで、F1世界選手権の前史を簡単に紹介しよう。1930年代、イタリアの名門アルファロメオはレース活動をエンツォ・フェラーリという男のマネージングに任せていた。チームの名は「スクーデリア・フェラーリ」と言った。やがて、アルファロメオはF1活動に復帰する際にエンツォをお払い箱にした。
 「フェラーリ」と名の着いた車が再びサーキットに登場したのは戦争を跨いだ1947年のこと。翌年には「フェラーリ125」がイタリアGPでデビューし、3位になった。そのときの優勝がアルファロメオ・ティーポ158だった。
 アルファロメオは'49年を欠場し、その間フェラーリが実績を築きあげていく。そして今季、世界選手権制度の開始により、アルファ158(通称アルフェッタ)は再びサーキットに戻ってきた。チームとしては親子とか師弟対決の始まりと言える。

 ビラ王子が2戦連続で入賞した。本名をビラホンス・ハヌバン王子と言い、タイの皇太子である。イギリスに留学中であった。世界選手権では目立たないが、当時の他のレースでは頻繁に上位に食い込んだ。特に戦前は大活躍で、バンコクでGPが開催される予定が立ったほどだった(戦争で中止に)。1985年に死去。バンコク郊外には彼の名を冠したサーキットが今でも残っている。

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 ■ 6月18日 第5戦 ベルギー
 4戦を過ぎてもアルファロメオ以外のチームがトップを走ることはなかった。しかしこのベルギーは違った。アルフェッタの燃費が悪くピットインを強いられる隙に、タルボのフランス人、レイモン・ソメールが先頭に立ったのだ。15周目に2位との差を26秒にまで広げた。彼は戦前から活躍した大ドライバーで、ルマン連覇の実績も持つ。今季シーズン終了直後のイベントで事故死する。
 ソメールは20周目にエンジンブローでリタイヤした。しかし、タルボはL.ロジェが2戦連続で3位表彰台に立つなど力を示した。タルボとはイタリア人アントニオ・ラーゴがフランスで起こしたチームで、翌年限りでGPから撤退する運命にある。

 ■ 7月2日 第6戦 フランス
 本戦でキャリア唯一の3位表彰台を達成したピーター・ホワイトヘッド。戦前は優勝したこともあったし、翌1951年のルマンの覇者でもある。'58年、レース中に事故死した。

 ■ 7月〜9月間の非選手権戦
 この当時ノンタイトル戦が盛んに行われ、ポイントはつかなかったが、ドライバーたちは本気で戦った。世界選手権での年間タイトルはまだ"おまけ"のようなもので、初期においては一戦一戦での勝利が重んじられた。ノンタイトル戦がシーズンの流れに影響を与えたこともあったので、当サイトではできるだけ記すことにする。
 7月9日、イタリアのバリでグランプリが開かれた。フェラーリは欠場し、アルファロメオが独走した。ファンジオとファリーナが争ったが、ファンジオは最終ラップでガス欠を起こし敗退した。チームに燃料補給ミスがあったのだ。イタリアのGPでイタリア人が勝つための故意のものだったという疑いも成り立つ。ファンジオ本人はそうは考えなかったという。
 7月17日、アルビ・グランプリが開かれた。ファンジオは今回マセラティに乗った。独走した彼はまたも最終ラップにトラブルに見舞われた。マシンから火の手が上がったのである。フロントエンジンだったので、濛々たる煙を浴びながら最後の直線を駆け抜けたが、R.ソメールに追い抜かれてしまった。
 一週間後、ザンドフールトでオランダGPが開かれた。マセラティは今回もちょっとした火事を起こした。被害は小さく、フロイラン・ゴンザレスは無傷でレースに復帰できた。優勝したのはタルボ・ラーゴのL.ロジェであった。
 この年の夏は日曜ごとにレースがあった。7月30日、ジュネーヴにてグランプリ・ド・ナシオンが開催された。フェラーリはスーパーチャージャーなしの4.5リッターマシンをはじめて用意してきた。格段にアップしたフェラーリの馬力はしかし、惨劇を起こした。オイルでスピンしたヴィッロレージがマシンから放り出されてしまったのだ。無人のマシンはさらに突っ走り、柵に激突した。柵のそばにいた観客には死傷者がでた。レースの勝者はファンジオだった。
 8月15日にはペスカーラGPが開かれた。ファジオーリとファンジオが最終周までランデブーを組んだ。今度の最終周トラブルはファジオーリの方に起きた。右前輪のスプリングが突然折れ、彼はコースから飛び出そうになった。追いついたファンジオがギアをローに変え、彼の勝利を後押しした。ファジオーリは、ラクダのような跳ね方でイタリアの街角を進み、最後のストレートまで来た。ここで、タルボのロジェがアルファロメオの二人に追いついた。ファンジオはためらいながらも、ファジオーリを置き去りにし最初のチェッカーを受けた。―(ここまで『ファンジオ自伝』より)
 …これらは当時盛んだった非選手権戦の一部にすぎない。毎週毎週、数々のレースが行なわれ、そのうちの一部に世界選手権としてポイントが与えられ、タイトルが懸けられていたにすぎないのである。

 ■ 9月3日 最終の第7戦 イタリア
 ファンジオ26点、ファリーナ22点で迎えた最終戦。イタリアの新聞には、"外国人がイタリアのマシンで初代タイトルに輝くのは道義上よろしくない"と書きたてたものもあった。
 注目の決勝、ファンジオは18周目に本人曰く訳のわからないトラブルを起こしてリタイヤした。アルファロメオの重役はP.タルッフィを呼び、ファンジオと交代させた。しかしこれも調子を落としてリタイヤした。
 初代チャンピオンはファリーナが逆転で手にした。真面目なファンジオは度重なる不運のことは不問にし、チームメイトの勝利を称えた。"チームの謀略があったのではないか"という流言飛語もあった。しかし、そんなものに耳を貸したら、チームメイトの栄誉に傷をつけることになるのだ。
 このときのフィリップ・エタンセランの入賞は、最高齢での入賞記録となっている。53歳249日。前後ろ逆に被っていた帽子がトレードマークだった。1981年死去。

 結局、インディアナポリスを除く全戦391周のうち、アルファロメオはトップを7周しか他に譲らなかった。

 ■ 10月末 非選手権戦 ペンヤリンGP
 シーズン後、スペインのペドラルベスを舞台にしたペンヤリンGPが行なわれた。アルファロメオはこれを欠場し、フェラーリが1〜3位を独占した。続いてBRMが4位に入った。
 このBRMは、F1史の今後において大きな役割を果たすことになるイギリスのチームである。レイモンド・メイズらによって1947年に創設された。創設時、各方面から資金援助を受け、イギリス産業の威信が懸けられていた。このとき、イギリスはレース界において全く低迷していた。
 そうした純英国産のチームは、F1初年度、430馬力というエンジン(過給器つき)を作り上げた。当時、アルファロメオ330馬力、フェラーリ280〜330馬力、マセラティ260馬力、タルボ280馬力と言われていたから、オバケのようなパワーを持っていた。ただし構造が複雑で車体も未完成だったために、選手権での出場はならなかった。
 イギリス人のF1レースに懸ける情熱は今しばらく宙を漂うことになる。

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